第五話「灰を這う令嬢」2
高等記録院の古い書庫は、朝いちばんの空気がいちばん冷たい。
日の差し込む前の石造りの建物というのは、まるで紙を守るために人の体温を拒んでいるみたいだ、とエレノアは思う。
分厚い扉、細い窓、乾いた棚。そこに詰まっているのは祈りでも慈悲でもなく、名前と日付と印章だけでできた、人の暮らしの骨である。
「旧断絶貴族家の死亡記録と、焼失後の接収目録を照会したいのですが」
朝番の書記官は、眠たげな目を一度上げ、それからエレノアの外套の徽章を見て、あからさまに嫌そうな顔をした。
「調停士殿。ずいぶんと朝がお早い」
「案件が夜更かしをしましたので」
嫌味のつもりで言ったわけではない。
だが書記官は一瞬だけ口元を引きつらせた。
「家名を」
「旧アシュベル伯爵家」
その名を出した途端、相手の指が止まった。
ほんの一拍。けれど、止まったこと自体が答えだった。
「……断絶家記録は封印区分がございます」
「封印理由の照会を」
「それも区分外です」
「では、閲覧不可の決裁者名だけでも」
「区分外です」
見事なくらい、何も出さない返しだった。
エレノアは相手の顔を見た。
書記官は視線を合わせない。面倒を避けたいだけの顔ではない。触れてはいけない熱い鍋の蓋を、うっかり指先で押してしまった人間の顔だ。
「死亡記録そのものも?」
「……写しはあります」
出てきたのは、薄い一枚だった。
旧アシュベル伯爵家。
焼失。
家人死亡、確認済。
生存者なし。
簡潔すぎる。
死者の名が並んでいない。確認官の署名も省略印だ。こんな乱暴な記録は、地方の納税滞納帳でもそうそう見ない。
「これだけですか」
エレノアは紙を持ったまま言った。
「焼失家屋の死亡確認なら、ふつうは人数の内訳か、照会先くらいは残るはずです」
「正規写しはそれだけです」
朝番書記官は視線を逸らした。
「補助控えは封印区分のこともあり――」
そこで言葉が止まる。
「補助控えがあるんですね」
エレノアが即座に拾うと、相手はしまった、という顔をした。
「閲覧権限は」
「案件照会に必要です」
「それは上へ確認を」
「では確認してください。今ここで」
押し切られるのを嫌がるように、書記官は奥の棚へ消えた。
戻ってきた時、その手には薄い控え紙が数枚だけあった。正式簿ではない。綴じ穴の位置もまばらで、あくまで内部照会用の写しに見える。
エレノアは一枚ずつ目を走らせた。
焼失確認。
接収立会。
家名確認。
家人処理、口頭済。
記録省略。
要再掲なし。
「……ひどい」
帳面が粗いことではない。
おそらく人の生死まで、こんな書き方で片づけていることが。
漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。
「だから、綺麗に残らんのさ」
近くの棚で写本整理をしていた白髪の老書記が、紙束の陰からぼそりと呟いた。
朝番書記官がぎろりと睨む。
だが老書記は知らぬ顔で紐を結び続けた。
「これが、ただの手抜きじゃないことは分かります。ですが、どういう時にこう書くんです」
「確認しきれん時だ」
「確認しきれない?」
「あるいは、確認しきれなかったことにしたい時だよ」
紙の端を持つ指先が冷えた。
家人処理、口頭済。
生存者なし。
だが、その二つのあいだに、本当に同じ意味が通っているのかは分からない。
「……死んだことにされた者がいるかもしれない、ということですか」
朝番書記官は答えない。
老書記も、今度はすぐには口を開かなかった。
その沈黙だけで十分だった。
焼け跡で拾った帳片が脳裏を過る。
あれは、どこに何を置くか、見失わないための実務の紙だった。
対してこちらは、人がどうなったかを見失わせるための紙だ。
同じ記録でも、向いている先がまるで違う。
「何かご存じですか」
「何も。何も知らん。だが、人の噂ならよく知っとる。死んだはずの令嬢が、夜になると王都の下を這っている、とかな」
空気が、一瞬だけ止まった。
「……令嬢」
「噂だよ」
老人は肩を竦める。
「古い礼拝堂跡のあたりでな。夜半に馬車が入る。表の扉じゃない。荷を運ぶ横口だ。貴人の荷は、人の目に触れんところを通るもんだろう」
朝番書記官が舌打ちに近い息を吐いた。
「年寄りの戯れ言です、気になさらず」
「気になります」
エレノアは即答した。
「地図を借ります。旧礼拝堂区画と地下水路図、それから閉鎖搬入口の台帳を」
嫌そうな顔が、今度は露骨になった。
だが拒めないと悟ったらしい。書記官は棚の奥から、埃っぽい図面束を出してきた。
古い王都は、地上より地下のほうが正直だ。
いまは塞がれた排水路。
使われなくなった巡礼路。
礼拝堂へ供物を運び込むための荷搬入口。
そして、現行台帳からは消されているくせに、古図にはまだ残る横道。
エレノアは図面の上に指を置いた。
旧北区礼拝堂跡。
再整備未着手。
封鎖扱い。
ただし、給水路保守のため側面搬入口のみ限定解錠。
その脇に、小さな走り書きがある。
夜間通行、王璽印あれば妨げず。
エレノアの指先が止まった。
王璽印。
法務局預かりでも、教会管理でもない。
王の印でしか開かない横口が、こんな場所に残っている。
「……何ですか、これは」
誰に向けた問いでもなかった。
だが老書記が、紙の向こうで乾いた声を返した。
「元は古い都だ。綺麗な表通りを整備しようと思えば同じだけ、都合の悪い裏通りがあるということだろうさ」




