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第五話「灰を這う令嬢」1

 人は、信じていたものに裏側があると知った時、すぐには怒れない。


 まず来るのは、妙な静けさだ。

 足元の石が、一枚だけ別の材でできていたと気づいた時みたいな、薄くて、冷たい違和感。

 そこに立ったままではいけないと分かるのに、ではどこへ退けばいいのかが、すぐには分からない。


 宿へ戻ってからも、エレノア・ヴェイスはしばらく寝台に横になれなかった。

 焼け跡で見たものが、目を閉じるたび順番を変えて浮かぶ。焼けた帳片。盗まれた索引。灰に埋もれた家名。

 そして、懐中時計を握ったまま、ほとんど何も言わなかったカイルの横顔。


 向かいのカイルの部屋は静かだった。

 疲れて眠ったのならそれでいい。だが、あの顔で素直に眠るとは、どうしても思えない。


 確かめるだけ。

 誰に言い訳するでもなく、心の中でそう言って、エレノアは廊下へ出た。


 カイルの部屋の扉をノックするが返事はない。鍵は掛かっていない。


 扉を開くと部屋は暗く、窓が半ばだけ開いていた。夜風が薄いカーテンを揺らしている。

 寝台は、やはりもぬけの殻だった。掛布は乱れていない。最初から横になる気などなかった人間の部屋だ。


 そして枕元には、焼け焦げた懐中時計の残骸だけが置かれている。


「……本当に、寝る気はなかったんですね」


 返事はない。

 あるはずもないと分かっていても、言葉にせずにはいられなかった。


 寝台の脇に膝をつく。

 懐中時計は、昼に見た時よりいくらか煤が払われていた。指先で拭った跡がある。持ち出さず、ここへ置いていった。


 懐中時計をそっと開く。


 蓋の内側、熱で半ば溶けた刻印。

 読めるのは、懐中時計の持ち主の名前らしい文字列の残骸だった。


 ――カイル


 その欠片を見下ろしながら、エレノアは小さく息を吐いた。


 給仕。

 仕えていた家。

 昼の顔。

 そして、この時計。


 ばらばらに転がっていたものが、繋がり始めている。

 だが繋がった先に何があるのかは、まだ見えない。ただ、その先に自分の知らない男が立っていることだけは、いやでも分かった。


「……ああ嫌だ」


 思わず口に出た。


 カイルが逃げたことに対してではない。

 何も言わずに行ったことに対してでもない。

 自分に何も言えないまま行かなければならなかった、その頑なさに対してだ。


 エレノアは懐中時計を包み直し、立ち上がった。

 窓辺へ寄る。


 夜気は冷たい。

 下を覗くと、宿の裏手へ降りる細い雨樋の脇に、擦れた跡があった。長靴の爪先で石壁を蹴った白い粉。窓枠にも、ごくわずかに煤がついている。

 外套の裾か、手袋か。たぶん、懐中時計と同じ灰だ。


 最初から正面の階段を使う気がなかったのだ。

 番台にも、廊下にも、足取りを残したくなかったのだろう。誰に知られるのも嫌だった。

 少なくとも、向かいの部屋の女に気づかれて呼び止められるのだけは避けたかったに違いない。


「……本当に感じが悪い」


 今度は、少しだけ本気で言った。


 朝まで待つ、という選択肢はあった。

 調停士としてなら、それが正しいのかもしれない。単独行動は避け、役所へ報告し、記録を揃え、人手を借りる。いつもならそうしただろう。


 だが、いつもの自分でいられないことくらい、もう分かっていた。


 エレノアは自室へ戻ると、外套を着直し、手帳と小型灯、懐中時計の包みだけを持った。

 扉を閉める前に一度だけ立ち止まり、目を閉じる。


 神よ。

 奇跡ではなく、見落とさぬ目を。


 それだけを心の中で言って、廊下へ出た。


 宿の裏手へ回った時には、もう人影はなかった。

 雨樋は止まり、路地は冷え、石壁に残った白い粉だけが、ついさっきまでそこに誰かがいたことを示している。


 小型灯の蓋を開け、地面へ光を落とす。

 轍はない。馬も待っていない。

 あるのは、湿った石畳の上を横切る、靴底の擦れが二歩ぶんほど。それも路地の角で消えた。


 追えると思った自分が甘かった、とエレノアは思う。

 夜の王都で、行き先も告げずに消えた男を、一人で追う。祈りではどうにもならない種類のただの無謀だ。


 それでも宿の裏手から二本先の通りまで見に行き、橋のたもとまで確かめ、夜警に怪しまれかけて正気に戻り、ようやく足を止めた。

 どこにもいない。


 当然だ。

 見つかるようなら、最初から窓は使わない。


 エレノアは橋の欄干に手を置いた。

 水の匂いがする。夜明け前の王都は、人の少ないぶんだけ大きく、冷たく感じられた。


 カイルを追うなら、足跡では足りない。

 あの男が自分で語らないなら、代わりに語るものを追うしかない。


 無意識に、胸元へ指が触れた。

 小ぶりな銀のブローチ。王冠の下、細い軸に吊られた天秤を刻んだ、調停士だけに許された徽章。


 旧くは神の裁きを示したはずのかたちを、いまは王の法が掲げている。

 その意味を、エレノアはまだ疑ったことがなかった。


 家名。

 焼失記録。

 接収目録。

 死んだことにされた人間がいるなら、その嘘はたぶん、紙の上にいちばん薄く残る。


 追えないなら、追えるものを追うしかない。

 人ではなく、家名を。足跡ではなく、記録を。


 空がかすかに白み始める。

 鐘が一つ鳴るより先に、高等記録院の朝番は扉を開ける。


 エレノアは欄干から手を離した。

 眠る気は、もうなかった。


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