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第四話「焼け跡の紋章」3

 天幕の下には、布をかけられた品がいくつか並んでいた。

 銀の燭台、歪んだ聖杯、焼け焦げた額縁の金具、鍵束、箱の破片。どれも火事場の奇跡みたいな顔をしている。残っただけで価値を持たされた品々だ。


 だが人のざわめきは、その一角だけに向いていなかった。


「まだあるぞ!」


 解体人足の一人が叫ぶ。


 人垣が波打つ。

 崩れた床下から、小さな鉄枠の箱が半ば露出していた。こじ開けられた蓋の隙間から、くすんだ銀の光が覗いている。

 人足が箱を引き上げる。浅い盆のような銀器だった。縁には葡萄蔓の細工。中央には、焼けと煤で潰れかけた紋章。


 周囲から勝手な声が飛ぶ。


「見なさい、あの意匠!」

「うちの分家筋の寄進印だ!」

「いや、保管刻印かもしれん!」


 エレノアは目を凝らした。

 まだ判別しにくい。だが形そのものに妙な違和感がある。宴席の皿にしては浅すぎる。

 祭具にしては柄がない。縁だけが不自然に丈夫で、中央より外周の摩耗が強い。


 皿ではない。

 何かを載せて運ぶための盆だ。

 封印文書か、小箱か、証票か。そういう薄くて壊れやすいものを。


 その時、すぐ後ろで低い声が落ちた。


「違う」


 ざわめきの中でも、妙にはっきり聞こえた。


 振り向く。


 カイルが銀盆を見ていた。

 目の底だけが、固く冷えている。


「それ、本家の紋じゃない」


 ざわめきが、すぐには戻らなかった。


 言い争っていた男女が揃ってカイルを見る。再整備局の書記官も、人足も、箱を抱えたまま固まっている。

 誰もが同じことを考えた顔だった。どうして、そんな細部を知っているのかと。


 先に声を上げたのは、羽根飾りの婦人だった。


「では、あなたはあれがどこの家のものか、お分かりになるの?」


 カイルは婦人を見なかった。銀盆だけを見ている。


「断言はできない」


「先ほどは断言なさったではありませんの」


「本家じゃないと分かるのと、どこの分家かを当てるのは別だ」


 低い。短い。いつものぶっきらぼうな調子に戻したつもりなのだろう。

 だが戻し切れていない、とエレノアには分かった。声の底に、まだ硬いものが残っている。


「あなた」


 エレノアは一歩だけ近づいた。

 カイルがようやく彼女を見る。


「どうしてそれを知っているんです」


「貴族の紋章くらい、王都暮らしなら目に入る」


「葡萄蔓の返しで本家筋と分家筋を見分けるほどに?」


「たまたまだ」


「便利な言葉ですね」


 周囲の視線が、一斉にこちらへ寄る。

 書記官が困ったように咳払いした。


「ええと、その、調停士殿。もし識別の手掛かりがあるなら、記録の補助として大変ありがたいのですが」


「ありがたくありません」


 エレノアは即答した。


「ありがたいのは、出どころの明確な情報だけです。思いつきや自称の見立てを帳面に入れると、あとで全部腐ります」


「は、はい」


 しゅんとする書記官の横で、カイルが小さく鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのかは分からない。


 エレノアは銀盆へ目を戻す。


「記録します。現時点では『紋章判読困難、分家意匠の可能性あり』まで。断定はしないでください。あと、この盆は単独で箱に納めてください。出土位置も」


「は、はい」


「それと、人目のある場所に置かないで。皆さん、価値があると分かった途端に手癖が悪くなっていますから」


 何人かが気まずそうに視線を逸らした。

 王庫預かりを主張していた男だけは、露骨に眉をひそめる。


「失敬だな、調停士殿。我々はあくまで正当な権利を――」


「正当な権利を主張する方ほど、保全の手順を守ってください。触れた痕が増えるだけで、後から記録の価値が落ちます」


 エレノアは言った。

 男はなお不満そうだったが、言い返す前に人足が気を利かせて箱を天幕のほうへ運び始めた。


 その時だった。


 箱の底から、からりと乾いた音がして、小さな金属板がひとつ落ちた。

 誰も反応するより先に、カイルが動いた。


 しゃがみ込む。

 拾い上げる。

 あまりに自然で、あまりに早かった。


 エレノアはその一連の動きに、ぞっとするほどの無駄のなさを見た。鍛えられた剣士の動きというだけではない。

 何かを落としたと知った瞬間に、それがどれほど小さくても、誰より先に確保しなければならないものだと身体が決めている動きだった。


「……戻してください」


 エレノアが思わず言うと、カイルは手の中の品を見たまま止まった。


 真鍮の薄板だった。紋章飾りには見えない。小さな穴が二つ、端に打たれている。箱の蓋や棚に打ち付けるためのものだろう。

 焼けて黒ずんだ地に、葡萄蔓の枝ではなく、区切り線と記号のような刻みが残っている。


 見せてもらうと、片側に潰れた小紋があった。

 本家の華やかな紋ではない。もっと無骨で、簡略化された印。家の飾りではなく、何かの識別札に近い。


「これも天幕へ」


 エレノアは書記官に渡した。


「単独で記録してください。装飾品ではなく識別板の可能性があります」


「し、識別?」


「ええ。箱か棚の」


 書記官が目を瞬いた。

 周囲の貴族たちは意味が分からない顔をしている。


 その隙に、エレノアは声を落とした。


「カイル。あなた、この家を知っているんですね」


 返事はない。


「さっきの銀盆だけではありません。いまの動きも」


「動いたら悪いのか」


「悪いとは言っていません」


「なら放っておけ」


 取りつく島もない。

 だがその拒絶が、かえって答えだった。


 彼は知らない家に対して、こんな沈黙のし方はしない。

 知らない焼け跡に対して、こんなふうに呼吸まで浅くはしない。


「放っておけません」


 エレノアは言った。


「あなたは私の護衛です。そして私は、この件の調停士です。現場で何か知っている人間が、それを隠して平然としていられると思わないでください」


「平然としてるように見えるなら、目がいいとは言えないな」


 棘のある返し。

 だが、それすらいつもの切れがない。


 天幕のほうでまた小競り合いが起きたらしく、誰かの怒鳴り声が上がる。書記官が青い顔で駆けていく。

 人足たちもぞろぞろそちらへ引っ張られ、焼け跡の手前に一瞬だけ隙間ができた。


 崩れた玄関柱。

 黒く割れた石段。

 半ば焼け残った壁に、煤の筋。


 カイルの視線が、そこへ吸われる。

 もう誤魔化しようがないとでもいうように、彼は小さく息を吐いた。


「……昔の勤め先だ」


 風が通る音のほうが大きいくらいの声だった。

 だがエレノアには、はっきり聞こえた。


「勤め先?」


 鸚鵡返しにすると、カイルは少しだけ目を閉じた。

 それから、諦めたように言い直す。


「仕えていた家だ」


 エレノアは、すぐに次の言葉が出てこなかった。


 仕えていた。

 その一言で、今までの違和感が別の形を取り始める。


 妙に整った所作。

 荒事しか知らないような顔をしているくせに、時々混じる古い礼儀。

 言葉遣いの端に残る、消し切れていない執事めいた硬さ。

 そして、貴族家の紋章を見て、反射みたいに口をついて出た訂正。


 全部が、一本の線で繋がっていく。


「アシュベル家に?」


 カイルは答えない。けれど否定もしない。

 それだけで十分だった。


「なぜ今まで黙っていたんです」


「言う必要がなかった」


「あります」


「お前にはない」


 ぴしゃりと返され、エレノアは眉を寄せた。


「あります。少なくとも今、この場では」


「今この場だからこそ、ない」


「意味が分かりません」


「分からなくていい」


 そう言って、カイルは踵を返しかける。


「またですか」


 足が止まる。


「この前の神罰の井戸事件でもそうでした。あなたは触れられたくないところに手が届くと、すぐそこで扉を閉める。けれど、何もなかった顔だけはするんです。あれは一番たちが悪い」


「説教か」


「確認です」


 エレノアは一歩だけ詰めた。


「この件は、あなた個人の昔話では済まない可能性があります。保全手続きに瑕疵がある。家紋照会にも欠落がある。しかも今もなお、誰かが価値のあるものを持ち去ろうとしている」


 そこで一度言葉を切る。


「そんな場所に、あなたの過去が重なっている。ならもう、私の案件です」


 カイルはしばらく何も言わなかった。


 春の風が、焼け跡の灰を薄くさらう。

 その向こうで、誰かが箱を運べと叫んでいる。どこにでもある現場の騒がしさなのに、この一角だけ別の時間に取り残されたようだった。


 やがてカイルは、焼け残った壁の一点を見たまま口を開く。


「……帳面を先に見ろ、お前の得意技だ」


「話を逸らさないでください」


「逸らしてない」


 彼は言った。


「たぶん、そっちのほうが早い」


「早い?」


「俺の口から聞くよりな」


 その言い方に、エレノアはわずかに背筋を冷やした。

 まるで、この焼け跡そのものが何かを知っていて、帳面と遺物のほうが人間より正直だと言っているみたいだったからだ。


 その時、天幕のほうから悲鳴に近い声が上がった。


「誰だ、今の!」



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