第四話「焼け跡の紋章」4
書記官の怒鳴り声に続いて、人がどっと走る気配。
エレノアとカイルが同時に振り向く。
天幕の端が揺れていた。
布の隙間から、黒い影がひとつ、素早く抜ける。
書記官が叫ぶ。
「発掘品だ! ひとつ持っていかれた!」
次の瞬間には、もうカイルが走り出していた。
あまりに速く、エレノアは一拍だけ遅れた。
だが遅れている場合ではない。
「落ち着いてください!」
エレノアは声を張った。
「誰も発掘品に触らないで。盗まれたものだけ確認します!」
天幕へ駆け込む。
布を乱暴に剥がした。銀の燭台、歪んだ聖杯、鍵束、焼けた箱の破片、浅い銀盆――重く、かさばるものは残っている。
「……違う」
空いているのは一角だけだった。
布の端に残る黒い煤。
その上に、小さな灰の筋。
もともとそこに置かれていたのは、重い銀器ではない。焦げた紙束か、薄い木札か、それに近い軽いものだ。
金ではない。
記録か、その手掛かり。
エレノアは振り向いた。
「書記官殿!」
「は、はい!」
「盗まれたのは帳片か札です。銀ではありません。現場を動かさないで、一覧と在場者の名だけ押さえてください!」
「い、一覧を――」
「あとで照合します。今はそのまま!」
それだけ言って天幕を飛び出す。
黒い外套が、人垣の向こうでひるがえったのがまだ見えた。
煤けた門柱のあいだへ消えかけている。
「発掘品はそのまま! 誰も触らないで!」
言い置いて、エレノアも走り出す。
*
旧貴族街の焼け跡は、現役の街路よりずっと走りにくい。
割れた石畳。落ちた梁。蔦に足を取られる塀の際。使われなくなった道は、道の顔を忘れかけている。
エレノアは裾を押さえ、息を切らしながら角を曲がった。
前方ではもう、黒い影が二つ、ひとつ先の曲がり角へ消えかけている。
ひとつはカイル。
もうひとつは盗人だ。
盗人は細身で、路地を走ることに慣れた身のこなしだった。崩れた塀を踏み台にし、半壊した門を一息に飛び越える。
だがカイルの足は、それより静かで速い。
カイルが追いつく。
そう見えた矢先、前方で白いものがふっと散った。
「あっ」
盗人が灰か、消石灰かをばら撒いた。
この距離では詳しくは分からない。ただ、視界を奪うための小細工だということだけは分かった。
次いで、甲高い金属音が一度。
それから、短い悲鳴。
エレノアがさらに走って次の角を抜けた時には、もう決着はほとんどついていた。
盗人は石畳に片膝をつき、肩口から血を流している。
落ちた短刀が足元で鈍く光り、その喉元には、カイルの細身片手剣が寸分違わず添えられていた。
左手の捕縛短剣は半ば外されたまま。
相手の利き手だけを潰し、逃げ道だけを消し、盗人の命だけはまだ取っていない。
そんな形だった。
「盗ったものを出せ」
声は低い。
怒鳴っていない。だから余計に冷たかった。
盗人は歯を食いしばり、空いている手で胸元を押さえた。
そこに焼け焦げた包みがあるのだろうと、エレノアにもすぐ分かった。
「早く出せ」
カイルがもう一度言う。
「二度は言わない」
その二度がどういう意味か、盗人も分かったらしい。肩の傷より、喉元の刃より、盗人がいちばん怯えたのは声のほうだった。
盗人の震える手が胸元へ伸びる。
布の内から、焼け焦げた小さな包みが半ば引き出された。
その時、瓦礫の陰から別の男が飛び出した。身を低くし、倒れた仲間の脇へ滑り込むような軌道だった。
一直線に狙ったのは、盗人の手からこぼれかけた包みだった。
仲間を助けるためではない。中身だけを奪い返すための動きだと、エレノアは悟る。
だが男の手が届く前に、カイルの左手が動いた。
捕縛短剣の柄頭が顎を打ち上げ、踏み込みの勢いを殺す。よろめいたところへ足を払う。男の体が半回転して石畳へ叩きつけられる。
衝撃が強かったのか、男は立ち上がれず倒れ伏したまま呻いている。
その一連のあいだ、右手の細身片手剣は、最初の盗人の喉元から指一本ぶんも外れていなかった。
エレノアは息を呑んだ。
制圧、という言葉でまとめるには、動きが冷たすぎる。
必要だから止めた、ではない。止める形をいくつも知っていて、その中でいちばん早く、いちばん壊しやすい順から選べる人間の動きだ。
「……生きていますね」
「不満か」
「確認です」
エレノアは視線を盗人たちへ置いたまま言った。
「あなたの確認は、たまに怖い方向へ寄るので」
カイルは答えなかった。
答えなかったが、剣先がほんのわずかに下がる。その僅かな動きだけで、今の言葉が届いたことは分かった。
エレノアは慎重に近づいた。
「包みはこちらで預かります」
「……くそ」
男は呻いたが、喉元の刃を前にそれ以上は動けない。
エレノアは慎重に手を伸ばし、盗人の指先から包みを引き抜いた。
焼け焦げた布切れに包まれていたのは、紙片と薄い木札、それに真鍮板だった。
何枚かは熱で端を丸め、糸綴じの名残が煤の下に見える。帳簿の切れ端だ。だが役所の接収帳ではない。紙質が古く、行の引き方も違う。
銀ではない。
聖具でもない。
やはり最初から狙いはこれだった。
エレノアは紙片を開く。
読める行はわずかだ。
――北翼 封
――第二保管列
――ロズ……分枝
――照合済
木札の端には、昼に見たものと同じ、簡略化された葡萄蔓の印が残っていた。家の飾りではない。箱や棚につけるための、内向きの識別だ。
「……何かの帳面ですね」
エレノアは低く言った。
「しかも、持ち主を飾るためのものではない。この家が何を、どこに、どの筋ごとに預かっていたかを示す帳です」
そこでようやく、後方から人の足音が追いついてきた。
書記官と人足が二人、息を切らして角を曲がってくる。書記官は片手に一覧を抱えたまま、青い顔で叫んだ。
「調停士殿! い、一覧、確認しました……!」
肩で息をしながら紙をめくる。
「焼損帳片、一括。索引札二。識別板一。天幕から欠けたのは、やはりそのあたりです……銀器は全部残っております!」
エレノアは短く頷いた。
「ありがとうございます。盗まれたのは金ではなく、記録の手掛かりです」
書記官の手元の一覧と、男の胸元から出た紙片を見比べる。
「推定で追いましたが、これで裏が取れました」
書記官は顔面蒼白のまま、何度も「なんで紙を」「なんで紙を」と呟いている。
「なんで、じゃありません」
エレノアは言った。
「紙だからです。銀なら持ち主争いで済みます。でも帳面は、何がそこにあったかを書いてしまう」
自分で言いながら、第三話で町人たちに告げた言葉が頭を過る。
剣で裁けば、都合の悪い帳面が一番先に消える。
いま、その都合の悪い帳面が、自分の手の中にある。
エレノアは書記官の袖を軽く引き、盗人たちから数歩離れた。
人足の荒い息と、縄を締める音がちょうど間に入る位置を選んでから、声を潜める。
「二人とも別々に拘束してください。口裏合わせをさせないで。あと、この場で何を取ろうとしたかは、互いに聞かせないこと。片方がしゃべったと言えば、もう片方は勝手に崩れます」
「は、はいっ」
書記官が必死に頷く。
人足たちも、今度ばかりは素直だった。目の前で盗人が紙束を奪い、しかも護衛の男があの速さで叩き伏せたのだ。事の軽さを信じる顔はもう誰もしていない。
エレノアは紙片をそっと開いた。
焦げのひどい頁。
だがいくつかは読める。
棚列。
区画。
照合。
分枝。
保管。
書きぶりは荒い。
けれど荒いのは、焼けたせいだ。
内容そのものはむしろ逆で、驚くほど実務的だった。飾るための家名ではない。どこに何を置くか、それだけを見失わないための帳面だ。
頁の切れ端を指先で押さえながら、エレノアは焼け跡の方角を見た。
銀器の持ち主争いなど、やはり表の話にすぎない。
本当に奪い合われているのは、この家が何を預かり、何を知っていたか、その索引そのものだ。
「だから言った」
横でカイルが低く言う。
エレノアは紙片を握り直した。
「これが、ただの古文書片じゃないことは、あなたには分かっていたんですね」
「全部じゃない」
短く返る。
「だが、家の飾りじゃないことくらいは分かる」
「あなたは、この家に仕えていた」
「……ああ」
「なら、この帳面が何のためのものかも」
「保管帳だ」
カイルは言った。
「持ち主の自慢じゃない。預かったものを間違えないための」
エレノアは小さく息を吸った。
やはりそうだ。
この家は、住まいだっただけではない。
何かを預かり、分け、照合し、沈めておくための場所だったのだ。
「再整備局の作業はここで一時停止。発掘品一式、出土位置の記録、帳片、索引札、識別板、全部を高等記録院預かりに切り替えます。所有権争いも凍結です」
「で、ですが、それでは各家から」
「文句は出るでしょう」
エレノアははっきり言った。
「でも、いまこの場で銀器の持ち主を決めるより先に、この家が何を保管していたのか、その痕跡を押さえるほうが先です」
書記官は青い顔のまま、二度三度と頷いた。
その横で、カイルは何も言わない。
だが彼が黙っている時ほど、何かが深い。
エレノアは紙片を抱え直した。
焦げた端が指先に引っかかる。
「……今夜、追加調査をします」
エレノアは自分でも驚くほど静かな声で言った。
「この焼け跡の、まだ掘られていない場所を。帳簿の保管庫、地下収納、焼け残りの移送跡。全部です」
「よ、夜に?」
「昼は人が多すぎます。今ので分かったでしょう。見られている」
エレノアは盗人たちへ視線を向けた。
「こちらが何を見つけたか、誰かが逐一知りたがっている」
カイルが、そこで初めて彼女を見た。
「お前まで来る気か」
「調停士ですから」
「危ないぞ」
「いまさらです」
返すと、彼はほんの少しだけ眉を寄せた。
止めたいのか、呆れたのか、判別しにくい顔だった。
「それに」
エレノアは続ける。
「あなた一人で行かせたら、都合の悪いものまで勝手に抱えて黙るでしょう」
数拍の沈黙のあと、カイルは小さく鼻を鳴らした。
「鋭くなったな」
「誰のせいだと思っているんですか」




