第三話「神罰の井戸」6
人がはけたあと、エレノアは机の上の紙束をまとめた。
紙を揃える指先に、遅れて震えが来る。
石投げ水車村よりも多い、あれだけの群衆を前にして、最後まで声を通したのは初めてだった。
うまくやれたかどうかはまだ分からない。けれど少なくとも、今夜この場で剣は抜かれなかった。
そう思った途端、安堵と疲労がいっぺんに押し寄せて、膝の力が少し抜ける。
それでもエレノアは顔を上げ、カイルを見た。
「拳」
ぽつりと言う。
カイルが視線だけ向ける。
「裂けています」
「壁に擦った」
「嘘ですね」
「だろうな」
あっさり認めるのが腹立たしい。
「耳裂きのレン、ですか」
「ああ」
「王都の地下賭場や夜闘技を嗅ぎ回る男だと」
「そう聞いた」
「あなたが?」
「聞いた」
それ以上は言わない、という顔だった。
窓の外では、夕暮れの風に染布が揺れている。朝には不吉な旗のように見えた布が、今はただ濡れた仕事の痕に見えた。
神罰ではない。人の手で汚れ、人の手で洗われ、人の手でまた使われるものだ。
なのに、エレノアの胸の底には別の濁りが残っていた。
耳裂きのレン。
昼の顔。
荷場も賭場も、迷わず辿れる足。
そして、人を脅すためではなく、いつでも壊せることを知っている者の静けさ。
「……カイル」
「何だ」
「あなた、昔どこにいたんですか」
問いは、ほとんど息に近かった。
彼は少しだけ黙って、それから窓の外を見たまま答える。
「お前が行くべきじゃない場所だ」
その言い方が、拒絶より先に既知だった。
エレノアはその夜、初めて知った。
人は剣を持つから危ういのではない。
剣を抜く理由を隠している時こそ、最も危ういのだと。




