第三話「神罰の井戸」5
カイルが姿を消したあと、エレノアはフィンゼン工房の帳場で水の運搬記録を見た。
朝一番にベルガから樽を借りたことは書かれている。だが、その前夜の欄に別の記載があった。
ドレヴァン商会 媒染薬二樽 夜半搬入。
「この夜半搬入は、いつもですか」
帳場係の少女が首を振る。
「いいえ。あそこは普段、日暮れには締めます。昨日だけです」
「雨は」
「夜半すぎに少し」
それで十分だった。
急ぎの夜作業。
雨。
上流の薬剤。
朝一番の水だけに偏った症状。
事故の輪郭は見え始めている。だが、そこへ「神罰だ」、「血で決めろ」が綺麗に重なるのは、やはり出来すぎていた。
調停の場へ行くのではない。
今夜は、剣が法の顔をして立ち上がる、その手前へ行くのだ。
夕方、町役場代わりの染布組合会館に人を集めさせた。
広間には商家の主人、工房の親方、病人の親族、町役人、神官、それに野次馬がぎっしり詰まる。
決闘裁判の話まで出たあとの群衆は、静かな時ほど扱いにくい。息を殺しているぶん、誰かが口火を切れば一気に燃える。
会場の前には机が三つ並べられていた。
中央には町役人の申請台帳。
右には神官の立会席。
左には原告側確認用の机。
いかにも受理前の顔だった。
まだ血は流れていない。だが、もう帳面は開かれている。
カイルは、会が始まる寸前に戻ってきた。
何食わぬ顔だった。髪も乱れていない。だが右の拳の皮が一箇所だけ裂けている。
エレノアはそれを見たが、何も言わない。
「取れましたか」
「ああ」
彼は短く答えた。
「旅の男は耳裂きのレンだ。王都の地下賭場や夜闘技の周りを嗅ぎ回ってる。賭け札より、人が血を流したがる瞬間に寄ってくる手合いだ」
「目的は」
「自分で煽って、自分で賭ける。あと、誰かに頼まれりゃ火付け役もやる」
「誰に頼まれたかは」
「断定まではまだだ。だが、荷場の人足と酒場の給仕、両方が同じ名を出した」
「……どちらです」
「ドレヴァンの番頭だ」
広間のざわめきが、始まる前から少し形を変えた気がした。
町役人が咳払いをひとつして、立ち上がる。
「本件について、申請立会いを始める」
広間がしんとする。
「争点が和解不能であり、事実に重大な相違がある場合、原告・被告を定め、代闘士の有無を確認のうえ仮受理とする。順に名を――」
「待ってくれ!」
病人の親族らしい男が立ち上がった。
「ベルガを被告に立てる! あの家の水で倒れたんだ!」
「違う!」
ベルガ商会の主人が顔を上げる。
「うちも被害者だ! 訴えるなら上流のドレヴァンだ!」
「どっちでもいい、まず立てろ!」
「血を見りゃ分かる!」
「原告は誰だ!」
ざわめきが一気に膨らむ。
事実が決まる前ほど、人は手続きを急ぎたがる。
町役人が台帳を開き、筆を持つ。
「まず最初の申請から取る。原告名を――」
神よ。
奇跡ではなく、見落とさぬ目を。
「異議を申し立てます」
エレノアの落ち着いた声が通る。
場が止まった。
大声ではない。
だがそれだけで、筆先が紙の上で止まる程度には十分だった。
「本件には、事実認定に重大な未確定部分があります。加えて、風聞煽動の疑いが強い。したがって、現時点での正式受理は保留されるべきです」
神官が眉をひそめる。
「町がここまで神罰を恐れているのに、なお先延ばしにするのですか」
「恐れているからこそです。誰の責任で何が起きたのか、先に人の手で記録へ残さなければなりません」
エレノアは静かに言った。
「今ここで決闘裁判を立てれば、群衆は落ち着くかもしれません。ですが、それでは責任が曖昧になります」
町役人が苦い顔をする。
「しかし、ここで止めれば暴発するかもしれない」
「だからこそ、止めた理由を事実で置きます」
エレノアは前の机へ歩み出た。
帳面の写し、水路で削った青緑の粉、ベルガの桶の鉄輪から取った残滓、簡略な地図を並べる。
「本件について、まず事実を確認します」
声を張りすぎない。だが最後列まで届くように言葉を置く。
人は大声より、迷いのない声に従うことがある。
「第一に、今回倒れた方々は、共同井戸の水に触れた全員ではありません。朝一番にベルガ商会の大樽へ移された水、そしてそれを借りたフィンゼン工房の作業者に偏っています」
ざわめきが走る。
「第二に、症状は呪いより中毒に近い。吐き気、痺れ、手の震え。しかも発症は、水に最初に触れた者ほど重い」
エレノアは地図の上を指でなぞった。
「第三に、この町の共同井戸は、実際には北斜面の湧き筋と補助溝に繋がっています。昨夜、上流のドレヴァン商会で夜半搬入と夜作業があり、その後に小雨が降った。上流水路とフィンゼン工房の溜め場、ベルガの桶の残滓から、同種の媒染薬の残骸が見つかっています」
ドレヴァンの主人が立ち上がる。
「言いがかりだ! うちの薬が町じゅうにあるだけの話だろう!」
「町じゅうにはありません」
エレノアは即座に切った。
「少なくとも、この濃さでは。加えて、あなたの工房の沈殿槽は本日午後、片側だけ新しく塞ぎ直されていました。壊れたものを直すのは結構です。ですが、壊れた記録まで消えるわけではない」
主人の顔が赤から白へ変わる。
「つまり本件の発端は、神罰ではなく、薬剤流出事故です」
そこでいったん言葉を切る。
広間にいる全員が、その次を待っているのが分かった。
「ただし」
エレノアは静かに続けた。
「事故だけで、昨夜のうちに、ベルガは神の怒りを買った、今夜決闘裁判を申請しろ、などという噂が町を一周することはありません」
今度は、ざわめきではなく沈黙が落ちた。
「旅の煽動屋、「通称耳裂きのレン」が昨夜から町に滞在し、酒場と広場で神罰の風聞を広めていたことを確認しました。彼は偶然そこにいたのではない。少なくとも、ドレヴァン番頭との接触が複数証言で一致しています」
番頭が何か言い返そうとしたが、その前にカイルが壁際から一歩だけ出た。
ただそれだけで、男は口を噤んだ。
エレノアは続ける。
「ここで大事なのは、神を語ることではありません。事実と責任を分けることです」
会場全体を見渡した。
「神の名を口にする時こそ、人は最も慎重でなければなりません。でなければそれは祈りではなく、責任逃れです」
誰も動かなかった。
「今回の責任は三つです。
ひとつ、ドレヴァン商会の薬剤管理不備による流出事故。
ひとつ、その事故を隠し、ベルガ商会への神罰風聞を煽った疑い。
ひとつ、外部の煽動者が民衆感情を決闘裁判へ誘導したこと」
帳面の写しを一枚、机の中央へ置く。
「よって本件は、神罰を争点とする決闘裁判に付すべき事案ではありません。調停士エレノア・ヴェイスは以上から受理前差止めを申し立て、正式受理を認めません」
町役人の筆が、完全に止まる。
「そのうえで調停案を述べます」
エレノアはゆっくりと群衆に視線を送った。
「第一に、共同井戸および補助溝は三日間使用制限とし、上流水路と沈殿設備の再点検を行うこと。費用の主負担はドレヴァン商会です。
第二に、ベルガ商会とフィンゼン工房の治療費、休業損害、損耗資材について、ドレヴァン商会に賠償責任を認めます。
風聞煽動については関係記録を法務局保全下に置き、耳裂きのレンの捜索要請を王都へ上げること。
そして本件に関する決闘裁判申請は不受理とします。これは神罰ではなく、事故と煽動です。剣で裁く話ではありません」
「だが、あいつらは俺たちを――」
群衆の中から怒声が飛ぶ。
エレノアはそのほうへ顔を向けた。
「剣で裁けば、都合の悪い帳面が一番先に消えます」
ぴたりと声が止まった。
「今、守るべきなのは怒りではありません。記録です。責任です。再発しない形です。血を流せば、そこが全部曖昧になる」
広間の奥で、ベルガ商会の主人がゆっくりと頭を下げた。フィンゼンも続く。町役人は青い顔で頷き、神官は苦い顔のまま異論を挟まなかった。
ドレヴァンの主人だけが立ち尽くしていたが、もはや先ほどの勢いはない。
神罰という大きな物語の陰に隠れるつもりが、帳面と水路の上へ引きずり戻された顔だった。




