第三話「神罰の井戸」4
ベルガ商会は広場から二筋入ったところにあった。表は布の取引所、奥が染場になっている。
戸口の前には、吐瀉物を流した跡に灰が撒かれていた。中へ入ると、湿った布と薬品と病人の汗が混ざった、息の詰まる空気がある。
帳場の奥で、四十歳ぐらいの男が深々と頭を下げた。顔色が悪い。親方だろう。
「ベルガ商会の主、ヘルムート・ベルガです。調停士殿、どうかうちを……うちを神罰扱いしないでいただきたい」
「それを決めに来たのではありません。事実を見に来ました」
中へ通されながら、エレノアは寝台に横たわる者たちを順に見た。唇の乾き、手の震え、吐いたあとの喉の掠れ。呪いというより、やはり中毒の顔に近い。
「昨日、最初に具合を崩したのはどなたです」
「下働きのユナスです。朝の飯のあと、すぐに」
「同じ飯を食べた方は」
「皆食べましたが、倒れたのは台所手伝いと、朝一番で染槽の水替えをした連中が中心で……」
そこでヘルムートの声が止まる。
自分でも、答えの形が見え始めたのだろう。
「水替えに使ったのは、共同井戸の水ですか」
「……はい。ただ、急いでいたので、いつもの沈殿桶を通さず、そのまま大樽へ」
「いつもは通す?」
「布ごみや灰を落とすために一度溜めます。昨日は注文が立て込んで」
事故の線はこれで強くなる。
だが、事故だけなら「神罰だ、あの家を被告に」という噂が昨夜のうちに町中へ回るのは早すぎた。
「その噂を最初に聞いたのは、どこで」
ヘルムートは驚いた顔をした。
「宿場酒場です。夕方にはもう、ベルガは神の怒りを買った、と。誰が言い出したのかは……」
言いよどむ。
カイルが壁際から低く口を挟んだ。
「旅の男か」
ヘルムートの目が動く。
それで十分だった。
「顔を覚えていますか」
「ええ。痩せていて、やけに人懐こい笑い方をする男で……」
「左の耳たぶ、少し裂けてたろ」
ヘルムートがぎくりとした。
「さっきの男ですね。耳の傷まで知っているんですか」
エレノアはカイルに訊く。
「知ってる顔に似てるだけだ」
カイルの声は平坦だった。
だが平坦すぎて、かえって何も隠れていないのが分かる。
エレノアはカイルを見た。
見るだけに留める。問い詰めるのは今ではない。
「フィンゼン工房にも同じ聞き取りが必要です」
エレノアは手帳を閉じた。
「それと、昨日使った水桶と樽、沈殿桶、薬品庫の鍵、搬入記録、全部見せてください。事故なら事故の形が残っています。人が煽ったなら、その形もです」
ヘルムートは何度も頷いた。
縋るような顔だった。神罰ではないと言ってほしいのではない。ただ、自分の店が物語にされる前に、記録と責任のある話に戻してほしいのだ。
その時、表の戸口で足音がした。若い見習いが、息を切らして飛び込んでくる。
「親方! まずいことになった!」
「どうした!」
「広場のほうで、誰かが言ってる! 今夜のうちに決闘裁判を申請しろって!」
部屋の空気が、またひとつ冷えた。
「それだけではないでしょう」
エレノアが言う。
見習いは息を整えながら続けた。
「組合会館に町役人が台帳を持ち込むって……神官も呼ばれたって……申請立会いをするって」
エレノアは黙る。
申請立会い。
つまり、ただの怒鳴り合いではない。原告名と被告名が記録に載る、その手前まで話が進んでいる。
「今夜を越えれば、剣の話になりますね」
自分に言い聞かせるように、エレノアは小さく呟いた。
*
フィンゼン工房はベルガ商会よりさらに川寄りにあった。表の看板は小さいが、奥行きのある建物で、裏手に乾し場と染槽が並んでいる。
門をくぐった途端、鼻を刺す薬品の匂いが濃くなった。ベルガより作業寄りの工房だ。飾るための布ではなく、使い倒される布を染めている匂いがする。
見習いのひとりが寝台で青い顔をしていた。もうひとりは座れる程度には回復しているが、手の震えが残っている。
「朝の仕事は、どこから始めました」
エレノアが問うと、親方フィンゼンは額の汗を拭った。
「染槽の水替えです。うちはいつも裏の貯め桶を使うんですが、昨日はその桶のタガが緩んでいて……ベルガから大樽をひとつ借りました」
「借りたのは、朝一番」
「はい。まだ陽が上がる前でした」
「その水を、何に」
「羊毛の下洗いと、媒染前の湯回しに」
朝一番。
ベルガの大樽。
そして、倒れたのはその水に最初に触れた者たち。
「裏を見せてください」
案内された裏手には、石を積んだ浅い溜め場と、そこへ細い水路が流れ込む仕組みがあった。
町の共同井戸から汲んだ水を一度ここで落ち着かせ、布ごみや灰を沈ませてから使うのだろう。だが問題は、そのさらに上だった。
水路は町の中央から来ているのではない。北の斜面側から引かれた補助溝と繋がっている。
町人は皆それを井戸の筋と呼ぶのだと親方が説明した。湧き水を石囲いに集めた共同井戸だが、水量の落ちる季節は上の流れも噛ませているらしい。
エレノアは屈み、水路の縁を指でなぞった。乾いた泥の上に、薄い青緑の粉がこびりついている。ベルガの桶に残っていたものと同じ色だ。
「この色の媒染薬を使う工房は」
親方が嫌そうに口を歪める。
「上流のドレヴァンです。深い藍を安く出すために、きつい薬を混ぜる」
「昨日、その工房は夜も回していましたか」
「大口を取ったって話は聞きました」
エレノアは水路を目で追った。北側の石垣の向こう、屋根の上にだけ高い煙が見える。
雨で流れたのか、あるいは急いで洗い流したのか。どちらにせよ、ただの呪いにしてはずいぶん手触りがある。
「カイル」
名を呼ぶと、壁にもたれていた男が顔だけ向けた。
「今度は何だ」
「町のまっすぐな場所では、もう取れない話があります」
「荷場か賭場か」
「分かってるなら早いです」
カイルは鼻で笑う。
「言い方がだいぶ悪くなってきたな」
「誰のせいだと思っているんですか」
「だいたい俺じゃない」
「だいたいあなたです」
返してから、エレノアは少しだけ真顔になる。
「……あの旅人のこと、知っているんですね」
返事はすぐには来なかった。
「その見覚えを、今は役立ててください」
数拍ののち、彼は短く頷いた。
「日が落ちる前には戻る」
その言い方が妙に自然で、エレノアは嫌な気分になった。
荷場も賭場も、迷わず辿れる距離として計算に入っている声だったからだ。慣れている者の声だった。
だが今は問い詰めない。




