第三話「神罰の井戸」3
エレノアは井戸の縁へ近づく。白い粉は、近くで見れば塩と灰を雑に混ぜたものだった。
祈祷というより、見た目の清めだ。誰かが不吉に見える形を急いで整えた痕跡がある。
「これを撒いたのは誰です」
周囲へ問うと、老婆が杖をついて前へ出た。
「わたしだよ。今朝方、神官が来る前に」
「どなたに勧められて?」
「勧められたわけじゃないさ。ただ、このままじゃ誰かがまた飲むだろ」
老婆の声そのものは素直だった。
だが、その隣で顔を見合わせた男たちのほうが気になる。
「今朝、井戸の使用を止めるよう最初に言い出した方は?」
「そりゃ……」
答えかけた男が、少し詰まる。
「旅の男が。昨夜から宿で「神の怒りは水に出る」とか何とか喋ってた」
カイルの眉が、ごくわずかに動いた。
エレノアはそれを見たが、今は追わない。
「分かりました。では順に確認します。倒れた方が全員この井戸の水を直接飲んだのか。飲んだ時間と場所。桶を借りたか持参したか。料理に使ったか、染場で使ったか。思い出せる範囲で結構です」
人垣に、露骨な戸惑いが走る。
「そこまで要るのか?」
「神罰なら調べても――」
「要ります」
エレノアはきっぱりと言った。
「神罰と決めるのは、調べ終わってからでも遅くありません。ですが、調べずに決めたら、それは神の判断ではなく、人の手抜きです」
何人かが黙る。
刺さったのだろう。あるいは、刺さってしまったからこそ目を逸らした。
彼女は手帳を開き、近くにいた桶運びの少年から聞き取りを始めた。年は十二、三。緊張で声がひっくり返りそうになっている。
「最初に倒れたのは?」
「ベルガ商会の下働きです。昨日の朝、染場で」
「井戸の水を飲んで?」
「いえ、井戸で汲んだ水を大樽に移して……工房の飯炊きに回してました」
「その大樽は、どこの工房へ?」
「ベルガ商会と、その隣のフィンゼン工房です」
エレノアは顔を上げた。
周囲にいた者の何人かも、つられて小さく声を漏らす。
「他に倒れた方は」
「ベルガの親方の奥さんと、フィンゼンの見習い二人と……あと、桶洗いを手伝った娘が一人」
「逆に、この井戸の水を飲んでも倒れていない方は?」
今度は答えがあちこちから飛んだ。自分は平気だった。うちも平気だ。毎朝ここで汲んでいるが何ともない。
ざわめきの質が変わる。
井戸そのものが呪われた、という話はそれだけで少し形を失った。
「……全員じゃない」
誰かが呟く。
「ええ、少なくとも、井戸に触れた者が一様に倒れているわけではないようですね」とエレノアは言った。
井戸の縁へ身を屈め、水面を覗く。暗い。だが腐臭はない。油膜も目立たない。
代わりに、桶を置く石台の一箇所にだけ、青緑の薄い筋がこびりついていた。乾いた塗料のように見えるが、爪で擦ると粉っぽく崩れる。
「この桶はどちらのものです」
傍らの木桶を指す。町共用にしては胴の鉄輪が新しすぎる。
少年が言った。
「ベルガ商会です。昨日、急ぎで水が要るって」
「急ぎで?」
「大口の注文が入ったとかで……夜のうちに樽も洗い直してました」
エレノアは桶の縁を嗅いだ。藍や灰汁の匂いの奥に、少しだけ刺すような苦さがある。
「媒染薬の匂いですね。それも、かなり強い」
「分かるのか」とカイルが横から言う。
「教会の染め布倉で手伝いをしたことがあります。祭服は見た目よりずっと手がかかるんです」
「信徒は何でもやるな」
「怠け者よりは」
エレノアは答えながらも、頭の中では別のことを繋げていた。
共同井戸。
特定商会の大桶。
急ぎの注文。
倒れた者の偏り。
そして、あまりにも早く広まった神罰の噂。
事故だけでは、ここまで綺麗に物語にならない。
「ベルガ商会とフィンゼン工房を見ます」
エレノアは立ち上がった。
「井戸はこのまま封鎖。誰も近づけないでください。桶も動かさないように」
「町役人を呼ぶか?」
「呼びます。でも先に現場です」




