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第三話「神罰の井戸」2

 ラーデンの入口には、すでに人だかりができていた。

 門番より先に、噂が町を仕切っている。荷を背負った職人、桶を抱えた女、何も持たずに立っている老人。誰もが低い声で話しているのに、言葉尻だけが妙に尖っていた。


「やっぱりあの家だろう」

「昔から儲け方がきたねえんだ」

「神さまも見てたんだよ」

「祓うだけで済む話かよ。誰が穢したか決めろ」

「今夜のうちに原告を立てろ」

「逃げるなら代闘士でも出させりゃいい」


 馬車を降りると、会話の端が風に乗って耳へ入る。


 エレノアは一度だけ目を閉じ、短く息を吸った。

 祈りの前の呼吸に似ているが、今は違う。ただ気持ちを整えるための息だった。


「まず井戸を見ます」


 エレノアは言った。


「役人への挨拶はそのあとで」


「普通は逆だろ」


「先に会うと、見せたいものだけ見せられます」


 カイルの口元が、ほんの少しだけ動いた。


「学んできたな、調停士殿」


「誰のせいだと思っているんですか」


「俺じゃないな」


「だいたいあなたです」


 共同井戸は町の中央広場にあった。石組みの立派な井戸だ。周囲を低い柵で囲い、桶と綱が整然と並んでいる。

 ふだんなら人の出入りで賑わう場所なのだろう。だが今は、桶は伏せられ、綱は外され、死体でも置くような遠巻きの輪ができていた。


 井戸の縁には、白い粉が薄く撒かれている。塩か、灰か、その両方か。

 清めたかったのは水より先に、きっと不安のほうだ。


「本当に始まってますね。儀式ごっこが」


 エレノアは小さく言った。


「ごっこで済めば安い」


 カイルの視線は井戸ではなく、人垣に向いていた。誰が怯えているだけか。誰が噂を焚きつけているか。そういう仕分けをする目だった。

 その時、井戸の向こうで怒鳴り声が上がった。


「近づくなって言ってるだろうが!」


 振り向くと、二人の男が揉み合っている。片方は染場の職人らしく腕を捲り、もう片方は商人風の上着を着ていた。

 顔色が悪い。寝不足か、本当に体調が悪いのか、遠目には分かりにくい蒼さだった。


「うちの倅がまだ寝込んでるんだぞ!」


 職人が叫ぶ。


「お前んとこの井戸番が何か混ぜたんじゃねえのか!」


「知らん、こっちだって三人倒れてる!」


 商人が怒鳴り返す。


「神罰だなんだって、勝手に決めつけるな!」


「だったら何であんたらの工房ばっかりなんだ!」


 群衆のざわめきが膨らむ。

 理由を求める声ではない。誰かを決めつけたい時の膨らみ方だった。


「組合会館で立てろ!」

「町役人呼べ!」

「争点は足りてるだろ!」

「今夜決めろ!」


「カイル」


 エレノアは低く呼んだ。


「右のお二人を止めてください。できれば大事にはしないで」


「注文が細かいな」


「当然です、あなたならできるでしょう?」


 彼は面倒そうに肩を回し、それでも一歩で距離を詰めた。職人の腕を取る。商人の襟を引く。ぶつかり合う勢いだけを使って二人を井戸から遠ざける。

 乱暴に見えて、誰も石に打ちつけず、誰の骨も鳴らさない。ああいうところだけは、腹立たしいほど正確だ。


 その隙に、エレノアは広場の中央へ出た。


「王都法務局より派遣された調停士、エレノア・ヴェイスです」


 ざわめきが少しだけ静まる。

 法務局の名は地方ではまだ半信半疑だ。だが“王都から来た”という言葉には、それなりの重みがある。


「本件は、井戸の使用制限と発症者の状況確認を優先します。神罰かどうかを口にするのは、そのあとです」


「王都の調停士か」


 群衆の中の誰かが吐くように言った。


「じゃあ受理の前に口を挟みに来たんだな」


 受理。

 その言い方に、広場の空気がもう一段、制度じみたものへ傾いた。


「神を疑うのか!」


 群衆の後ろから、よく通る声が飛ぶ。

 怯えた声ではなかった。煽るのに向いた喉だ、とエレノアは思う。


「いいえ」


 彼女は静かに返した。


「疑うのは、人の怠慢と、人の悪意です」


 息を呑む気配があちこちで連なった。

 井戸の上に張りついていた不安が、少しだけ別の形を取り始める。


 エレノアは群衆を一瞥した。

 喉の奥で、祈りの形だけを整える。


 だが口に出すより先に、広場の左手、染布問屋の軒下から場違いなくらい軽い声が落ちた。


「……へえ、昼の顔で、ほんとに働いてるんだな」


 エレノアが振り向くより早く、空気が変わった。

 エレノアでなく、カイルの、である。


 さっきまで無愛想で面倒そうな護衛の顔をしていた男が、ほんの一瞬で別のものになる。

 肩の力は抜けたままだ。剣にも手はかかっていない。なのに広場の温度だけが、すっと下がった気がした。


 軒下に立っていたのは、旅装の男だった。

 痩せた頬、笑っているのに笑っていない目。賭場にも荷運び場にもいそうな顔だ。揉め事の匂いを嗅いで渡り歩く種類の男だと、見た瞬間に分かる。


 男はカイルだけを見ている。


「王都の下水路以来か?」


 薄く笑って言った。


「それとも、もっと下のほうだったか」


 エレノアの背筋を、冷たいものが走った。


 町人たちはまだ気づいていない。

 井戸の水より危ういものが、いま別の場所で揺れたことに。


 カイルは答えない。

 答えないまま、一歩だけ前へ出た。


 その沈黙が、いちばんまずかった。


 エレノアはその時初めて知る。

 人は剣を抜く前にも、ここまで露骨に危うくなれるのだと。


「カイル」


 名を呼ぶ。


 それだけで止まる保証はなかった。

 だが呼ばないほうが、もっと悪い気がした。


 旅装の男はエレノアの声にだけ薄く目をやった。笑っている。

 人の職や肩書きを見て笑う目ではない。昔の傷口を見つけた時の、嫌な嬉しさに近い。


「へえ。今はそっちが手綱持ってるのか」


「どなたです」


 エレノアは訊いた。


 男は答えず、井戸のほうを顎で示す。


「俺はただの旅人だよ。面白いもんがあるって聞いて寄っただけだ。神罰だの、商家潰しだの、血の匂いがしそうな話は足が向く」


 そこでわずかに目を細め、カイルへ向けて続けた。


「今夜、誰かが原告名を書けば、お前も昼のままじゃ済まねえかもしれないのにな」


 カイルの目が、ほんのわずかに細くなった。


「なら、ここは期待外れです」


 エレノアは言った。


「血を流す前に止めるのが私の仕事ですから」


 男が肩を揺らす。


「立派だな、調停士さま。けど、そっちの男はそうでもないだろ」


「お前」


 カイルが口を開いた。低く、短い。

 だが広場のざわめきの下を潜って、妙に遠くまで届く声だった。


 旅装の男は一歩だけ下がる。怯えではない。距離の取り方を知っている人間の下がり方だ。


「怖い怖い。昼の顔を崩すなよ。昔馴染みに愛想が悪いじゃないか」


 カイルの様子が明らかにおかしい。エレノアが会話に割って入る。


「本件は法務局管理下の調査案件です。氏名と滞在先を」


「やだね」


 あっさり言って、男は笑った。


「俺ぁ神罰を見に来ただけだ。お役所の帳面に載る趣味はない」


 言い終えるより早く、荷を積んだ荷車が広場の端へ入ってきた。

 人垣がわずかに割れ、視界が塞がる。次の瞬間にはもう、男の姿は半歩ぶん奥へずれていた。


「待ちなさい!」


 エレノアが声を上げる。

 だが旅装の男は振り返りもしない。布束を担いだ職人の列へ紛れ、柵の外へ抜け、乾きかけの染布の下へするりと消えた。


 追う、とエレノアが思うより早く、カイルが前へ出ていた。


「駄目です」


 咄嗟にその腕を掴む。


 カイルが振り向く。

 その目の冷たさに、指が一瞬だけ震えた。


「離せ」


「離しません。今ここであなたが消えたら、残るのは井戸と群衆と、もっと大きな噂です」


「逃げる」


「でしょうね。ですが、あなたが追えば、あの人はそれも込みできっと逃げます」


 数拍の沈黙。

 やがてカイルは、息だけで舌打ちした。


「……覚えとけ」


「誰をですか」


「あの顔をだ」


 それだけ言って、ようやく足を止めた。


 エレノアはカイルの腕から手を離す。

 掴んでいた場所に残ったのは、熱ではなく妙な硬さだった。生きた人の腕というより、張り詰めた弓を押さえていたみたいだった。


「井戸の確認に戻ります」


 エレノアはわざと平板に言う。そうでもしないと、自分の声まで少し震えそうだった。


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