第一話 石投げ水車村の相続争い1
遅刻寸前というのは、言い換えれば、まだ遅刻していないということだ。
エレノア・ヴェイスはそう自分に言い聞かせながら、王都西区の石畳を早足で抜けていた。
朝の市場はすでに開いていて、荷車、怒鳴り声、焼きたての平パンの匂い、昨夜の酒がまだ抜けていないらしい男たちのだらしない笑い声が、狭い通りにひしめいている。
人を避け、桶を跨ぎ、跳ねた泥を外套の裾で受けながら、それでも彼女は抱えた書類束だけは落とすまいと腕に力を込めた。
昨夜も机の燭台を一本、とうに燃え尽きるまで使った。新制度の布告文、施行細則、地方運用の補記、旧来の裁判慣習との照合。
読みはじめれば、ひとつ分かった先にもうひとつ分からない条文がぶら下がっている。
賢王が敷こうとしている法を、借り物の綺麗な言葉のままで口にしたくなかった。自分が扱う以上は、どこまで届き、どこで届かないのかくらい、せめて自分の頭で掴んでいたかった。
その結果がこの寝不足では、あまり胸を張れたものではないのだけれど。
市場の喧騒のなかには、近ごろ王都でよく耳にする言葉も混じっていた。
「賢王陛下になってから、西門まわりの揉め事は役人が先に聞きに来るようになった」
「この前なんか、決闘まで行かずに済んだってさ」
「そりゃいい。血を見るより、畑が残るほうがましだ」
平パンを並べる女が笑い、荷運びの男が肩をすくめ、桶を抱えた老婆が、神への祈りとあまり変わらない気安さで「ありがたいことだよ」と頷く。
王の顔を見たことなどない者たちまで、まるで遠い親類の働きぶりでも語るみたいに、その名を口にする。
賢王。
旧い争いのかたちを改め、神託と決闘だけに頼らぬ国を作ろうとしている若き王。少なくとも市井では、その名は飢饉や増税の噂より、ずっと明るい声で語られていた。
調停士の任命から、まだひと月も経っていない。
まだそんなものか、というべきか。もうそこまで経ったのか、というべきか。
少なくとも、任命式の日に高等法務局の老人たちが向けてきた視線が、期待より不安に近かったことだけは、よく覚えている。
若い。女。平民出身。加えて新制度の象徴。好かれる理由は少ない。
だからこそ、遅刻など、つまらないところで舐められるわけにはいかなかった。
角を曲がると、法務局の出張詰所が見えた。大仰な本庁舎ではなく、地方案件を捌くために設けられた二階建ての石造りだ。
入口脇には、王の紋章と、その下にまだ新しい看板が掲げられている。
調停士詰所。
賢王が即位後まもなく布告した新制度――決闘裁判の前に、まず事実を調べ、言葉と記録によって争いを収めるための役職。
そのために各地へ置かれ始めた詰所は、まだ王都でも数えるほどしかないけれども、それを見るたび、エレノアは少しだけ背筋を伸ばしたくなる。
歩きながら、エレノアは胸元へそっと指を触れた。外套の合わせ目には、小ぶりな銀のブローチが留められている。
王冠の下、細い軸に吊られた天秤を刻んだ、調停士だけに許された徽章。賢王自ら、新制度の印として定めた意匠だと聞いている。
この徽章を初めて受け取った日、父は何度もうなずくだけで、結局たいしたことは言わなかった。役所の帳面とにらめっこする時と同じ顔で、ただ「そうか」とだけ言った。
代わりに母が、この人は嬉しい時ほど黙るんですよ、と笑って、それから少しだけ泣いていた。エレノアもついでにもらい泣きした。
名もない書記補助の娘でも、公の仕事に就いてよいのだと、あの日ようやく家の者たちで実感したのだ。
平民出身の自分が、公の場でこの印を身につけて歩ける。
それは国が少しだけ変わり始めている証であり、自分がその変化の端に立っている証でもある。
賢王は偉大な方なのだ、と彼女は思う。
少なくとも、紙の上に書かれた理念だけを見るなら。
少なくとも、この徽章を初めて手にした日の胸の高鳴りだけは、嘘ではなかった。
決闘裁判だけに頼らず、事実の調査と合意によって争いを収める。
紙の上では、たったそれだけの理念だ。だが、それだけのことで流れずに済む血があると、エレノアは信じている。




