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プロローグ 灰の宣誓

 王都の地下には、昔の神殿の骨が眠っている――と、まことしやかに語る者がいる。


 今は塞がれた巡礼路。忘れ去られた地下礼拝堂。異教の祭壇を潰し、その上から新しい石を積んだ、古い時代の名残。

 そういう場所は、地上ではもう誰も口にしない。だが、人は忘れたふりをするだけで、消せはしない。まして、血の匂いに合う場所ならなおさらだ。


 石段を下りるたび、空気が冷たくなる。

 湿った土の匂いに、燭の油と鉄の匂いが混ざる。


 最後の扉が開かれた瞬間、地下に集った者たちのざわめきが、淀んだ空気ごと押し寄せた。


 円形の闘技場。

 あるいは法廷。

 あるいは処刑場。


 中央には磨り減った石床があり、その周囲を観覧席が幾重にも囲んでいる。

 高い席ほど闇が深い。そこにいる者たちは皆、顔の半分ほどを覆う仮面や、影の濃い頭巾を身につけていた。

 貴族たちは己の素顔を隠したがるくせに、他人の破滅を見る時だけは、妙によく目を凝らす。


 今夜も例外ではない。


 石床のいちばん奥、半円形の高座に、ひとりの男が座していた。

 冠はない。王笏もない。ただ片肘を肘掛けに預けているだけなのに、そこがこの場の最上位なのだと、誰の目にも分かる。


 美しいと呼ぶには目が冷たく、冷酷と呼ぶには口元が愉しげすぎる。

 玉座にあって然るべき顔だった、と見た者の幾人かは思ったかもしれない。だが、その名をあえて口にする者はいない。


 その男が、ゆっくりと視線を巡らせる。

 ざわめきが、自然と痩せた。

 まだ誰も命じていないのに、広間は静まりかえっていく。人は権威に従う前に、時として、愉しまれていると気づいた時のほうが深く黙る。


 高座の男は薄く笑った。


「照覧の名の下に、今宵の訴えを開く」


 低く、よく通る声だった。

 祈りのようでいて、祈りではない。神へ捧げる言葉ではなく、神の席から下す言葉だ。


「名を告げよ、罪を告げよ、血をもって否め」


 観覧席のどこかで、誰かが息を呑む。


「ここでは退いた名だけが、先に死ぬ」


 最後の一言が落ちた瞬間、地下の空気そのものが決まった。


 今夜も誰かが死ぬ。

 もはやそれは予感ではなく、この場の作法だった。


 高座の男は満足げに顎を引く。


「原告、前へ」


 石床の脇に設けられた暗い通路から、二人の侍女が現れた。彼女らのあいだには、黒い布に包まれた何かがある。

 人の形をしている、と理解するまでに、観客たちにはわずかな時間が必要だった。


 最初、誰もが、それは死体が運ばれてきたのだと思った。

 いや、死体というより、焼け残りだ。布で辛うじて形をまとめられただけの、名も持たぬ肉の残骸。

 手足があるらしい。だが、それが生きた人間の四肢として目に入るより先に、棺から零れたものを見るような嫌悪が立つ。


 だが違った。

 黒い布に包まれた焼け残りは、生きた女だった。


 侍女たちが足を止め、片方が手を差し伸べる。黒い女の小柄な影は、その手に触れもしない。ほんのわずかに首を振り、拒絶の意思だけを示した。


 次の瞬間、観客席の何人かが息を呑んだ。

 その女は、自ら侍女たちの介助を離れて石床にひとりで手をつき、そして這い始めたのだ。


 黒布の下からのぞく指先は、細く、白く、そしていびつだった。火で焼かれ、縮れ、皮膚の色も均一ではない。片腕はうまく伸びず、肩から先が重たげに震えている。それでも彼女は身を引きずり、磨かれた石の上を、一歩ぶんにも満たない距離ずつ進んでいく。


 し、し、と布が石を擦る音だけが、地下に異様にはっきり響いた。


 誰も笑わない。

 誰も憐れまない。


 その場を支配するのは、沈黙と恐れの感情だった。


 これは見世物だ。だが、ただの余興ではない。

 ここに集う者たちは皆知っている。この女が這い進むたびに、誰かの運命が一歩ずつ死へ近づいていくことを。


 石床の中央には、小さな壇がある。宣誓のための壇だ。

 かつて神前裁判において、訴えをなす者が神へ己の名を告げた場所。いまではその神の名すら、誰も本気では信じていないくせに、儀式の形だけは残っている。

 だが今宵、その形さえも、もはや神のものではなかった。


 女は壇まで辿り着くと、そこで止まった。

 すぐには名乗らない。


 動く左手だけで壇の縁を探り、指をかける。細く白い指先が、石の角に食い込んだ。次の瞬間、彼女はその身を引きずり上げるようにして、焼け爛れた肩と胸元を壇へ押しつけた。


 誰かが、観覧席で息を呑む。

 

 そうして女は、自ら立つことを選んだのだ。

 

 いや、立った、ように見えた。

 実際には、壇が彼女を辛うじて倒れさせていないだけだ。それでも観客には、死に損なった亡霊が石から起き上がったように映った。

 まっすぐ立てたわけではない。片脚はうまく力を支えきれず、身体の半ばは壇に預けられている。それでも彼女は、這ったまま名を告げることを拒んだ。

 神へ訴えを告げるための壇に、壊れた身を凭せかけるようにして、なお相手を見据える姿勢を選んだのだ。


 その喉が焼けていることは、声が出る前から分かった。


「――セラフィナ・アシュベル」


 掠れた声音だった。若い女のものとしてもか細い響き。だが地下の隅々まで届く、不思議な通り方をした。


「ここに在り」


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