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第二話「婚約破棄と神前侮辱の訴え」5

 案内されたのは、広間の裏手にある温室めいた小部屋だった。夜の庭へ面した硝子張りの空間で、薄い花の匂いがする。密談には向いている。


「聞けたことは」


「破談文はロズミア側の書記が整えた。ディンケル家の借換えにロズミア傍流保証が入ってる。あと、これだ」


 カイルは指先で折り畳まれた紙片を弾いた。


「これは?」


「屋敷の中で見つけた、配布物らしく何枚か刷られていたので1枚拝借してきた」


 席札に見えるが、宴席のものにしては記し方が妙だった。家名、年齢、持参金、借財、従順、神前済、差替可――そんな、人の一生を家畜の見立てみたいな短い語で並べてある。

 エレノアは無意識に一枚を取っていた。


 マリアベル・エスティナ

 持参金 良

 信仰 厚

 家 扱い難

 神前済

 差替後処理可


 処理。


 その二文字を見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。


「……人の婚約を」


 声が自分でも驚くほど低かった。


「人の一生を、こんな札で」


「だから怒るな」


「無理です」


 その時、硝子の向こうの回廊に人影が差した。女が二人、男が一人。笑いながら近づいてくる。

 カイルの手が、無造作にエレノアの手首を引いた。植え込みの陰、硝子戸の死角。あまりに迷いのない動きで、エレノアは抗議する暇もない。


 戸が開いた。


「神前まで済ませたなら、あとは値の出方を見るだけですもの」


 若い女の声がする。さっきの扇の女だ。


「エスティナは持参金だけなら悪くなかったけれど、あまりに教会寄りで面倒だわ」


「でも、信心深い家ほど傷が深いでしょう?」


 男が低く笑う。


「そうだな。騒げば騒ぐほど、自分たちの傷も広がる」


「ディンケル家は今後も使えるかしら」


「使える。借換え先をロズミアの手で押さえた。しかも今度は、自分たちの意思で神前を踏んだ負い目まである」


「なら次は、もっと良い役目で活用できるわね。お母様も、ああいう家は扱いやすいと仰っていたもの」


 楽しそうだった。

 楽しそうに、誰かの恋が壊れ、誰かの名誉が削れ、誰かの人生が傾き、それも利用する話をしている。


 エレノアは呼吸を止めた。止めなければ、今にも音が漏れそうだった。


「――おや」


 今までの三人とは違う、年嵩の女の声がした。


「こちらに誰かいるのではなくて?」


 背骨の裏に、冷たいものが走った。

 見つかった。そう思った瞬間、喉の奥がからからに乾く。逃げ道、言い訳、立場、名前――いくつものことが一度に頭へ押し寄せて、逆に何も掴めなくなる。

 こういう場に慣れていないのは、自分でも分かっていた。法務局の机の向こうなら、もっとましに考えられる。だが今は、硝子一枚隔てた先にいる本物の貴族の気配だけで、脚の芯がわずかに危うい。


 カイルは一瞬だけ目を伏せ、それから何事もなかったように銀盆を持ち直した。


「失礼いたしました」


 先に姿を見せたのはカイルのほうだった。

 硝子戸を半ばだけ開け、従者としての角度で一礼する。深すぎず、浅すぎず、妙に完成された礼だった。


 エレノアも植え込みの陰から出る。

 出ながら、平静な顔というものはどう作るのだったかと、今さらみたいに思った。


 戸の向こうに立っていたのは、明らかに上等な仕立ての真珠色の絹を纏った年嵩の女を中心にした三人だった。ロズミア侯爵夫人、と名乗られなくても分かる顔だ。若くはない。だが年齢そのものを飾りとして纏っている。笑っているようでいて笑っていない口元だった。


 扇の女が、夫人へ半歩寄る。


「お母様、こちらの方が」


 それだけで十分だった。

 カイルが銀盆を少し下げたまま、滑らかな声で言う。


「申し訳ございません。教会記録の控え確認に来られた書記補佐殿が、案内を違えたようで」


 迷いのない言い方だった。


「道に迷うほど、この屋敷は複雑でしたかしら」


 ロズミア侯爵夫人は一歩だけ近づいた。

 追及するでもなく、助けるでもない。ただ、目の前のものの値打ちを測るような足取りだった。


「申し訳ありません」


 エレノアは頭を下げた。


「寄進誓紙の控え確認を」


「貴方、教会の方にしては、ずいぶんまっすぐ立つのね」


 ロズミア侯爵夫人の声は穏やかだった。穏やかなのに、どこまで見えているのか分からない。


「でも、そういう方は嫌いではありません。祈りと記録の仕事は、背骨が曲がっていては務まりませんもの」


「お言葉、ありがとうございます」


「お礼を言う方なのね」


「褒め言葉なら」


「では、今のは褒め言葉にしておきましょう」


 扇の女が小さく笑った。痩せた青年も、つられるように口元だけで笑う。

 侯爵夫人の視線が、エレノアの顔から手袋、腰のあたりまでゆっくり滑って戻る。誰に招かれ、何を見て、どこまで嗅ぎつけたのか、その場で切り分けようとする目だ。


 まずい、と思う。

 けれど、その顔をした時点で負ける気もした。

 エレノアは指先だけで手袋の縁を押さえ、視線を逸らさなかった。怖じていないのではない。怖じていると悟られたくないだけだ。


「今夜は慈善の席ですの。傷んだ礼拝堂のため、施療院のため、皆が善意を持ち寄る夜。どうか余計な詮索はなさらないで」


「善意の確認に来ております」


 神前のことなら、エレノアはようやく息の仕方を思い出せる。

 エレノアが答えると、夫人の眉がほんのわずかに動いた。


「神前の名が使われる以上、控えの正確さは大切です」


「神前」


 ロズミア侯爵夫人はその言葉を口の中で一度転がした。


「このご時世に、まだそんなに重く響くものかしら」


「人によっては」


「そうね。人によっては。だからこそ便利でもあるのだけれど」


 あまりにあっさり出たので、エレノアは聞き違えたかと思った。

 だがロズミア侯爵夫人はもう、次の会話へ移っている。


「書記補佐殿。今夜ここで見聞きしたことのうち、広間の音楽や寄進の額以外は、どうぞ夢だったことになさって。上流の家というものは、台所も、物置も、婚約も、あまり日向で市井の好奇に触れさせるものではありませんの。」


 婚約。


 その一語だけが、妙に白く響いた。

 エレノアは胸の奥がひやりとするのを感じた。こういう人間は、怒鳴らずとも人を追い詰められるらしい。


「夢かどうかは、朝の記録が決めます」


 ロズミア侯爵夫人の笑みが初めて少しだけ止まった。


「……面白い方」


「恐縮です」


「褒め言葉ではありませんのよ」


「では、受け取りません」


 扇の女が吹き出した。痩せた青年は面白くなさそうに唇を曲げる。

 ロズミア侯爵夫人だけが、数拍の沈黙ののちに静かに頷いた。


「お帰りなさいな。書記補佐殿に、これ以上奥まで覚えていただく必要もありませんもの」


 追い払う言い方ですら、美しかった。


     *


 夜会を抜けたのは、鐘が二つ鳴ったあとだった。


 馬車へ乗る前、エレノアは一度だけ侯爵家の窓を見上げた。

 灯りの数が多すぎる屋敷というのはある。暗がりを消したいのではない。どこからでも誰かが見ていると知らせるための灯りだ。


 外気に触れてようやく、背中に張りついた服の湿りに気づいた。思っていた以上に汗をかいていたらしい。ロズミア侯爵夫人の前では平気な顔をしていたつもりだったが、身体のほうはそうでもなかったようだ。

 

 エレノアは一度だけ息を吐き、手袋の縁を引き直した。怖かったことと、ここで止まることは、別の話だった。


「教会の記録庫へ行きます」


 馬車に乗り込むなり、エレノアは言った。


「詰所へは戻りません。高等記録院と教会記録庫です」


「夜中だぞ」


「だからです」


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