第二話「婚約破棄と神前侮辱の訴え」4
その夜、ロズミア侯爵家にて開催される夜会は慈善の名を掲げていた。施粥院への寄進と、焼失した礼拝堂の再建資金を募る音楽会――という体裁だ。
体裁は便利な言葉だ。人はそれを掲げるだけで、実態としては何をしていようが、ずいぶん見苦しいことまで布で覆える。
門前には日が沈む前から馬車が列をなしていた。灯りを受けた車輪が濡れた石畳に光を引く。
御者台の鞭、馬の鼻息、絹の擦れる音、笑い声。どれも上品で、そのくせ少しずつ湿っている。
「最後に確認します」
門から一本離れた路地で、エレノアは外套の襟を整えながら言った。
今夜のエレノアは、いつもの法務局の服ではない。地味な濃鼠色のドレスに、飾り気のない手袋。教会記録の確認に来た書記補佐、と言われれば通る程度の身なりである。
ロズミア侯爵家の夜会に潜入する。正式な手続きとして胸を張れるやり方ではない。だが、表の扉から入って見せてもらえる記録だけで届く相手ではなかった。
対するカイルは、黒に近い濃紺の従者服を着ていた。飾りはないが布の質は悪くない。白手袋までしている。何より、立ち方が違った。普段の気だるさを捨てたわけではないのに、背筋の通し方と顎の引き方だけで、人はこんなにも別人めくのかと思う。
「似合いますね」
エレノアが思わず言うと、カイルは嫌そうな顔をした。
「褒めるな」
「驚いただけです」
「同じだろ」
確かにこちらはいつもと同じで感じが悪い、エレノアは少し笑う。
「私は表から入ります。あなたは裏から」
「欠員に入る。潜り込むんじゃない」
「もっと悪いでしょう、それ」
「世の中、急に腹を下す下男は多い」
これまたひどい言い草だったが、否定しきれない響きで言うのがなお悪い。
「飲み物は受け取っても口はつけるな。誰かに別室へ誘われても、一人では入るな。侯爵夫人か執事長の名が出たらまず断れ」
「はい」
「あと、今夜は怒るな」
「無理な注文です」
「だろうな」
その返しだけが少し、カイルも笑っていた。
屋敷の中は明るかった。高い天井に無数の燭台。磨かれた床。壁には信心深さを装う聖人画。弦楽が流れ、香油と葡萄酒の匂いがゆるく混ざる。
慈善を掲げる夜会のはずなのに、人々の口に上るのは、誰を救うかではなく、誰をどこへ結びつけ、どの家の傷をどう使い、どの縁談を次の取引へ変えるかという話ばかりだった。しかも誰ひとり声を荒げない。笑顔のまま、祝福めいた言葉で、相手の家をどう扱いやすくするかを話し合っている。
救貧のための夜会だというのに、そこで扱われている貧しさは、腹を満たすべき現実ではなく、家名を飾るための名目に見えた。
エレノアは少し嫌な気分になりながら献金誓紙の卓へ向かった。紙を捲るふりをしながら、周囲の会話へ耳を澄ませる。
「お気の毒でしたわね、エスティナ家の令嬢」
「お気の毒? でも、神前で誓われたあとに捨てられるなんて、むしろ語り草としては上出来でしょう」
「やめて。笑ってしまうわ」
笑い声は鈴みたいに軽い。
軽いのに、やたらに耳障りだった。
扇に蔓薔薇の変形紋を持つ若い女が、わざとらしく肩を竦める。
「でも、先に祭壇まで行かせておいて正解でしたわね。そこまで済めば、先方はもう引けないもの」
「それに、値が見えるでしょう?」
「ええ。持参金、信心、家の怒り方、兄の血の気……それに、令嬢本人がどれほど折れやすいかも」
エレノアの指先が誓紙の端をわずかに強く押した。
「ディンケル家はどうなるかしら」
「どうもこうも。借換えは済んだもの。次の席に座れれば十分でしょう」
「でも、不実の噂は残るわよ?」
「だからいいのではなくて? 一度そういう傷を持った家は、次から扱いやすいもの」
「エスティナのほうは?」
「令嬢が悪いのか、令息が悪いのか、曖昧なままが一番綺麗でしょう。女の評判なんて、少し濁しておくだけで勝手に沈むもの」
その一言で、石段の下の噂の形が完成した。
誰かが流したのだ。いや、流しただけではない。どこまで流せば本人が潰れ、家が怒り、兄が剣へ傾き、しかし完全には破綻しないかまで計っている。
しかも、その壊れ方まで余興として眺めているのだから、なお質が悪い。
その時、女官が近づいてきた。
「書記の方? こちらではなく小書斎へ。控えの確認は奥で」
女官はそう言って、笑いもしない口元のまま身を返した。
嫌な案内だ、とエレノアは思った。
広間から外れる。人目が減る。控えの確認という名目のわりに、道が静かすぎる。しかも今夜、誰かに別室へ誘われても一人では入るなと、ついさっき釘を刺されたばかりだ。
言われた時は、まるで子ども扱いだと思った。だが今は、その忠告を思い出した自分を褒めたいくらいだった。
女官の半歩後ろを、エレノアは何でもない顔でついていく。
廊下は広間より灯りが落ちていて、壁の金飾りばかりが妙に光った。閉じた扉が等間隔に並び、絨毯が足音を吸う。弦楽はまだ遠くから聞こえてくるのに、ここだけ別の屋敷みたいに静かだ。
「控えの確認でしたら、広間脇でも十分では」
エレノアができるだけ軽く言うと、女官は振り返りもせず答えた。
「人目が多うございますので」
その言い方が、控え目に言っても親切ではない。
人目が多いと困るのは、確認される側に何か後ろめたいことがあるからではないのか、とエレノアは胸の内だけで言い返した。
廊下を二度曲がり、小さな前室を抜ける。
小書斎と呼ぶには、扉がいささか重々しかった。
喉の奥がわずかに乾いた。書類を読む時の緊張ではない。扉一枚の向こうで、こちらが確認する側から確かめられる側へひっくり返る気配だった。
しかも今夜の自分が、まっとうな手続きの側に立っているのではない。
女官が先に立ち、取手へ手をかける。
「こちらでお待ちを」
開けられた室内は、思っていたより整っていた。
壁一面の書棚、小ぶりな机、香の匂い、夜会の喧噪を遠くに薄めたような静けさ。書記用の部屋というより、誰かに落ち着いて話をさせるための部屋に見える。
エレノアの背中に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
一人では入るな。
廊下へ出てから思い出した忠告が、さらに重くなる。ここで踵を返すのは不自然だ。だが、入るのもまずい。
「失礼いたします」
背後から、別の声が落ちた。
滑らかで、抑揚が薄く、よく訓練された使用人の声だった。
振り返ると、銀盆を手にした従者が立っていた。灯りの下で見ても乱れのない襟元。目線の落とし方、立つ角度、気配の薄さまで、まるで最初からこの屋敷に仕えていたような顔で、カイルがそこにいる。
助かった、と思うより先に、何ですかその完成度は、エレノアは言いたくなった。
「奥様がお探しです。施療院長が先ほどお着きに」
女官の眉がぴくりと動く。
「今?」
「はい。かなりご機嫌を損ねておられるようで」
それだけで十分だったらしい。女官は小さく舌打ちし、エレノアへ形だけの会釈をした。
「少々お待ちを」
そう言い残して女官は足早に去っていく。
その足音が消えてから、カイルは銀盆を少し下げた。
「こっちだ」




