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第二話「婚約破棄と神前侮辱の訴え」3

 ディンケル伯爵家の屋敷は、エスティナ子爵家よりひとまわり大きく、そして寒かった。暖炉に火は入っているのに寒い屋敷というのはある。きっと見栄と計算の隙間風が多いのだ。

 案内されたのは、正面の客間ではなく側棟の採光だけはいい部屋だった。


「正客を通す部屋じゃない」


 席に着く前に、カイルがぼそりと言った。


「会ってはやるが、扱いは軽くするって手だ」


 エレノアは何気ない顔を作ったまま、内心で眉をひそめる。

 やはりこの男は、妙に貴族の手管を知りすぎている。


 ラウル・ディンケルは、待たせた末に姿を見せた。整った顔立ちの青年だった。

 だが目が落ち着かない。育ちの良い若者の不安ではなく、自分の立つ位置を誰かに教わったばかりの人間のぎこちなさがある。


「調停士殿。わざわざ来てもらうほどの件ではないと思うのですが」


「神前誓約の破棄です。十分に来るほどの件です」


 エレノアが答えると、ラウルは口元だけで笑った。


「誓約にも、前提というものがあります」


「前提?」


「相互の理解、家格の釣り合い、将来への適性――」


 神よ。

 奇跡ではなく、見落とさぬ目を。


「あなたの言葉で話してください、ラウル卿」と、エレノアはラウルをしっかり見据えて言った。


 ぴたり、とラウルの口が止まった。

 答える前に、背後に控えていた執事が一歩だけ進み出る。


「若様はすでに書面で――」


「あなたには聞いていません」


 エレノアが言うと、部屋の空気が冷えた。

 ラウルの喉が上下する。言葉を探しているのではない。言ってよい言葉の範囲を測っている顔だ。


「誓約の時点で、別の縁談の可能性を知っていましたか」


「……噂程度には」


「マリアベル様のことを、嫌っていたのですか」


 その問いだけは、部屋の全員が予想していなかったらしい。

 ラウルは露骨に息を詰まらせた。


「それは……」


「愛していたかどうかではなく、嫌っていたかどうかです」


 ラウルは長く黙ったあと、掠れた声で言った。


「嫌っては、いません」


 その一語は、かえって惨めだった。

 嫌っていない。だが守れもしない。

 それは若い令嬢にとって、憎まれるより始末が悪いかもしれない。


「では、なぜ破ったのです」


 執事がまた口を挟もうとしたが、エレノアは見向きもせずに押し返した。おそらくこの問題の本筋は、この場でラウルの口からでしか拾えない。

 部屋を出ていく執事を視線で見送る。 


「家の事情、という言葉でなく」


 ラウルの喉が上下した。


「……家の借財がありました」


 少しの間を置きラウルが言った。


「それだけですか」


 エレノアは声色を変えない。


「……父から、家のためだと」


「ラウル」

 

 いつの間にか執事が伯爵を連れてきている。伯爵が低く呼んだ。

 叱るというより、思い出させる声だった。自分が誰の息子で、どの家の名でここに座っているのかを。


 ラウルの肩が目に見えて強ばる。


「それだけですか」


 エレノアは伯爵を無視し、なおもラウルから視線を逸らさない。

 執事が一歩進み出る。


「調停士殿。若様はすでに必要な説明を――」


「私は本人に聞いています」


 エレノアは引かない。短く言い切ると、執事は唇を引き結んだ。

 ラウルは苦しそうに顔を歪めた。

 言えば終わる。言わなくても、もう戻れない。そんな顔だった。


「……もっと良い縁談があると、言われました。ここで迷えば、家も、私も、笑いものになると」


 机を叩く音が、短く鳴った。


「黙れと言ったはずだ」


 今度は伯爵がはっきりと言った。低いが、部屋の空気ごと押さえつける声だった。


 エレノアはそこでようやく、胸中の違和感の形を掴んだ。

 金だけの脅しではない。体面と、嘲笑と、上流の輪の中で値踏みされる恐怖が混じっている。


 その時、カイルが低く言った。


「帳面はどこだ」


 誰にともなく言ったようでいて、部屋全体へ落とした声だった。

 伯爵が苛立つ。


「何だ、貴様」


「資金繰りに追われてるだけの家のやり方じゃない。外見だけなら新しい金が入ってる。だが壁の飾りが二つ抜けてる。売ったな。なのに慌てて婚約を壊した。金が欲しかっただけなら、エスティナ子爵家の持参金を受け取るほうが早い」


 伯爵の目が剥かれる。


「じゃあ別の理由がある。金の工面より先に片づけなきゃならない話が出てきたんだろう。ディンケル伯爵家が笑いものになると吹き込んだ奴がいて、それに急かされて方針を変えた」


 今度こそ部屋が静まり返った。

 ラウルは蒼白になっている。伯爵は怒鳴ろうとしたが、怒鳴れば図星だと認めるだけだと分かったらしい。声にならない息だけが漏れた。


 ――笑いものになる。

 エレノアの脳裏に、マリアベルの口にしたロズミア侯爵家の名がかすめた。


 エレノアは立ち上がった。


「本日はここまでにします。明日、教会記録庫と高等記録院へ照会をかけます。借財証書の写しも確認します」


「法務局風情が」


 伯爵が低く言った。


「縁談に口を出しすぎではないか」


「縁談だけなら、ここまで来ません」


 エレノアは静かに返した。


「神前で交わした誓いまで、家の都合で軽くしてよいと思っておられるなら、なおさら見過ごすことはできません」


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