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第二話「婚約破棄と神前侮辱の訴え」2

 婚約破棄された令嬢、エスティナ子爵家の屋敷は、教会から馬車でそう離れていない上区画にあった。

 王都の中でも、金の匂いが土ではなく石から立つあたりだ。この石畳を歩くだけでも、平民のエレノアはなんだか背筋がそわそわする。

 エスティナ子爵家の屋敷の門扉は磨かれ、紋章旗は風のない空気の中でもきちんと形を保っている。


 通された応接間は明るかったが居心地は悪かった。

 貴族向けに整いすぎている部屋は、それだけでその場に相応しくないものを歓迎しないという顔をしてくる。


「ようやく来たか」


 最初に声を上げたのは兄のマティアスだった。エレノアより少し年上か二十五、六ほどの若者で、せっかく仕立ての良い上等な上着を着ているのに、怒りだけが服に馴染んでいない。


「調停士エレノア・ヴェイスです。本件の事実確認に参りました」


「確認も何もあるか。妹は神前で侮辱された。あの男は祭壇の前で誓い、十日で泥みたいに捨てたんだぞ」


「だからこそ、順に伺います」


「順?」


「怒りの順ではなく、事実の順です」


 マティアスは歯噛みしたが、客間で怒鳴り散らすほど愚かでもないらしい。でも椅子へ乱暴に沈んだ。


 やがて入ってきた令嬢マリアベル・エスティナは、病み伏せていると聞いていたよりずっときちんとしていた。青白くはあるが、髪も服も整っている。その丁寧さ自体が、崩れないための最後の堰みたいに見えた。


 エレノアは簡単な確認から始めた。誓約の日付、立会人、交際期間、両家の合意内容。婚約破棄の当事者のマリアベルは感情の揺れを見せず淡々と答えた。ひとつひとつは整っている。整っているが、整いすぎている。

 そういう答え方をする人は、たいてい途中で一度壊れている。それでも責任感で、散った破片を一つずつ拾い集め、人に見せられる形へ並べ直してから語るのだ。


「破談の申し入れは書面でしたか」


「はい」


「直接会っての説明は」


「ありません」


 そこでマティアスの拳がぎしりと鳴った。


「臆病者が」


「お兄様」


 弱いが、慣れた響きの制止だった。彼女はずっと、家の中の怒りを自分の声で止めてきたのかもしれない。


 少し間を置いてから、エレノアは訊いた。


「破談のあと、周囲の反応で何か変わったと感じることはありましたか」


 マリアベルはそこで初めて、答えを選ぶように黙った。


「……変わりました」


「どのように」


「直接、何かを言われるわけではありません。ですが、侍女たちが口を閉じるのが少し早くなりました。来客の顔に、先に“事情を知っている”顔が混じるようになりました。教会でも……わたくしを気の毒がる方と、何か理由があったのだろうと見る方とで、目が違いました」


 マティアスの顔が険しくなる。


「誰かが喋っている」


「ええ」


 マリアベルは静かに頷いた。


「しかも、ただ破談になったというだけではなくて。わたくしに原因があったのではないかと、そう思わせるような形で」


 エレノアの胸中で、石段の下の噂がつながる。

 気位が高い。嫉妬深い。何かを隠している。ばらばらの悪意ではない。形の揃った悪評だ。

 書類上の情報と今対面するマリアベルの印象は、市井の噂は現時点でかなり差異がある。


「誓約の前後で、ラウル卿の様子に変化はありましたか」

 

 婚約破棄を告げた相手側について、エレノアは踏み込んでみる。

 マリアベルの睫毛が揺れた。変化があった、そういう顔だった。


「……誓約の二、三日前から、少し」


「どのように」


「わたくしの言葉を聞くというより、確かめるような質問が増えました。昔、親しくしていた異性はいないか、とか。教会に隠していることはないか、とか。神前での誓いに“瑕疵”があれば、後からでも無効になりうるのか、と」


 マティアスが顔を上げる。


「そんなことを?」


「ええ」


 エレノアの指先が手帳の端をなぞった。

 瑕疵。若い恋人が婚約者へ自然に向ける言葉ではない。何らかの書類手続きの一環で、誰かに吹き込まれたような妙な語彙の使い方だ。


「その質問に、ラウル卿ご自身の意思らしさはありましたか」


「……申し訳ありません。うまく言えませんけれど、あの方は、わたくしを疑っているというより、何かを怖がっているようでした」


「あなたを?」


「いいえ。誰かを、あるいは、何かを」


 そこでマティアスが低く吐き捨てた。


「どうせ伯爵家の金周り関連だ。うちの持参金を飲み込むつもりだったのに、もっと条件のいい餌がぶら下がったんだろう」


 露骨な言い方だが、筋としてはありえる。だがそれだけなら、話がここまで妙な濁り方をするだろうか。

 ただ破るだけでは済まない事情があったのか。あるいは、誰かにとっては、令嬢側にも何かありそうだと思わせておくほうが都合がよかったのかもしれない。

 

 エレノアは破談書面の写しを受け取った。

 文面は綺麗だった。そして洗練された狡さがあり、配慮と曖昧さで磨かれた刃物みたいな文章だ。家風の差異、将来設計の再考、敬意を失わぬまま関係を解消したい――誰の責任も明言しないのに、結果としては一方の名誉だけが静かに削られる構造になっている。


「これは、ラウル卿ご本人の筆跡ですか」


「署名は本人のものだと、父は」俯くようにマリアベルが言った。


 その横で、ずっと黙っていたカイルが紙に視線を落とした。


「手は入ってるな、しかも、揉め事に慣れた嫌な手合いの入れ知恵で」


 マティアスが即座に睨む。


「何だと」


「整えてる奴がいる。しかも、礼を失さずに別れるための文じゃない」


「なぜ分かる」


「相手の顔を立てるふりをしながら、後で評判だけ落ちるように組んでる。こういうのは、文を綺麗にしたい奴じゃなく、揉めた後の勝ち方を知ってる奴が書く」


 最低な言い回しだったが、エレノアは反射的にカイルの横顔を見た。


「根拠はありますか」


「『敬意は失わぬ』の次に『今後の誤解を避けるため』と来る。これ、相手への配慮じゃない。先に解釈を囲ってるんだ。あとで何を言われても、こちらは穏当に収めようとしたって形に持っていける」


 カイルは紙から目を上げない。


「しかも、相手の家名を出す位置が妙だ。破談の報告じゃなく、家同士の損害管理に寄ってる。若造の言い訳文じゃなく、争い慣れた大人の文だな」

 

 その後もカイルはつらつらと、貴族間特有の文章の作法の説明のような、妙に納得感のある理由を補足しながら破談書面の文章を解説していく。

 マリアベルは初めてまともにカイルを見た。


「……あなたは、貴族家の文をよくご存じなのですね」


 室内の空気が一瞬だけ止まった。カイルは何でもない顔で肩を竦めた。


「揉め事のあとには、そういう紙も落ちる」


 うーん、その理屈は分かるが、カイルの立場でそういう紙の中身をじっくり拝読することがあるのか?

 だがエレノアは今は追及しないことにした。今の問題の本筋でないし、単にエレノアの興味の話。それに追えばカイルがはぐらかすのは分かっている。


「最近、ラウル卿の周辺で新しく出入りし始めた家や人物に心当たりは」


 エレノアがそう問うと、マリアベルは少し考えたのち、ほんのわずかに眉を寄せた。


「一度だけ、夜会で。ロズミア侯爵家の方々と、親しげに話しておられるのを見ました」


「侯爵家ご本人と?」


「いいえ。ご令嬢ではなく、その取り巻きの方々と。……あまり上品な集まりではありませんでした」


「あまり、とは」


「笑い方が、です。夜会の笑い方ではなくて、誰かの恋や不幸を遠くから眺めて、賭けの種にする時のような」


 その表現に、応接間がわずかに冷える。

 ただの破談ではない。本人も、そう感じていたのだ。

 婚約が壊れたのではなく、壊れるところまで込みで見られていた。


 屋敷を辞したあと、マティアスは門前まで追ってきた。怒りの置き場を探している顔だった。


「調停なんぞで済むと思うなよ。妹の名誉が守られないなら、俺は決闘裁判へ持ち込む」


「その前に帳簿を見ろ」


 カイルが先に言った。


 マティアスの眉が跳ねる。


「何だと」


「名誉を守りたいなら剣を抜く前に帳簿を見ろ。名誉より借金の匂いがきつい」


 門前の空気が固まった。

 マティアスは逆上しかけたが、傍らの老執事が慌てて止めた。止め方が妙に急だった。金の話に触れられたからというより、その先を読まれるのを嫌がったように見えた。


 エレノアは馬車へ乗り込んでから、低く言った。


「今のはどういう意味ですか」


「そのままだ」


「そのままでは分かりません」


「家の怒り方が綺麗すぎる。ほんとに妹の恋だけの話なら、あんなに整った怒りにはならねえ。あれは、恋も名誉も本物だが、それだけじゃない家の顔だ」


「家の顔」


「娘が傷ついた怒りに、持参金と体面の痛手が混じってる。……たぶんそれだけでもない」


 カイルは窓の外を見たまま言った。


「あの家、嫁がせて終わりのつもりじゃなかったんだろ。婚姻のあとに、傷んだ伯爵家の帳面へこっちの手を入れる腹もあった。だから借金って言葉にああいう止まり方をした」


 エレノアは少し黙った。

 たしかにそうだった。兄の怒りは嘘ではない。だが、嘘ではないからこそ厄介だ。妹を傷つけられた怒りと、家の取引を踏みにじられた怒りと、貴族として侮られた怒りが、一つになって燃えている。


 婚姻を結ぶだけではない。その先で、金と恩を通して相手の伯爵家に手を入れるつもりだったのかもしれない。

 愛憎は、いつも純粋な形では現れない。


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