アカリのノート
酔い覚ましに、窓を開けると夜の冷たい空気とともに、微かに声が聞こえてくる。男たちの酒盛りだ。
「きっと朝まで飲んで、何食わぬ顔で仕事をするのよね。羨ましいわ」
彼らの底知れぬ体力に付き合わされて、翌日には死ぬような思いをしたことが、討伐隊にいた頃には何度もあった。
そんなことを思い出しながら、私は机の上に置かれた一冊の本に手を伸ばす。
「さて、魔術書を読むことにしよう」
古びてはいるが、手入れの行き届いた綺麗な厚い本だった。プラドが大切に保管していたのだろう。
私は静かに、その表紙を開いた。
魔術書は、とても難解だった。まるで哲学書のようだ。
「まいったなぁ。わからないや」
それでも何度か同じ箇所を読むことで、言おうとする意図が僅かにだがわかった。
「この本、アカリにわかったのかしら?」
不思議に感じて、隣にある彼女のノートを開いた。
参考書と評したが、まさにその通りだった。
「え? すごく読み込んで書いてる」
アカリが、こんなに真剣に魔術に取り組んでいるなんて、少しも想像していなかった。
「彼女も、苦労をしていたのね」
それを誰にも見せていなかったのだ。もちろん、私にも微塵も。
「考えてみれば、アカリは勉強はそれほど好きじゃないはずなのに……」
転生したアドバンテージは、いつまでもあるものじゃない。それに、言語は新たに習わないといけないし。
「そういえば、殆どの教科で上位にいて、剣でも魔術でも最上位だった」
私は、彼女への認識を初めて改めた。部屋に引きこもり、図書館の片隅ですることも無く、ただ本を読んでいただけの私とは違う。
「見栄っ張りなんだから」
遊んでいるように見せる一方で、彼女なりの方法で努力をしていた。私とは違う方法で。
「私が亀で彼女が兎なんて勝手に思い込んでた。悔しい。でも嬉しい」
私は再び、アカリのノートを読んだ。
『異世界は海だ。この異世界にいるものは魚。泳ぎを習わなくても生まれた時から泳げる。私たちは、人。泳ぎを覚えなくてはいけない』
『私がこの世界にいることを肯定しよう。この世界が夢であっても。理に反すると考えるのは、傲慢だ』
引き出しから、私は、新しいノートを取り出した。
「負けられない! 魔術を使えるようにしてやる!」
私は再び、魔術書の同じ箇所を何度も読み返しながら、ノートに書き写した。
「でも、アカリのノートがある分、私の方が有利ね」
時間は一瞬に過ぎて、いつの間にか、陽がエベレス山脈の隙間から登っていた。
「シズカ様、おはようございます。早いですね!」
ピクシアとクロエの声に振り向く。
「おはよう!」
二人は、眠そうに目を擦りながら――
※
それから数日。私は部屋に籠もって、魔術書を読んだ。
「本を最後まで理解してから、訓練を始める」
プラドから訓練を断られたからだ。
「それだと、いつまでかかるかわかりません……」
「しばらくこの地に滞在するから、焦ることはない。わしにもやることがある」
プラドは微笑むと、エルフたちに薬作りを教えていた。
離れていた時間を埋めるように、彼女はエルフたちとともに作業をする。それ以外にも、彼女の知識を惜しみなく教えている。もちろん、魔術もその一つだ。
その様子を、私は部屋の窓から眺めていた。
屋敷の裏の訓練場から、会話が聞こえてくる。
「なるほど、こんな魔術があるんですね!」
「ああ、エルフには伝わっていない魔術じゃ。呪文は覚えておるのか?」
「完璧じゃないかもしれません。ですが、何とかなるでしょう!」
セラフィナは、プラドから教わった魔術を嬉しそうに試している。
腕を伸ばし、呪文を唱える。
次の瞬間、壁に指ほどの大きさの穴が穿たれ、その向こうまで貫通した。
「ほっほっほ。お前らしく、迷いがないな」
「ありがとうございます!」
セラフィナは嬉しそうに笑った。
迷いがない。
いや、違う。
彼女には、そもそも疑うという発想がないのだ。
魔力がある。呪文を唱えれば魔術が発動する。
それは、この世界に生きる彼女にとって、あまりにも当然のことなのだ。
属性魔術の適性があり、魔術の形が想像できて、魔力があり、才能がある。
この条件が揃えば、魔術は使える。
それを疑う理由など、この世界に生まれ育ったセラフィナにはない。
けれど、私たち転生者は違う。
私たちは前世で生きてきた世界の理を、身体に染み込ませている。
この世界に魔術があることを頭で理解しても、それを当然のものとして受け入れるのは難しい。
私は、机の上に置かれたアカリのノートを見る。
『私がこの世界にいることを肯定しよう。この世界が夢であっても。理に反すると考えるのは、傲慢だ』
「……お姉ちゃん」
この言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
アカリは、もう気づいていたのだ。だから、魔術が使えていたのだ。
私は窓の外に目を戻した。
セラフィナは、何の疑いもなく次の魔術を試している。
私はアカリのノートに手を置いた。
「でも、どうやって克服すればいいんだろう?」
私は机に戻り、再び魔術書を開いた。
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