竜影と魔女
「幻影のドラゴンとは何ですか?」
「完全に姿を消せる魔竜だ。だが、古文書や英雄譚に、その存在を裏付ける記述はごくわずかしか残っておらん。目撃した者もほとんどおらず、足跡だけを残して消えることから、長らく伝説として語られてきた。……だが、あの山にいるというのなら話は別だ」
応接室の窓から見えるエベレス山脈の峰々は、白い雪をいただき、静かにそびえ立っていた。
「さっき、プロストは足跡を見つけたって言っていたわよね?」
「ああ。カリオンたちの炭鉱でな。執政官殿も見ただろう?」
「ええ。でも、あれはまるで何か巨大なものが地面を這ったような跡だったわ」
私は勝手に飛竜を想像していた。
けれど、あの足跡を見る限り、地を歩く竜――地竜なのだろうか。
「本当に、あの足跡がそのドラゴンのものなのかしら?」
「少なくとも、俺が調べた限りでは、あんな足跡を残す魔獣は、このワールドエンドには存在しなかった。だからこそ、幻影のドラゴンを疑っている」
プロストの口調には、珍しく確信と迷いが同居していた。
「その場にはカリオンもセラフィナもいたのでしょう? 姿は見えなかったの?」
「ああ。魔物なら魔力で存在を感じられるし、生き物なら鼓動や気配も探れる。だが、それらが何一つ感じられなかった」
プロストが首を横に振る。
続いてセラフィナが静かに口を開いた。
「もし動いていたのなら、空気は揺らぐはずです。それすらありませんでした。本当に幽霊のようでした。私たちが確認できたのは、何かに怯えた魔物たちが採掘場へ逃げ込んだ痕跡だけです」
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。
姿も見えない。
魔力も感じない。
空気すら揺らさない。
そんな魔獣が本当に存在するというのだろうか。
「古文書には、姿だけでなく魔力さえ完全に隠す魔竜だという記述もある。伝承どおりなら、誰にも見つけられなくても不思議ではない」
もしそんな化け物じみた魔獣がこの地に現れたのだとしたら、大きな被害は避けられない。
しかも、すでに炭鉱の近くまで降りてきている。
その事実だけで背筋が寒くなった。
下手に刺激するのは得策ではない。
過去の記録がほとんど残っていない以上、相手の生態も目的も何一つわからないのだから。
なぜ、エベレスの山から炭鉱まで降りてきたのか。
そして、ゼルフィードが森へ入ろうとしない理由。
もし、あの子がドラゴンの存在を察知しているのだとしたら――。
この二つの疑問こそが、真相へと繋がる鍵のような気がした。
「教えて、ゼルフィード。エベレスの山にいるのは、ドラゴンなのね?」
私が幼い子どもに話しかけるように身振りを交えて尋ねると、魔鳥は「そうだ」と言わんばかりに首を縦へ振った。
「どうしてわかるの?」
続けて尋ねる。
けれど、その問いは少し難しかったらしい。
ゼルフィードは小さく首を傾げ、困ったように私を見つめ返した。
「ごめんね。そんなことまで聞かれても困るわよね」
私は苦笑しながら、狩人に仕留めてもらった野生の鹿肉を差し出した。
「ほら、今日はあなたの大好物よ」
ゼルフィードは嬉しそうに肉へ飛びつく。
……と思った次の瞬間、小さく鳴いて、どこか不満そうな顔をした。
「あら、何その顔」
私が思わず笑うと、ゼルフィードは翼をぱたぱたと動かして抗議するように鳴いた。
「あなたなら、自分で獲った獲物が食べたいって言うんでしょう?」
また一声。
「ふふっ。あなたの腕前はちゃんとわかってるわ。でも、生まれたばかりの子鳥の、分よ、今はたくさん食べて大きくならないとね」
そう言って頭を撫でると、ゼルフィードは渋々といった様子で肉を巣に運んだ。
その様子がおかしくて、自然と笑みがこぼれる。
肩へ飛び乗ってきたゼルフィードの頭を優しく撫でると、気持ちよさそうに目を細め、小さく喉を鳴らした。
その温もりに触れていると、不思議と胸の奥に張り詰めていた不安が少しだけ和らいでいく。
そんな私たちの様子を、少し離れたところでセラフィナとクロエが微笑ましそうに眺めていた。
「だってぇ、神の使いであるゼルフィード様と、本当のお友達みたいなんですもの」
「友達だもんね、ゼル」
私が笑いかけると、ゼルフィードは返事をするように小さく鳴いた。
まるで「もちろんだ」と言ってくれているようで、胸が少しだけ温かくなる。
「シズカ様、お時間です」
セラフィナに声をかけられ、私は名残惜しくゼルフィードから手を離した。
「……そうね。ドワーフの砦へ行かないと」
立ち上がる前に、窓の外へ視線を向ける。
雪をいただくエベレス山脈。
あの山のどこかに、例の箱が隠されている。
そして――幻影のドラゴンも。
山は何事もなかったかのように静まり返り、ただ白く輝いていた。
「二人で話がある。さあ、乗ってくれ」
プラドが自分の馬車の扉を開き、私だけを中へ招いた。
「はい……」
私は一度だけゼルフィードを振り返る。
ゼルフィードはじっとこちらを見つめ、小さく鳴いた。
その声に背中を押されるように、私は馬車へ乗り込んだ。
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