雨音の朝
執政官別邸には、ワールドエンド中央の領民が避難していた。
二十世帯九十人ほど。その全員が無事だった。
「ご無事ですか? 執政官様!」
砦には古くからの領民たちが守備についている。
その中には、ロン爺の姿もあった。
「昔から何度も、この地には魔物が現れていたからな」
使い込まれた防具に身を包み、弓を肩にかけ、腰には剣を差している。
「急な連絡をしたのに、避難してくれて感謝します。それと防衛まで……」
私は炎石の鉱人の背中から降りた。
だが、足が地面についた瞬間、全身から力が抜けた。
視界がぐらりと揺れる。
自分では立っているつもりなのに、膝が笑っていた。
「主様!」
「シズカ!」
クロエと炎石の鉱人が同時に腕を掴む。
危うく転ぶところだった。
「主様、休みましょう。挨拶は後で。状況は私が説明しておきます」
クロエは状況をうまく説明できるだろうか。今後の方針を話せるだろうか。
そんな不安が顔に出ていたのだろう。
クロエは不貞腐れたように頬を膨らませた。
「ははは。魔物との戦いのこと、それとどう対処すればよいかは、わしがよく知っておる。話をわしにさせてくれ。お嬢ちゃんは大切なシズカの看護を頼む」
優しげに炎石の鉱人が語りかけ、頭を下げた。
「はい。そうします。さ、主様。部屋に行きましょう」
クロエは機嫌が直ったらしく、尻尾を振って言った。
「でも……」
「駄目です」
即答だった。
私は思わず苦笑する。
「そうね。ファイヤーストーンに任せるわ」
魔物討伐隊の部隊長を長く勤めた伝説の冒険者。こういう時は、おじ様に任せるのが一番だ。
だが、その名を口にした途端、その場が騒然となった。
広間に集まっている領民たちの視線が、私と鉱人を交互に行き来する。
「は? 執政官様、今なんと言われましたか?」
「炎石の鉱人 ファイヤーストーンよ。知ってるの?」
「ええ、聞いたことがあります!」
「竜炎を最後まで盾を掲げ続け防いだという伝説の!」
「まさか生きて会うことがあるなんて……」
領民たちの言葉に、鉱人は豪快に笑った。
「ははは! 大袈裟だな。今は引退した冒険者だ」
そう言いながら広間を見回す。
「これからのことを皆と話そう。それと、執政官殿は奮戦して疲れている。ゆっくり休ませてやってくれ!」
「もちろんです!」
「執政官様のおかげで助かりました!」
「ありがとうございます!」
誰かが叫んだ。そして、感謝の言葉は広がっていく。
「当たり前のことをしただけよ。それより、当面の危機は去ったわ!」
私の宣言をきっかけに、広間へ安堵の空気が広がっていく。
広間の隅に、避難で慌てて持ち出した荷物が積み上げられている。
泣き出す子供。胸を撫で下ろす母親。
みんな、不安だったのだ。私もだ。だが、彼らが来てくれた。もう安心だ。
私はクロエに背中を押されながら、元ミラーの個室――執政官室へと入った。
「寝ていてくださいね。食事と水を持ってきます」
「私も炎石の話を聞きたいのに……」
「馬鹿なことを言ってないでください」
ベッドへ押し倒された。
柔らかな感触に身体が沈む。
その瞬間、自分がどれだけ疲れていたのか理解した。
「それなら一つお願い」
「なんですか?」
「お菓子を作って配ってあげて」
領民の半数以上は子供だ。
狭い場所に閉じ込められて、怖い思いをしている。少しでも笑顔になってほしかった。
「はぁ……わかりましたから」
クロエは呆れた顔で私を見た。それでも断らないのがクロエだった。
耳が少しだけ嬉しそうに揺れていた。彼女も食べたいのだろう。
私は小さく笑った。
瞼が重い。屋敷に暖かい空気が満ちるのを感じる。
次に目を覚ました時には、少しでも良い知らせが増えているだろうか。
そう願いながら、私は静かに眠りへ落ちていった。
※
私は雨の音で目を覚ました。起き上がって、厚いカーテンを開ける。
降り注ぐ雨粒が窓を叩いている。
外を見ると厚い雲で覆われて、遠くのエベレス山脈が隠れている。
どれほど眠っていたのだろう。窓の外の明るさを見る限り、朝になったらしい。
「シズカ、やっと起きた!」
私の気配に気づいて、クロエが足早に部屋へ入ってきた。いつの間にかメイド服を着ていた。
「よく寝たわ」
「はい、とても。お腹減りましたよね?」
「そう言えば……」
実はかなり空腹だった。
「スープをお持ちしますね!」
持ってきたのは暖かいスープ。独特な匂いと、中に入っている具材。
「これは、エルフの作るスープね。私がエレノアに教えたものだわ。でも、私のよりも美味しい」
疲れを癒し、心も癒す。
レシピ通り作ってもこれ程の味は出ない。
まさか……。
「お代わりは、シェフ自ら持って来させます」
クロエが下がると、代わりに入ってきたのはラファーガだった。
このスープを私に教えた張本人。
「貴方まで来てくれるなんて! 想像もしてなかったわ。ありがとう」
「遊びに行くって言ってたろう。それよりも、私の方が感謝を述べないとな。セラフィナを、一族を救ってくれてありがとう!」
「事情は聞いたでしょ? これはウルフェンハルト家がしでかした事件なの。だから謝るのは……」
「お喋りは後だ。ほら食え!」
ラファーガは椅子に腰掛け、スープの入ったスプーンを私の口の前に運ぶ。
私は思わず口を開き、反射的に飲み込む。
だが、子供みたいな扱いに思わず頬が赤らんだ。
「自分で食べるわ」
皿とスプーンをラファーガから取り上げて飲む。
彼は満足そうに静かに、私を眺めている。
扉の向こうに、慌ただしい足音が聞こえる。
嫌な予感がした。
「狡いわ、お兄様」
セラフィナとエルフたちが、クロエの制止を振り切って部屋に入ってきた。
「ちっ、面白くなるところだったのに……」
最初から扉の前で盗み聞きをしていたクロエが、残念そうに呟いていた。
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