絶望の淵
群れの長である戦士の目を持つホブゴブリンが、最初の一撃を入れるのを、他のホブゴブリンは笑いながら待っている。
私は瞬時に、どんな行動を取るべきかシミュレーションする。
致命傷を避ける。ポーションを飲む。そして逃げる。
だが、防御力のある執政官の服を貫通する暴力的な力、素早い移動速度、統率の取れた集団を前にして、その考えはすぐに否定された。
ダメだ。
勝ち筋はおろか、逃げ筋も見いだせない。
ピピピーッ ピピピーッ
クロエが口笛を鳴らす。
符号を知らぬ私でもわかる救助を求める音色が、宵闇に広がった。
ガストンたちが駆けつけるまで時間を稼げれば――そう思ったが、その願いは虚しく打ち砕かれる。
奴らは学んでいる。私たちに時間を与えるという間違いを、二度と犯す気はない。
「シズカ、避けて!」
ホブゴブリンが棍棒を振り下ろす。私は咄嗟に横転して避けた。
どしゃり、と地面が弾ける。
飛び散る土と割れた木片が顔や腕に当たった。
次の一撃をどう避ける。
そう考えた瞬間、奴は振り上げていた棍棒を止め、腕をだらりと垂らした。
私は息を呑む。横薙ぎだ。横転では逃げられない。
私は頭を腕で庇い、体を丸めた。直後、全身を砕かれたような衝撃が走る。
地面の岩を叩き割るように振るわれた棍棒が私を捉えた。
私は抵抗せず吹き飛ばされる。いや、抵抗する余裕すらなかった。
体が宙を舞う。
夜空と地面が混ざり合い、次の瞬間には遠くの地面へ叩きつけられていた。
「うぐっ……」
肺から空気が吐き出される。
包囲に穴が空き、距離を取れるこの瞬間に、私はポーションを飲んで逃げるつもりだった。
それが唯一の生存手段だった。だが意識が揺れる。視界が霞む。
震える手で取り出したポーションは指の間を滑り落ち、草の上を転がった。
「あ……」
頭を守った両腕も折れていた。指に力が入らない。腕が動かない。
呼吸をするだけで激痛が走る。
苦痛。絶望。心が折れそうになる。
だが、そのたびに脳裏へ浮かぶ顔があった。
クロエ。私のせいで捕まったクロエ。
死ねない。こんなところで終われない。
「助けて!」
叫んだ瞬間、私の体内から膨大な魔力が放たれた。
だが、それは魔術として形をなさない。
制御を失った奔流が周囲へ溢れ出しただけだ。不可視なはずの魔力が淡く光を帯び、夜の道を照らす。
まるで狼煙だった。助けを求めるためだけに存在する光。
もちろん、こけおどしに過ぎない。
だが警戒心が強く頭の良い奴らだ。
少しでも躊躇ってくれれば――。
「ほおっ」
ホブゴブリンの剣士が声を漏らした。その目は油断なく私を見据えている。
考えているのだ。
何が起きたのか。何を警戒すべきか。
仲間のように笑いもしない。慢心もしない。
やがて奴は腰の剣へ手を伸ばした。
破壊する敵ではなく、殺す敵として私を認識したのだ。
その顔には余裕も甘えも油断もない。
冷徹な判断だけがあった。
もはや、振り下ろされる剣から逃れることはできない。
「シズカぁ……」
クロエの泣き叫ぶ声が聞こえる。
ごめん。守れなかった。
次の人生では、もっと上手くやる。
私は静かに目を閉じた。
そして剣の風切り音を待つ。
がががっ――がーん!
激しい金属音が森に響いた。
予想していた衝撃は来ない。
私は目を開けた。
「え? 何が……」
カリオン……違う……。
私の目の前には、見慣れた大きな背中があった。
巨大な盾。岩のような体躯。絶対に揺るがない安心感。
「炎石のおじ様」
震える声が漏れる。
「遅くなった。もう大丈夫だ」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れた。
助かった。初めてそう思えた。
私の瞼は涙で濡れる。
恐怖も。痛みも。安堵も。
全部が一緒になって溢れていた。
ホブゴブリンの剣士は驚愕していた。
奴の剣は、ファイヤーストーンの大楯によって真っ二つに折られていた。
※
驚愕の表情をする剣士。
私たちの周囲には、数匹のホブゴブリンが取り囲んでいた。
手数で負ける。
それは、最高峰の冒険者である彼の実力を知らぬ者の考えだ。
彼は、私にポーションを咥えさせると、盾を持たぬ右手で小石を投げた。
服の袋から取り出した、ごくありふれた石だ。だが、彼なりのこだわりのある小石だ。
その石は、矢よりも速く、奴らの身体を抉った。
「がはっ……」
両足を狙われ、動きが止まる。ホブゴブリンの肉体を貫通し、血が噴き出した。
「面倒だな」
たった一言。
炎石の右手が、まっすぐ天を指す。
魔力も魔術も持たぬドワーフとは違う。先祖返りした鉱人である炎石が示す、高位魔術発動の構え。
周囲の空気が重く変質する。
「待って、おじ様。クロエが囚われてるの」
ホブゴブリンの背には網が括りつけられ、その中にクロエがいた。鋭い爪を持つ彼女でさえ破れない網だ。
私は慌てて制止を求めた。
「ああ、あの犬人か……わかった」
私たちの考えを察したのか、剣士は背の網を腹側へと回す。
“これで、わしは狙えまい”
そう言いたげに、ゆっくりと後退し始めた。
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