数百の影
しばらくして、森がざわめいた。ざわ、ざわ、と風もないのに木々が揺れる。
次の瞬間、森の中央部から魔物の雄叫びが響いた。
獣のような咆哮。耳障りな叫び。地面を踏み鳴らす無数の脚音。
まるで森そのものが、こちらへ押し寄せてくるようだった。
私は思わず拳を握り締める。
来た。
ついに来たのだ。
私の隣には、執政官邸からの援軍第二陣として到着したクロエが立っている。
危険だから下がっていなさいと指示したのだが、彼女は頑として首を縦に振らなかった。
「この中で、いち早くシズカ様を担いで逃げることが出来るのは私です! それに指輪をつけています」
真剣そのものの顔だった。
強がりではない。本気で私を守るつもりなのだ。
適任者はクロエなのは間違い無いし、覚悟が伝わってきて、それ以上強くは言えなかった。
「来ます! 数百。コボルトが先頭です!」
索敵能力の高いクロエが叫ぶ。
森へ視線を移すと、木々の奥が黒くうごめいていた。最初は影だと思ったが、違う。
その隙間を埋め尽くすように、無数の目がぎらりと光る。それは次第に数を増し、黒い群れとなってこちらへ押し寄せてきた。
魔物だ。
「数百……そんなに……」
思わず息を呑む。準備できることはすべてやった。
それでも、数百という数は理屈を超えて人を怯ませる。防御壁の上に並ぶドワーフたちの顔からも笑みが消えていた。唾を飲み込む音が、あちこちから聞こえてくる。
「その後ろにも、ゴブリンの集団が……!」
地鳴りのような振動が防御壁の足元を震わせ、背筋を冷たいものが這い上がった。
報告が続く。移動速度は種族によって違う。
足の速いコボルトが先行し、その後ろからゴブリンたちが押し寄せているのだ。
ドワーフたちの手には丸薬のようなものが握られている。
採掘時に使う投擲用の爆薬筒だ。紐を引けば内部の薬剤が混ざり合い、強烈な爆発を引き起こす。
「これで、堀に入った魔物をまとめて吹き飛ばせばいい」
ガストンが鼻を鳴らした。
確かに有効なはずだ。森への被害も最小限に抑えられる。
ここには、私ほど戦場経験のある者はいないはずだ。私が怯えを見せては勝利は掴めない。
「攻撃準備! 無駄弾は使わないで! 冷静に!」
自分に言い聞かせるように、号令を下す。
「おう!」
「壁に油を垂らせ!」
兵士たちが一斉に動き出す。
別邸から運び込まれた油樽が開かれ、とろりと粘着質の油が壁面を流れ落ちた。
夕方の陽光を受けた黒い油は鈍く光り、まるで巨大な怪物の皮膚のように壁を覆っていく。
鋼のように硬い壁。その表面を覆う滑る油。さらに深い堀。
準備は万端な筈だ。だが、油断は大敵だ。魔物討伐隊で嫌というほど思い知らされている。
万全と勝利は同じ意味ではない。ほんの小さな綻びが、すべてを崩壊させることだってある。
そのときだった。森の一角が大きく揺れる。
どごぉっ、と重い衝撃音が響いた。続いて突風が吹き抜け、木々が激しくしなる。
その直後、魔物の悲鳴がいくつも重なった。
セレディナたちだ。
間違いなく横道から侵入しようとする敵を食い止めている。
今のはセレディナの風魔術だろうか。
悲鳴の数からして、戦闘の激しさは私の想定以上だ。広範囲に無秩序に広がる敵の数も多いのかもしれない。
「この壁を迂回しないように、彼女たちに頼んでるけど……」
私が呟く。
壁の正面から来てくれれば迎撃できる。だが横を抜けられたら意味がない。
「あやつも必死にやってるだろうが、漏れることもあるじゃろう」
ガストンが珍しく同情的な口調で言った。
「そうですね。迎撃隊もいるのですが……」
プロストと獣人族の狩人たちが待機している。
だが、彼を含めても五人。決して余裕のある戦力ではない。
私は唇を噛んだ。
「別邸への領民の避難も終わる頃だ。護衛していた隊を迎撃隊に加わってもらおう」
ガストンが言う。
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。少なくとも守るべき人々は砦の内側へ逃げ込めたのだ。最悪の事態は避けられた。
「……でも、白兵戦なんて、冒険者でも無いドワーフたちに…」
魔物をワールドエンド領に侵入させるわけにはいかない。それはこの戦いの敗北を意味する。私は迷って答えた。
「ははは、執政官殿。我ら森の洞窟での鉱夫じゃよ。魔物との戦闘にも経験がある」
「それじゃお願いするわ。急がせて!」
声を張り上げながら、私は再び森へ目を向ける。
黒い波のような魔物の群れが、決意を固めたように姿を現し、堀へと飛び込んできた。
先頭の一匹のコボルトが堀へ落ちる。
続く個体も、そのまた後ろの個体も止まらない。
まるで濁流のように堀へ流れ込み、瞬く間にその数を増やしていく。
防御壁の上のドワーフたちが、一斉に爆薬筒を握り直した。
誰もまだ投げない。
もっと引きつける。もっと堀を埋めさせる。
ガストンの目が鋭く細められる。
私も息を止めるようにして、その時を待った。
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