山の民
戻ります
領地と、その外縁に広がる森との境界については、最初から結論が見えていた。
「領地と広範囲に接する森との間に、防御柵を作るのは現実的でないわね」
机上の地図から目を上げ、私はレオナールに言った。
「その通りですね。それに、強い魔物ならば簡単に超えてくるでしょう」
淡々とした返答。だが、その言葉の裏にある危険性は重い。
「そうね。調査隊を編成するまでの間は、巡回隊を組織しましょう」
軽く言いながらも、内心では線引きをしていた。
中途半端な戦力で森に踏み込めば、それは調査ではなく消耗になる。
「まあ、あの子が教えてくれると思うけどね」
そう付け加えると、レオナールはわずかに頷いた。
「ええ、ゼルフィードが最初に異変を教えてくれるでしょう。カリオン殿にも協力を要請しましょう」
「ええ、村に来てくれたら助かるんだけど」
本当は――カリオンの病が気掛かりだった。
だが、それを口にする余裕はない。やるべきことが、あまりにも多すぎる。
領民集会まで、あと数日。
この村が始まって初めての“全員が顔を合わせる場”。今さら延期などできない。
「集会の準備を終わらせましょう。まだ、会えていない住民がいるのよ」
「承知しました」
レオナールの返事を背に、私は帳簿へと視線を落とした。
ミラーが残した裏帳簿。そこから抜き出した納税者リスト。
――その中に、引っかかる記述があった。
「……これ、名前?」
紙面に記された文字は、明らかに異質だった。
ドワーフ語に似ている。だが違う。もっと古い――風化しかけた言語のような、奇妙な歪みがある。
『西嶺守〇〇』『氷原〇〇』
肩書きのような語と、個人名らしき部分。
だが問題はそこではない。
“どこにいるのか”が分からない。
「地図があれば……」
だが、ミラーの屋敷からは地図が一枚も出ていない。
彼は徴税に異常な執着を持ち、何度でも自分の足で回っていた。
だから、地図など必要なかったのだ。
「……悔しいな」
思わず漏れる。
あんな男に、情報で後れを取っている。その事実が、妙に引っかかった。
その時、扉が静かに開いた。
「お茶をお持ちしました」
ピクシアが盆を手に入ってくる。
机に近づいた彼女は、リストを見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「……それ、私が書き写したものです」
「え?」
「意味もわからない文字を?」
「いえ、その文字は、私の種族のものです。シズカ様ならご存知かと。棲家を現す二つ名と名前です――ザンと、ユウ」
一瞬、意味を理解するのに間が空いた。
「ピクシアの種族って……?」
「はい。“山の民”と呼ばれています」
その言葉で、忘れていた記憶が浮かび上がる。ワールドエンドの伝記に書かれていたのを思い出した。
この地に古くから住む、もう一つの種族。
「じゃあ、この人たちのこと、知ってるの?」
思わず身を乗り出す。
だがピクシアは、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……私の故郷は南の地なので」
視線がわずかに揺れる。“知らない”というより、“繋がっていない”という距離感。
「山の民ならば、ヴァイスウルフェン家と交流があるのでは?」
考えを切り替える。
「グレイを呼びましょう」
呼び出されたグレイは、すぐに答えを出した。
「はい、交流があります。詳しくはカーティス様がご存じかと」
「カーティス……」
そこまで分かれば十分だ。
あとは――距離。
「本当は私が行きたいのだけど……僻地だものね」
川向こうのさらに奥。往復で日を潰す距離。
今の私には、その余裕がない。
「それでは使者をさせてくれませんか? カーティス様と訪ねます」
グレイが一歩進み出る。
妥当な提案だった。
頷こうとした、その瞬間――
「私も行きたいです」
ピクシアの声が、はっきりと重なった。
私は彼女を見る。
迷いはない。その奥に――会ってみたいという思いが、わずかに滲んでいた。
「危険よ。険しい山だし、相手のことも分からない。それに貴女の仕事じゃないわ」
「それでもです。それにシズカ様のお役に立ちたい」
即答だった。
レオナールが口を開いた。
「交渉の補助としても有用でしょう」
「……そうね」
私は短く息を吐く。
そして決めた。
「いいわ。同行を許可する」
ピクシアの肩が、わずかに緩む。
「レオナール、カーティスへの書状を。グレイは先行連絡をお願い」
「承知しました」
執務室が再び動き出す。
私はもう一度、帳簿へ視線を落とした。
『西嶺守のザン』
『氷原のユウ』
その文字は、ただの名前には見えない。
「……思っていたより、深いわね」
窓の外。
森が、ざわりと揺れた。
それは風のせいか――
それとも、まだ見ぬ何かが、こちらを見ているのか。
※
「 ごめん、領民集会の計画書が途中なんだけど」
「いえ、シズカ様から指示書は頂いております」
レオナールたちは笑って答えた。
指示書? 私の考えた領民集会の簡単な走り書きだ。
それを形にしていく、レオナールとエレノアの行動。
私ならば、時間をかけて、全てを書き出して計画書にまとめる。
だが、彼らは、それを頭の中でやり、既に仕事を割り振り指示をしている。
懇親会の食事の手配。送迎計画。お土産など。
「不明なことと、要望は確認を取りますのでご安心下さい」
「計画書なんて不要だったわね」
「いえ、シズカお嬢様のやり方が正しいです。ですが、私とエレノアには甘えて下さい。その為におりますので」
レオナールたちは穏やかに笑った。
その笑みは、いつも通りのはずだった。
けれど、なぜか今日は少しだけ遠く感じた。
きっとこれが、彼らとの最後の仕事なんだろう。
そう考えると涙が出そうになった。




