返還の帳簿
「さあ、帰りましょう」
「かしこまりました。カリオン様は……」
「寝てるわ。彼の秘密に関わることだから詳しくは話せないの」
レオナールは何も言わず、私を馬に乗せた。
――その無言が、かえって心地よかった。
執政官の屋敷へ戻った私は、思わず足を止めた。
隣の空き地の様子が、すっかり変わっていたからだ。
――目を疑うほどの変化だった。
ついこの前まで、背丈ほどの野草が生い茂っていた場所。
それが今ではきれいに刈り払われ、その上にいくつものテントが整然と並んでいる。
簡素ではあるけれど――
もう、立派なテント村だった。
どうやらエレノアが、ルーナの村で色々と仕入れてきたらしい。
夕餉の匂いが、風に乗って漂ってきた。肉を焼く香ばしい匂い。鍋の中でぐつぐつと煮えるスープの温かな香り。
思わず、お腹が鳴りそうになる。
「お帰りなさい!」
声をかけられて顔を上げると、獣人たちがこちらに気づき、作業の手を止めて一斉に頭を下げていた。
テントの周りには生活用品が並び、調理道具も整えられている。
洗った衣服が風に揺れ、布がぱたぱたと乾く音が聞こえた。
――穏やかな音だ。
よく見ると、獣人たちの服装も変わっている。以前の擦り切れたボロ服ではない。
きちんとした衣服に着替えていた。
――それだけで、人はここまで変わるのか。
そのせいだろうか。みんなの顔色が、どこか明るい。
「いい匂いね」
私がそう言うと、近くにいた獣人が少し誇らしげに笑った。
彼らがこうして伸び伸びと生活しているのを見ると、こちらまで嬉しくなる。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
……今までは、執政官屋敷の中で肩を寄せ合って雑魚寝していたのだ。あれは、きっと辛かっただろう。
「はい、食べていかれますか?」
大鍋をかき混ぜていた獣人が、遠慮がちに聞いてくる。
「うーん。ごめんなさい。エレノアが作ってるから」
そう答えて手を振り、私は執政官邸へ向かった。
――後ろ髪を引かれる思いだった。
※
官邸の食堂では、すでに食事の準備が整っていた。
クロエたちメイドにも席に座ってもらい、今日は全員で食卓を囲む。
――立場の違いを越えた、ひとつの卓。
食事の音。穏やかな会話。柔らかな空気で満たされている。
けれど、その何気ない会話の中には、私が知らなければならない情報が混ざっている。
ルーナの街の商店の様子。獣人族やエルフの暮らしに必要なもの。それをどのように準備したのか。
そして私は、エレノアの知恵を盗み、学ぶ。
報告書だけでは分からないことがある。だから私は、スープを口に運びながら何気ない顔で皆の話に耳を傾けていた。
聞き逃さないように。見落とさないように。
「それじゃあ、レオナール。相談に乗ってくれるかしら」
これから私は、ワールドエンドの執政官として、ウルフェンハルト家の家宰様と正式な交渉を行う。
引き締まった表情を作った――つもりだったのだけれど。
それが逆に面白かったのか、エレノアがくすりと笑った。
「もう、さ。私の部屋に来て」
私はレオの手を取る。
――その手の温もりに、わずかに気が緩む。
食後のコーヒーをゆっくり飲んでいた彼は、少し驚いた顔をした。つい、レオの前だと表情が緩んでしまう。
――安心してしまっている自分に気づく。
「税の支払いのことなら、いつでもいいとお話ししましたが……」
「そうはいきません。私はウルフェンハルト家の侯爵の娘です。そんな私が甘える訳にはいきません」
「……わかりました」
レオナールは静かに頷いた。
本当はゆっくり酒でも飲みたいだろう。けれど、それは後だ。不慣れな領民経営だ。ここは大先輩の意見を聞いておきたい。
※
私たちは通帳と帳簿を机いっぱいに広げた。納税者リストを作り直す。もちろん、ミラーの裏帳簿も突き合わせながらだ。
紙の擦れる音が、静かに積み重なる。
隣の机では、エレノアがクロエとピクシアに出納帳の書き方を教えている。
「クロエ、使った項目と金額は右側に書くのよ。もらった伝票は必ず貼り付けて」
「はーい」
「ピクシア、あなたはお金を数えなさい。間違いがないように、二人で交代で見直すの」
クロエは文字を知らないが、一度教えると覚える。記憶力が飛び抜けて良い。
ピクシアは計算が得意で、四則演算を暗算でも間違えない。
――頼もしい。
私はその微笑ましい光景を横目に見ながら、帳簿をめくり続けた。
ページをめくる指先に、少しだけ力が入る。やがて、数字がすべて繋がる。
ばらばらだったものが、一つの形になる。
「つまり――」
私は顔を上げた。
「ウルフェンハルト家への未納が大金貨二千枚弱。そして領民からの不当な増税が、大金貨千枚……そういうことね」
言葉にした瞬間、重さが増す。
レオナールはゆっくり頷いた。
「そうなります。ただ、税の追加徴収自体は制度として認められています」
「いえ」
私は帳簿を閉じた。ぱたり、と音が響く。
「これは正式な手続きを踏んだものではありません」
一瞬、部屋の空気が止まる。誰も、言葉を発さない。
「ですから――領民に返金します」
言葉が、重く沈む。
それでも、私は視線を逸らさない。
――逃げない。
それからレオナールは小さく息を吐いた。
「……わかりました。珍しい例ですが、シズカお嬢様らしい」
話し合いの結果。領民への返金を優先することになった。
侯爵家には、大金貨五百枚を四年分割で追加納税することで話がついた。
――痛みはある。だが、必要な選択だ。
※
翌日。
獣人族を迎えに来たマークスたちを前に、私は高らかに宣言した。
「『領民集会』を開きます」ざわめきが広がる。
――きっと、荒れる。
それでも私は、自分の道を行く。
お読み頂きありがとうございます。




