イグナ
「待ってたわ! 私はイグナ。厄災なんて呼ばれてるの。酷い話よね。貴女たちは?」
少女は、まるで久しぶりに友人と再会したかのように、屈託のない笑顔を浮かべた。
見た目は幼く、金髪に紅い目をしている。その色合いは、姉のアカリとよく似ていた。
身にまとっているのは、擦り切れた灰白色の貫頭衣。足元には靴もなく、素足のままだ。
見た目だけなら、どこにでもいる貧しく幼い少女にしか見えない。
けれど、ここは古代の遺跡の奥深く。しかも、目の前にいるのは厄災と呼ばれる存在だ。私は警戒を解かず、少女の様子を窺った。
「私はシズカ。この一帯を治めるウルフェンハルト侯爵家の執政官よ。そして、こちらが姉のアカリ」
「アカリだ。シズカの姉だ」
姉は短く名乗ると、私の前に立った。
その目は、目の前の少女を注意深く観察している。いつでも動けるよう、警戒しているのだろう。
そんな姉の態度を気にする様子もなく、イグナは不思議そうに首を傾げた。
「人族が統治者なの? 不思議ね。でも、ここの地上は今も魔物の棲む森よね?」
「そうね。昔から変わらないわ。治めているというのは言い過ぎね。実際は見張っているだけよ」
私は肩をすくめた。
魔物が棲む領域にまで手を伸ばせるほど、人族の力は強くないのだ。
「だろうな。ところで、彼奴は霊山にいるのか?」
イグナの表情が変わった。
先ほどまで浮かべていた笑みが消え、紅い瞳に嫌悪の色が滲む。
「彼奴って、ドラゴンのこと?」
私が尋ねると、イグナはあからさまに顔をしかめた。
「口にするのも嫌な、本物の竜だ」
吐き捨てるような口調だった。
ドラゴンに対して相当な嫌悪感を抱いているらしい。
「あ、お前たちには見えないのか? いや、でも、ここまで辿り着けたってことは、彼奴の魔力を感じれるよね?」
イグナは何かを確かめるように、私たちの顔を交互に見た。
「ううん。感じられない。それに直接遭遇したこともないわ。でも、ドラゴンがエベレスの山に飛んできたことなら知ってる」
「くそっ……。困ったな」
イグナは眉を寄せ、考え込むように視線を落とした。しかし、それも一瞬のことだった。
「まあいい、想定内だ。それで、私をここから連れ出してくれるの?」
何事もなかったかのように顔を上げ、期待するような目で私たちを見つめてくる。
まるで、私たちが自分を助けに来たと信じて疑っていないようだった。私は首を横に振った。
「どうして? こんなに可哀想なのに……」
イグナの表情が曇り、紅い瞳に涙が浮かんだ。
やがて、大粒の涙が頬を伝う。少女は肩を震わせ、声を上げて泣き始めた。
私は隣にいる姉へ目を向けた。
しかし、アカリは冷めた目でイグナを見つめていた。
「だって、芝居が下手くそだもの」
薄ら笑いを浮かべ、あっさりと言い放つ。
ところが、イグナは泣き止まなかった。むしろ、姉の言葉に抗議するように、ますます大げさに泣き続けている。
「こうやって泣くのよ」
姉は小さく息を吸い込むと、芝居の稽古をつけるように泣き真似を始めた。
「……うっ、ひっく……。どうして、誰も助けてくれないの……?」
声を震わせ、目元を押さえ、今にも泣き崩れそうな表情を浮かべる。
その仕草は、驚くほど自然だった。
悲しみを必死にこらえながら、それでも涙を抑えきれない。そんな様子が、見事なまでに表現されていた。
……お姉ちゃん。
私は思わず息を呑んだ。
演技だということはわかっている。昔から何度も見てきた、姉の嘘泣きなのだから。
それなのに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
潤んだ瞳も、震える唇も、こらえるような嗚咽も、あまりに真に迫っている。思わず慰めの言葉をかけたくなるほどだった。
……わかっているのに。
姉の芝居は、私の心まで動かしてしまう。
そして姉は、何事もなかったかのように泣き真似をやめた。
先ほどまでの悲しげな表情は跡形もなく消え、いつもの余裕たっぷりな顔に戻っている。
……本当に、ずるい。
私は小さく息を吐いた。わかっていても心を揺さぶられてしまうのだから、姉の芝居には敵わない。
「シズカ、お前の姉というこの女は、酷い奴だ。人の心がない」
イグナは涙を浮かべたまま、アカリを睨んだ。
その口調には、先ほどまでの悲壮感とは違う、あからさまな不満が滲んでいた。
姉はそんな視線を気にする様子もなく、涼しい顔をしている。
私は姉を見て、思わず苦笑しそうになった。
まったく、この人は……。
「でも、イグナ様。もう幻の姿を見せるのはやめませんか?」
私は気持ちを切り替え、イグナに向き直った。
「貴女がそこにいないことは、わかっています。奥から膨大な魔力が流れてきていますから」
この部屋に入ったときから、魔力の流れには違和感があった。
目の前にいる少女には魔力が少しも感じられない。
私がそう告げると、イグナはしばらく黙り込んだ。
「……せっかく、お前たちが同情するような姿を見せてやったのに……」
拗ねたような声だった。
どうやら、こちらの同情を誘うつもりだったらしい。だが、私たちには通用しない。
次の瞬間、少女の姿がふっと消えた。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。
姿は消えても、奥から流れてくる膨大な魔力は変わらない。
そして、暗闇の奥から声が響いた。
「私を目覚めさせた以上、責任はとってもらうぞ!」
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