第9話 主婦、半日の草原行軍
…はぁ、なんだってこんなことに…
勢いよく踏み出したのはいいけれど、気持ちの上ではまだ座り込んで「帰りたい」を百回くらい繰り返していたかった。目の前には知らない世界の知らない景色が広がっていて、横には当然のように先導する妖精が飛んでいて、背中にはどう考えても日常生活とは無縁すぎる巨大なバトルアックスが存在感たっぷりにのしかかっている。
歩くって言ったけど、一体どれくらい歩くことになるんだろう。
いや、待って。さっきルミナ、何食わぬ顔で「半日ほど歩けば」って言わなかった?
冷静に考えてやばくない? 一時間とか二時間とか頑張ればどうにか耐えられる範囲ならまだしも、半日って何。半日って、私の感覚だと「朝に洗濯して昼に買い物行って夕方には夕飯の下ごしらえを始める」くらいの時間幅なんですけど。そのあいだずっと歩きっぱなしって、旅というより修行、いやもはや拷問の部類に入らない?
さあ旅はこれからですよ、とでも言いたげに軽々しく告げたルミナの一言が、今さらになって私の足にずしんと重くのしかかってくる。背中の斧も重い。世界の事情も重い。旦那の命まで絡んでくると心も重い。なんなのこの異世界、初日から荷物が多すぎない?
「……ねえルミナ」
私はまだ歩き出したばかりだというのに、すでに疲労感をにじませた声で妖精を呼んだ。
「はいっ、なんでしょう!」
相変わらず無駄に元気だ。この小さな体のどこにそんなエネルギーが詰まってるの。単三電池でも内蔵してるの?
「歩きで半日って、冷静に考えて拷問じゃない?」
口から出たのは、理性で整えた質問というより、足腰から直接送られてきた悲鳴だった。私はスポーツ少女でもなければ健康のために休日は山歩きを楽しみます、みたいなタイプでもない。普段の移動手段は自転車かバス。最大の運動量といえば、スーパーの特売日にタイムセールのワゴンへ向かってカートを押しながら小走りするくらいで、それだって終わったあとは「はぁ〜今日は頑張ったわ」と自分を褒めるレベルなのだ。
そんな私が、異世界のどこかも分からない野原から港町まで半日行軍?
無理でしょ。普通に。
「大丈夫です、サナ様ならきっとできますよ。途中で景色を楽しみながら、ゆっくり歩きましょう」
ルミナが天真爛漫な声で言うものだから、私は思わず眉間を押さえた。
「景色で誤魔化さないで! それ、運動会のときに先生が言う『気持ちで負けないように!』くらいふんわりした精神論だからね!? 足の疲労は気合いでは消えないの! 乳酸は景色じゃ流れないの!」
「にゅうさん?」
「こっちの話!」
爽やかな励ましのつもりなのだろうけれど、現実の疲れに対して精神論をぶつけられると、人は思った以上にすさんだ気持ちになる。いまの私はまさにそれだ。帰りたい病と半日歩きたくない病を同時発症している患者に、「ほら空が綺麗ですよ」と微笑まれても、効果は限定的どころか逆に「空の青さを呪いたい」方向へ気持ちが向かいかねない。
「こっちは“帰りたい病”と“半日歩きたくない病”を併発してるんですけど!」
必死に訴えながらも足が止まらないのは、私が素直で前向きだからではなく、止まれない理由が胸の奥に重たく居座っているからだった。
――旦那のことだ。
三年前に患ったあの病。病室の白さ。消毒液の匂い。医師が静かに、慎重に、それでもはっきりと口にした「再発の可能性があります」という言葉。ルミナに見せられた水晶の映像が、その記憶に嫌というほど重なって、歩きながらも頭の中へ何度も浮かび上がってくる。あれが全部まやかしなら、作り物だと笑い飛ばせたなら、私は今ごろ「はいはい異世界詐欺ね」くらいの気持ちでルミナを問い詰めていたと思う。
でも、笑えなかった。
病室のベッドに横たわる旦那の横顔は、まるで昨日のことのようにありありと頭の中に焼きついていた。手を握ったときのぬくもりや、強がって「大丈夫」と言った自分の声色まで思い出せてしまうくらい。あの時間をもう一度味わうかもしれない。もっと悪い形で失うかもしれない。そう考えただけで、心の奥がきゅっと縮んで息が詰まる。
だから、歩きたくない。帰りたい。泣きたい。全部本音だ。
それでも、歩くしかない。
「……はぁ、歩くしかないのかぁ」
ため息と一緒に漏らした本音に、ルミナがくるりと振り返った。金色の羽が陽光を受けてきらめき、小さく首をかしげる。
「サナ様、旦那さまのことを考えてますね?」
「……図星。だから無理にでも頑張ろうとは思ってるの。でもね、心が前向きでも足が拒否反応を起こすことってあるのよ。人間ってそういう複雑な生き物なの」
私は恨めしく足元を見下ろす。白と青を基調にした僧侶っぽい服装に合わせるように足元は革のブーツになっていて、見た目だけなら異世界装備としてそれなりに様になっている。けれど中身は昨日まで玉ねぎ切って涙目になっていた三十三歳主婦である。心と体の板挟み。主婦の運命って、こんなところでも重いのか。
……いや、待って。
足の疲れを訴える以前に、そもそもこの斧重くない?
肩に担いだまま何歩か進んでみて、私はようやく根本的な問題に気づいた。遅い。気づくの遅すぎる。巨大な戦斧を背負って半日歩く前提で話が進んでいたこと自体がおかしい。気づきなさいよ私。いや、気づいてはいたけど、情報量が多すぎて優先順位の設定を完全にミスっていた。
「ちょっと待ってルミナ!」
「はいっ?」
「この斧どうにかできないの!? 半日歩くにしては主張が強すぎるんだけど!? 私、いま完全に“巨大武器を持った不審者の行軍”スタイルなんですけど!」
抗議しながら斧をぶんっと持ち上げたら、ルミナが「あっ」と声を上げて額に手を当てた。
「そうでした! 言い忘れてました!」
「何を!?」
「神器は召喚物ですから、サナ様の意思で自由に収納したり、大きさや形状を変えたりできるんですよ」
「は?」
理解が一拍遅れた。いや、理解が遅れたというより、理解したくない便利情報が突然飛び込んできて脳が処理を拒否したと言ったほうが近い。
「なにそのゲームの便利機能! もっと早く言いなさいよ!!」
「えへへ……つい説明を忘れてまして」
「“つい”で済ませるな!! 私さっきまで本気で“主婦が巨大バトルアックス担いで半日行軍”の未来を覚悟してたんだからね!? その覚悟、かなり重かったんだから!」
ぷんすか怒っている私をよそに、ルミナはすでに説明モードへ入っていた。反省してる顔を一秒もしないまま気持ちを切り替えられるの、逆に才能では?
「では、試してみましょう! まずは頭の中で“仕舞え”とか“消えろ”とか、強く念じてください。神器は所有者の意思に敏感ですから!」
「念じるって……そんな中二病みたいな方法で本当に――」
ぼやきつつも、私は恐る恐る斧の柄を握り直し、心の中で「仕舞え」と念じた。
すると、手の中の重みがどんっと一度だけ低い振動を返し、巨大なバトルアックスが光の粒子へとほどけるように崩れた。刃も柄もまとめてきらきらと霧散し、そのまま何もなかったかのように消えてしまう。
一気に腕が軽くなる。
「おおお!? 腕が! 自由だぁぁぁ!!」
両腕が予想以上の軽さで持ち上がり、私は思わずその場で小さく跳ねた。さっきまで肩と背中に食い込んでいた圧迫感が嘘みたいに消え、身体が急に自分のものへ戻ってきた気がする。解放感ってすごい。人は重いものを失って初めて、軽さのありがたみを知るんだなと妙にしみじみしてしまう。
「成功です!」
ルミナが誇らしげに拍手する。
「では今度は逆に“出ろ”と念じてみましょう!」
「え、もう一回やるの? ……うう、まあ確認は必要か」
私は若干身構えながら、空になった手元へ向かって「出ろ」と念じた。光が足元から巻き上がるように集まり、霧が固まるみたいに形を作り、あの巨大斧がずしんと腕の中へ現れる。
「ぐえっ」
重さに負けて変な声が漏れた。
「うわぁ……召喚のクセに、重量はしっかりあるんだ……リアリティの方向性どうなってるのよ……」
「形状も変えられますよ!」
「形状?」
「はいっ! 片手で扱える小斧にしたり、飾りのペンダントにしたり、もっと携帯しやすい形へ変形させることもできます!」
「ペンダント!? なんでそこだけ急にオシャレ仕様なの!?」
命を刈り取る見た目の斧が、アクセサリー枠に入る世界観はどうなってるんですかね。
「神器は所有者の魂と繋がっていますから、その人が扱いやすい形に変化できるのです。つまりサナ様次第です!」
そんなことを言われても半信半疑だったのだけれど、ここまで来たら試すしかない。私は斧を前に掲げ、心の中で「軽くなれ」と念じてみた。すると、刃先からじわじわと光が走り、柄が短くなり、全体がずずっと縮んでいく。あっという間に片手で持てる小斧サイズへ変わり、さっきまでの土木工事機材みたいな存在感が、ちょっと強めのファンタジー武器くらいまで落ち着いた。
「おお……本当に小さくなった」
試しに片手で持ち上げてみる。軽い。日常で使うものでは絶対にないけれど、少なくとも“これを背負って半日歩いたら死ぬ”という重さではない。
調子に乗ってさらに「もっと軽く」と念じてみたら、小斧はふっと光り、今度は指先でつまめるくらいのサイズまで縮み、輪っか付きの小さなチャームみたいな形になって私の手の中へ転がった。
「え、なにこれ……めっちゃかわいいんだけど!?」
さっきまでモンスターを地面ごと粉砕していた凶器とは思えない。金属細工のキーホルダーみたいな愛らしい見た目で、よく見ると小さな刃の部分には繊細な獅子紋まで刻まれている。ギャップ萌えってこういうこと? いや武器に萌えるのもどうかと思うけど、これはちょっとテンション上がる。
「ふふっ、これで半日歩くのも安心ですね」
「安心っていうか、最初からそれを教えてよ! 私はさっきまで“巨大斧と共に過酷な旅へ出る覚悟”を決めてたの! その覚悟、完全に空回りだったんだけど!?」
「でも、サナ様が真剣に覚悟を決めるお顔、とっても凛々しかったですよ?」
「褒めて誤魔化すな!」
小さな斧チャームを見つめながら肩の力が抜けていく。重さがなくなっただけで、旅の難易度が一段階下がった気がするのだから単純なものだ。異世界に来てから初めて、便利機能という名の文明的救済を受けた気分だった。
私はそのキーホルダーサイズの神器を服の帯に引っかけ、改めて歩き出す。荷物が軽くなったせいか、さっきまでずっしりしていた気持ちまで少しだけ前へ滑り出した。
道は湖畔を離れるにつれて、緩やかな林へと続いていた。葉の大きな木々が頭上でやわらかい影を落とし、木漏れ日が白い衣の袖にまだら模様を作る。足元には細い根や丸い石が点在し、湿った土の匂いに混じって甘い花の香りが漂ってくる。耳を澄ませば、水鳥の声が少しずつ遠のき、代わりに草を揺らす風と虫の細かな羽音が近づいていた。
歩きながら、私はちらりと帯にぶら下がった小さな斧を見る。
「……ねえルミナ」
「はいっ?」
「これ、見た目はかわいいのに中身はあの巨大斧なのよね?」
「そうです!」
「ギャップが怖いわ……」
「でもサナ様にぴったりです!」
「どういう意味よ」
「普段は可愛らしいのに、いざとなるとすごい力を発揮するところです!」
「それ、褒めてるのか微妙なんだけど!?」
そんなやり取りをしながら林を抜けると、視界がある地点で一気に開けた。
私は思わず足を止めた。
目の前に広がっていたのは、息を呑むほど壮大な草原だった。
どこまでも続く緑の大地。陽光を浴びた草は風に合わせて大きく波打ち、そのたびに草先が銀色の光を返して、まるで海そのものが陸へ姿を変えたように見える。一本一本の葉が生き物みたいにしなり、それらが数え切れないほど集まって揺れる光景は、草原全体が呼吸しているようだった。遠くには空を突き刺すみたいに巨大な樹がそびえ、幹は岩山のように太く、枝は雲を支える柱のように広がっている。空は吸い込まれそうなほど澄んだ青で、帆を張った船に似た白い雲がゆっくり流れ、その下を群れになった鳥たちが弧を描きながら横切っていった。
「……なにこれ」
喉の奥から漏れた声は、独り言にしてはあまりにも頼りなかった。
「ポスター? いや、ゲームのオープニング映像? それとも旅行会社が現実味を全部捨てて作った理想郷の宣材写真?」
自分で口にしながら、全部違うと思う。こんな景色、現実では見たことがない。テレビで見る絶景特集だって、どこかに“映像補正しました”の気配が残るのに、いま目の前にあるのは五感で受け取る本物の広がりだった。風が吹くたびに草の香りが流れ、日差しが肌を撫で、遠い鳥の鳴き声が重なって、景色そのものがこちらへ押し寄せてくる。
「アルヴェリア大陸の心臓部に近づいているんです」
ルミナの声が風に溶けた。草のさざめきに混じって届くその言葉には、さっきまでの軽い調子とは違う響きがあった。
「心臓部って……ちょっと待って、その言い方、バイオハザード的な危険区域の匂いがするんだけど。ゾンビとか巨大変異生物とか出てこないよね?」
「違いますよ。もっと根源的な意味です。命の流れが集まり、巡り、満ちていく場所……そういう意味での心臓部です」
命の流れ。
その単語が耳に入った瞬間、胸の奥がひゅっと縮む。ルミナが軽々しく言い放っていた「寿命」という言葉を思い出すからだ。旦那の命も、この世界の異常と繋がっている。まだ完全には信じ切れていないし、信じたくない気持ちもあるのに、心がそこへ反応してしまう。
「……つまり、私が“救世の僧侶”とか呼ばれてる理由も、それと関係あるってこと?」
ルミナは草原の上でふわりと向きを変え、私の目の高さまで下りてきた。
「はい。旦那さまの寿命とも関係しています。でも、それだけではありません」
「え、まだ裏があるの?」
嫌な予感しかしない。洗濯物の山を片づけたと思ったら、ベランダにもう一山あると発覚したときみたいな絶望感である。
「私の脳みそ、もうキャパオーバーなんだけど……新しい事実を一気に追加されると、処理落ちして固まるんだけど……」
半泣きで抗議しても、ルミナはにこにこと意味深な笑みを浮かべるばかりだった。その顔、何か知ってる人の顔よね。絶対に知ってるけど今は言わないつもりの顔よね。
「詳しくは、これからきちんとお話しします」
「いま話してくれてもいいのよ?」
「サナ様がもう少し落ち着いて、腰を据えて聞ける場所のほうが良いと思うんです」
そこだけはまともな判断だった。こんな絶景のど真ん中で「実はあなたにはさらに重大な秘密があります」と言われても、私の心臓が物理的に持たない気がするから。
「ただ……サナ様が選ばれたのは偶然ではない、ということだけは覚えておいてください」
選ばれた。
その言葉は、思った以上に重かった。私は救世主になりたいなんて一度も願っていないし、僧侶だって可愛い衣装と優しげな役割に惹かれて選んだだけで、本気で異世界の命運を背負うつもりなんてなかった。それなのに“偶然じゃない”と言われると、まるで私の人生のどこかに、私自身も知らない何かが最初から組み込まれていたみたいで落ち着かない。
草原を渡る風が、頬をそっと撫でる。甘い草花の香り。やわらかな土の匂い。遠くで鳴く鳥の声。景色はあまりにも綺麗で、空はあまりにも高くて、そんな場所で聞く話としては不釣り合いなくらい、不穏だった。
私はしばらく黙って歩き続けた。足元の草を踏みしめる音と、布がこすれるかすかな音だけが自分の存在を教えてくれる。帯に下げた小さな斧が歩くたびに揺れ、そのたびにちり、と小さな金属音を鳴らした。
「……半日歩くとか、本当にしんどいけど」
独り言みたいにつぶやくと、ルミナがちらりとこちらを見た。
「でも……それで旦那が救えるなら、歩くしかないんだよね」
言葉にした瞬間、自分でも少し驚いた。完全に受け入れたわけではない。信じ切れたわけでもない。異世界も救世も、まだ半分くらいは「なんで私が」と思っている。それでも、旦那のことが絡むと話は変わる。あの人がいない人生なんて考えたくない。だから私は、怪しい話にすがってでも歩くしかないのだ。
ルミナはしばらく何も言わなかった。いつものようにすぐ明るく返事をするかと思ったのに、草の上をふわりふわりと進みながら、小さく目を細めている。
「サナ様は、やっぱり優しいですね」
「優しいんじゃなくて、普通なの。大事な人を助けたいって思うのは、誰だって同じでしょ」
「その“普通”が、誰にでもできることではないんです」
そう返された私は、なんとなくむずがゆくなって視線を逸らした。面と向かって真面目なことを言われると弱い。しかも相手が妖精だと余計に反応に困る。私は咳払いをして話題を逸らす。
「……それより、この草原、見た目は綺麗だけど、変なの出たりしないわよね?」
「変なの、とは?」
「こう……隠れてた巨大うさぎがいきなり襲ってくるとか、花畑の下から食人植物が生えてくるとか、見た目は愛らしいのに中身は凶悪みたいなやつ。異世界ってそういうの多そうだし」
「可能性はあります!」
「即答ぉ!?」
私は反射的に周囲を見回した。草の波しかない。ないけど、ないからこそ何が潜んでいるか分からないのが怖い。さっきのジェルムも、最初は“ゼリーもどき”としか思わなかったのに、結果として私は地面ごと斬り裂く羽目になったのだ。草原だから安全、という保証はどこにもない。
「でも、この時間帯は比較的穏やかですよ。風も良いですし、魔獣の気配も薄いです」
「その“比較的”っていう言い回し、安心材料としてはかなり弱いんだけど」
「安心してください、サナ様には神器がありますから!」
「いまキーホルダーだけどね!?」
私が帯の小さな斧をつまんで見せると、ルミナはふふんと得意げに笑う。
「いざとなれば一瞬で元に戻せます!」
「それはそうなんだけど、毎回その“いざ”が急すぎるのよ! 心の準備ってものが必要なの!」
文句を言いながら歩いているうちに、草原の風景は少しずつ表情を変えていった。背の高い草のあいだに淡い紫の花が点々と咲き、ところどころに低い灌木が現れ、その向こうでは地面が緩やかにうねっている。遠くに見えていた巨樹は少しずつ輪郭を増し、枝葉の密度まで分かるようになってきた。世界そのものが息をしていて、歩くたびに景色の層が一枚ずつ剥がれていくみたいだった。
異世界って、本当にあるんだ。
いまさらな感想が胸の中に落ちる。スマホの画面越しじゃない。観光映像でもない。ここは本物で、私は本当にその中を歩いている。まだ信じ切れないのに、足裏に伝わる感触や肌を撫でる風が、容赦なく現実だと主張してくる。
帰りたい気持ちは少しも減らない。それでも、知らない景色に見とれてしまう自分がいることも否定できなかった。
「……悔しいけど、綺麗ね」
ぽつりと漏らすと、ルミナが嬉しそうに振り返る。
「でしょう? アルヴェリアはとても美しい世界なんです」
「こんなに綺麗なのに、均衡が崩れてるとか、命の流れがどうとか、物騒な話ばっかりなのが信じられないんだけど」
「綺麗なものほど、壊れたときに目立つんです」
その言葉には妙な重みがあった。私は返す言葉を見失い、ただ前を向く。足取りはまだ重い。心はもっと重い。けれど、その重さの下には確かな動機がある。
旦那を助けたい。
帰る方法を見つけたい。
この世界で自分に何ができるのか、せめて知りたい。
その全部を抱えたまま、私は広大な草原の中を歩いていく。白い雲が流れ、鳥が高く鳴き、風が草を揺らすたびに、世界が少しずつその姿を見せてくる。
半日なんて長すぎる、と思っていた。
それでも、こうして一歩ずつ進んでいけば、どこかには着くのかもしれない。
そして私は、帯に下げた小さな神器を指先で確かめながら、果てしない緑の道の先へ視線を向けた。そこに待っているものが希望なのか、もっと厄介な現実なのか、まだ何ひとつ分からない。分からないままでも進むしかないということだけが、いまの私にははっきりしていた。




