第8話 主婦、腰を抜かす
……はぁぁぁ
帰りたい。そりゃ帰りたいに決まっている。だって私は、世界を救うために生きてきた人間じゃない。毎朝の洗濯物の干し順を考え、広告アプリを見比べて安い鶏むね肉を探し、冷蔵庫の奥でしなびかけた小松菜をどうにか食卓の一品に変えるために知恵を絞ってきた、どこにでもいる主婦だ。そういう人間が、どういうわけか巨大な斧を振り回して、ゼリーみたいな魔獣を地面ごと真っ二つにしている。意味が分からない。分からなすぎていっそ誰かに「ドッキリ大成功でーす」と言ってほしいくらいなのに、目の前に広がる光景はそんな甘い逃げ道をまるで許してくれなかった。
荒れ果てた地面の真ん中で、私は呼吸すら忘れていた。ついさっきまで陽光を受けて青々と揺れていた草は、斧が描いた軌道に沿ってごっそり薙ぎ払われ、むき出しになった土は傷口みたいに黒々と裂けている。ジェルムの残骸は半透明のままぬらぬらと形を失い、湖の縁へとゆっくり流れながら、ぴちゃ、ぴちゃ、と気味の悪い音を立てていた。勝った、と言うにはあまりにも後味が悪くて、災害の現場に立ち尽くしている気分のほうがずっと近い。
その災害の原因が私。
……なわけがないでしょうがぁぁぁぁっ!?
胸の内で叫んだはずの悲鳴が、ほとんど声になって漏れていたのかもしれない。隣でルミナが、きゃああっと歓声を上げながら空中をくるくると三回転し、舞台の上のアイドルみたいに両手を広げて拍手を始めた。羽から散る光がやたら華やかで、きらきら、ふわふわ、ひらひら、と演出だけは完璧なのが腹立たしい。
「お見事ですーーっ!! すっばらしい威力でした! 百点満点どころか千点満点です! これぞ選ばれし者の証ですねっ!」
「いらないいらないいらない! そんな証、返品できるなら今すぐしたいんだけど!?」
斧の柄を握ったまま叫び返したかったのに、膝から先に力が抜けた。腰がすとんと落ち、私はその場にへたり込む。地面は乾いた土と草の感触が入り混じっていて、スカートの裾に泥がつくことすら気にしていられない。心臓はまださっきの恐怖を引きずっていて、どくどくどくどくと耳の奥で鳴り続け、喉はひりついて、指先には痺れが残っていた。
「ひ、ひぃ……」
情けない声が勝手に出る。ほんの少し前まで無我夢中で斧を振っていた私と、いま涙目で腰を抜かしている私が同一人物なんて、どう考えても整合性が取れない。しかも、その整合性のなさは私だけが感じているわけではないらしかった。
枝に止まっていた小鳥たちは羽毛を逆立てて一斉に飛び立ち、湖のほとりで水を飲んでいた鹿に似た小さな獣は、こちらをひと目見た瞬間にぴしゃっと水しぶきを上げて森の奥へ駆け込んでいった。草むらの中でちりちりと鳴いていた虫の声まで妙にざわついて聞こえて、なんだか自然全体が「うわぁ……」って引いている気がする。
やだもう、どんな公害よ。環境破壊もここまでくると罪悪感しかないんだけど。エコバッグ持参で買い物してた私のささやかな努力、全部帳消しじゃない?
「ほら、ご覧ください! これで気脈の扱いはバッチリですね!」
ルミナが胸を張る。胸というより、胸のあたりの光がぴかっと主張している。
私は顔を上げ、涙目のままじっと妖精を見た。
「……ルミナ」
「はいっ、なんでしょう!」
「ど・こ・が・バッチリなのか、最初から最後まで、飛ばさず、省略せず、分かる言葉で説明していただこうじゃないの」
一音ずつ区切って告げると、ルミナの羽がぴたっと止まった。さっきまでお祭り騒ぎみたいに舞っていたくせに、いざ問い詰められると露骨に目が泳ぐ。小さい体がふわっと後ずさり、えへへ、と笑ってごまかそうとする顔がすでに怪しい。
「え、えっとですねぇ……結果として倒せましたので!」
「それを説明放棄って言うのよ!」
思わず地面に手をついて身を乗り出したら、ルミナがひゃっと声を上げて宙で一回転した。私ははぁはぁと息を整えながら、自分の両手を見下ろす。まだ震えている。指先までびりびりと余韻が残り、手のひらには斧の柄の感触が焼きついていた。自分で力を込めた記憶はほとんどない。恐怖に押し出されるように振っただけであんなものが飛んでいくなんて、納得できるわけがない。
それでもあの斬撃が私から放たれたことは、見渡す限りの被害状況がいやというほど証明していた。裂けた地面も、薙ぎ払われた草も、逃げていった鳥や獣も、みんな「はい、あなたがやりました」と物的証拠を突きつけてくる。
身に覚えのない力を手にしてしまった怖さと、それが目の前の世界を簡単に変えてしまう現実。そんな大層なものを欲しいって頼んだ覚えは一度もない。……何度も言うけど、私ただの主婦だからね!?重たい買い物袋を両手にぶら下げて階段を上り切るくらいの筋力はあっても、モンスターを一刀両断する筋力とか必要ないから!!スーパーの特売で最後の一パックを勝ち取るための瞬発力と、洗剤の詰め替えをまとめ買いしても腰を痛めない程度の筋力があれば十分だったのに、どうしてモンスターを地形ごと持っていくようなパワーが生えてるの。
「ふふっ、でも大丈夫ですよ、サナ様」
「だから、どこがだよ!!」
「もう実戦で証明されましたから! あとは慣れるだけですっ!」
「その“慣れるだけ”が一番怖いのよ! 今日いきなり包丁持たされて『人参の千切りなんて慣れですよ』って言われても、初心者は指を切るの! 私は今その状態なの! しかも包丁どころか工事現場用の破壊兵器なんだけど!?」
情けない声で叫ぶ私をよそに、ルミナは楽しそうにまた空をくるくる回る。湖畔の光は相変わらず綺麗で、さざめく水面も遠くにそびえる精霊樹もさっきと変わらず神秘的なのに、私の視界だけが完全に「現実直視したくない」の色に染まっていた。
しばらくその場で肩で息をしていると、ようやく心臓の暴れ方が少しだけ落ち着いてきた。落ち着いたといってもまだ洗濯機の脱水くらいの勢いでは回っているけれど、さっきまでの非常ベルみたいな鳴り方ではなくなってきた、くらいの感じだ。
ルミナはそんな私の様子を見計らったのか、ぱっと笑顔を作り、いかにも「良いこと思いつきました!」という顔で両手を打ち合わせた。
「――それじゃあ、最寄りの街に行きましょう!」
はい出ました、ルミナの唐突シリーズ。この世界に来てから何回目だろう、彼女の無計画な号令。腰を抜かして涙目で斧を握りしめた私に、何を軽快に次の予定をブチ込もうとしてるんですか。スケジュール帳に「異世界散策」なんて項目、書いた覚えないからね!?
「ちょっと待って。いま私、初戦闘のショックでまだ魂が追いついてないんだけど? そこに“最寄りの街”っていう新しい単語をサラッと投げ込まれても、脳の処理能力が完全に限界なんですが?」
「大丈夫です! 街に着けば休めますから!」
「その言い方、病院に運ばれる人に『とりあえず立って歩いてください』って言ってるのと同じくらい無茶だからね!?」
文句を言いながらも、街、という響きに少しだけ心が引っかかったのは事実だった。人がいる場所。建物がある場所。もしかしたら宿があって、食事があって、水道……は分からないけど、少なくとも文明らしきものがある場所。異世界に来てからずっと草原だの湖だの妖精だのと、現実感の薄いものばかり見せられていたせいか、人の生活圏という言葉にはどうしても惹かれる。
それでも、周囲を見回した私は眉をひそめずにはいられなかった。
「街って言ったって、こんな山奥みたいなところに本当にあるの? 見てよこれ。背後は崖、目の前はでっかい湖、周囲は森で、ついさっきまでゼリー魔獣がうろついてたのよ? 郵便配達どころか宅配便のお兄さんも泣いて帰る立地なんだけど」
「ふふふ、甘く見ないでください!」
ルミナが得意げに人差し指を立てる。だからその自信満々な顔は何を根拠にしてるのよ。
「ここは〈エリュシオン地方〉! そして、私たちが立っているのは、その中心に広がる【リヴェルシア都市圏】の外縁部なんです!」
「と、としけん!?」
裏返った声が自分でも情けなかった。でも仕方ないでしょう。都市圏ってもっとこう、高速道路とかショッピングモールとか、せめてコンビニ二軒くらい並んでそうな場所に使う言葉じゃない? いま私の視界にあるの、崖と湖と草原と森だけなんだけど。
「リヴェルシアは交易都市なんです!」
ルミナは先生みたいな調子で続けた。あのホワイトボードをまた出しかねない勢いだったので、私は内心ひやひやする。
「大陸の各地から船が集まり、人や物が交差する場所。分かりやすく言えば、海に面した活気あふれる港町ですね! ここから半日ほど歩けば港に出られますし、その先には白壁の家々と青い屋根、石畳の通り、市場の喧騒、潮風にはためく色とりどりの帆……とっても素敵な場所なんですよ!」
その説明を聞いた途端、頭の中に勝手に景色が浮かんだ。陽射しを反射する白い建物が階段状に並ぶ街並み。坂道に敷かれた石畳。店先にずらりと並ぶ魚介や果物。潮の匂いに混ざって漂う、香ばしい焼き菓子の香り。広場の片隅では子どもたちが走り回り、旅人が荷馬車を止め、船乗りたちが大声で何かを売り込んでいる。
……ちょっとだけ、見てみたい。
そう思ってしまった自分に、私は慌てて首を振る。いやいや、観光気分になってる場合じゃない。ここは旅行会社のパンフレットではなく、私の人生がとんでもない方向へ逸脱している真っ最中なのだ。
「ルミナ、ひとつ確認するけど」
「はいっ!」
「その街に行けば、帰れる方法が見つかるの?」
自分でも驚くくらい真剣な声が出た。ルミナはぴたりと動きを止め、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「すぐに見つかるかどうかは……分かりません」
「だろうね」
「でも!」
ぱっと顔を上げた妖精は、いつもの調子を取り戻したように両手を広げた。
「少なくとも、物資は整います! 宿もあります! 温かい食事もあります! それから……甘いお菓子も!」
「……甘いお菓子?」
口が勝手に反応してしまった。悔しい。
「そうです! リヴェルシア名物 《マリン・シュガーパイ》! 海藻から抽出した塩と、港に届く砂糖を合わせた、甘じょっぱくてサクサクの逸品なんです!」
頭の中に、こんがり焼けたパイ生地が何層にも重なり、噛んだ瞬間にさくっと崩れ、あとから塩気と甘さがじゅわっと広がる図が浮かんだ。お菓子の想像だけでちょっと心が揺らぐなんて単純すぎる、と自分でも思う。けれど、極限状態でおいしそうな話をされると、精神がそっちに逃げたがるのも事実だった。
「とにかく、街に行けば休めますし、人の暮らしを見れば気持ちも落ち着きますよ! サナ様はいま、情報が少なすぎて不安なんです。ですからまずは、安全な場所で腰を据えて、これからのことを考えましょう!」
そこだけは妙にまっとうなことを言う。私がぐっと詰まったのを見て、ルミナは「ほらやっぱり!」と言わんばかりにうんうん頷いた。
確かに、このまま湖畔で巨大斧を抱えて座り込み続けても、状況は何も変わらない。帰る方法を探すにしても、夫のことを確かめるにしても、まずはこの世界で人がどう生きているのかを知らなければ話にならない。異世界に来たばかりで、町のひとつも見ずに「帰りたい」を連呼していたって、出口の手がかりなんて見つかるわけがない。
……分かっている。頭では分かっているんだけど。
「半日、歩くの?」
「歩きます!」
「この斧を背負って?」
「もちろんです!」
「帰りたい……」
本日何度目か分からない本音がまた漏れた。
それでも、いつまでも地面に座り込んでいるわけにはいかない。私は両手をついてゆっくり立ち上がる。足はまだ少し震えていたけれど、さっきの腰が抜けた状態よりはずっとましだった。斧の柄を握り直し、恐る恐る肩に担ぐ。重たいはずなのに、あの一撃を放ったあとでは不思議と持ち方の感覚が少しだけ分かるようになっていた。それが気脈とやらのおかげなのか、単純に慣れ始めてしまっているのかは考えたくない。
「ねえルミナ」
「はいっ?」
「街に着いたら、まず宿。次に水。できればお風呂。あと、座ってちゃんと話せる場所。そこまでは譲れないからね」
「承知しました! お任せください、サナ様!」
「それから、私はまだ救世主になるって決めたわけじゃないから。そこ、勘違いしないでよね」
念押しすると、ルミナは一瞬だけ口をつぐみ、それからやわらかく笑った。
「ええ、分かっています。サナ様は、まだ何も知らないんですもの。だからこそ、見に行きましょう。この世界のことを」
その言い方は、さっきまでの軽薄なノリとは少し違っていた。押しつけるような明るさではなく、こちらに歩幅を合わせるような声音。私は返事の代わりに小さく鼻を鳴らし、湖を振り返る。
傷ついた地面の向こうで、水面は何事もなかったみたいに陽光を跳ね返している。あれだけ大騒ぎしたというのに、世界のほうは案外平然としているらしい。私だけが取り残されて、私は何者なんだろう、これからどうなるんだろう、と答えの出ない問いを抱えている。
見上げた空は高く澄み、白い海鳥らしき影が遠くを旋回していた。確かに海は近いのかもしれない。潮の気配なんてまだよく分からないけれど、風がどこか湿り気を帯びている気もする。
未知の港町、リヴェルシア。
そこへ行けば、帰る方法が見つかるのかもしれない。見つからないかもしれない。夫の未来に関する手がかりだって、あるのかないのか分からない。それでも、ここで足を止めていては何も始まらないことだけは確かだった。
私はゴツすぎるバトルアックスを背負い直し、靴のつま先で土を踏みしめる。
「……行くわよ」
「はいっ!」
ルミナが弾んだ声で応え、光の粒をこぼしながら前へ飛んだ。私は深く息を吸い込み、傷跡の残る湖畔をあとにする。背中には不釣り合いなほど巨大な斧。胸の中には、不安と苛立ちと、ほんの少しの期待。たぶんその全部を抱えたまま、私はこの世界を歩いていくしかないのだろう。
帰りたい気持ちは、相変わらずひとつも減っていない。
それでも私は、知らない港町へ向かって一歩を踏み出した。




