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第五十六話 ヴィオラの悪夢

 冷えきった空気が肌を刺す。湿った土とカビの匂いが鼻をついた。


 重い瞼を無理やり押し上げ、薄く瞼を開く。しかし、視界に広がっていたのは、果てしなく続く漆黒の闇だった。


(……ここは、どこ?)


 身体を少し動かすと、背中に硬い感触が伝わってきた。手のひらで辺りを探る。どうやら、冷たい石床の上に横たわっているようだ。


 ――ジャリ……。


 不気味に響く金属音に、身の毛がよだつ。右手をそっと胸元へ引き寄せると、再び耳障りな音が鳴った。


(……鎖でつながれている……?)


 手首には、冷たい金属の輪が嵌められていた。そこから伸びる鎖を指先で辿ると、やがて石壁に行き当たる。


 どうやら、自分は何者かに監禁されているらしい。


(……どうして、こんなことに……)


 記憶を辿ろうとした途端、頭の奥に鈍い痛みが走った。


「……っ」


 思わず額を押さえる。身体が重い。まるで何日も眠らずにいたかのように、指先を動かすことさえ億劫だった。


 それだけではない。胸の奥に、ぽっかりと穴が開いているような感覚があった。何かを忘れている。いや、忘れているのではない。思い出すことを、心が拒んでいるのだ。


(……私は、誰……?)


 震える身体を小さく丸めた。何度も、何度も、誰かに名前を呼ばれた気がする。泣き叫ぶ声が聞こえた。けれど、その声の主が思い出せない。


 自分がどこの誰だったのか。何をしていたのか。何を守ろうとしたのか。そして、どうしてこんな場所にいるのか。


 何一つ、思い出せなかった。


 それなのに、胸の奥には取り返しのつかないことをしてしまったような、重苦しい感覚だけが残っていた。


「――起きたか?」


 不意に、暗闇の奥から声が響いた。


「……っ!」


 びくりと肩を震わせ、声のした方へ顔を向けた。しかし、そこには深い闇が広がっているだけだった。


「……ああ、そうだったな。お前はもう、視力を失っているんだった」


 男が、思い出したように呟いた。その言葉に頭が真っ白になる。


(……視力を、失っている?)


 瞼を閉じ、もう一度開いてみる。何も変わらない。どれほど目を凝らしても、光の欠片さえ見えなかった。


(……見え、ない……)


 目の前に広がる闇は、暗い部屋のせいではなかったのだ。心が少しづつ絶望に沈んでいくようだった。


「まあ、いい。時守の娘よ。もっと未来を視るんだ」


(……未来……?)


 男が何を言っているのか、理解できなかった。視力を失っているというのに、何を視ろというのだろう。


「ようやく、お前の力を手に入れたのだ。これで彼女を救える……!」


 男の声が、興奮に震えていた。


「さあ、次はどうすればいい? 何を変えれば、彼女は生き延びられる? 私に教えるんだ!」


「……あ……」


 何かを言葉にしようとした、その瞬間だった。自分の意思とは無関係に、右眼の奥で何かが蠢いた。


「あ、あぁ……っ!」


 突然、右眼の奥に焼けつくような激痛が走ったのだ。まるで、熱した刃を眼球に突き立てられたかのようだった。


「……ああああっ!」


 息もできない程の苦痛に、右眼を押さえ石床で転げ回った。鎖が激しく鳴り響く。身体を丸め、痛みから逃れようと必死にもがいた。


 痛い。痛い。もう、耐えられない。体内には、魔力など一滴も残っていなかった。


 それなのに、身体の奥底から何かを無理やり引きずり出されるような感覚があった。内側から身体の中心を貫く痛みと共に、喉の奥から熱いものがせり上がってくる。


「……かはっ!」


 口元を押さえる間もなく、どろりとした液体が唇から零れ落ちる。鼻をつく、鉄錆にも似た匂い。


(……血……?)


 もはや何も考えられなかった。意識が遠のき、あれほど激しかった痛みさえも薄れていく。


「何か視たのか!?」


 男の怒声が響いた。


「教えろ! 次はどうすればいい!?」


 突然、両肩を強く掴まれた。


「……っ!」


 身体を無理やり引き起こされ、首が力なく傾く。何か言わなければ。そう思うのに、喉からは掠れた息しか漏れなかった。


「……あ……ぁ……」


「おい! 答えるんだ!!」


 肩を揺さぶられるたび、頭の奥で白い光が弾けた。けれど、もう抗う力は残っていない。


(……もう……)


 何も、視たくない。何も、聞きたくない。ただ、眠りたい。誰にも起こされることのない、深い眠りに――。


 身体から、最後の力が抜け落ちた。


「おい! まだ終わっていないぞ!」


 男の声が、ひどく遠くに聞こえた。


「目を覚ませ! 彼女を救うまで、お前には――!」


 その先の言葉は、もう聞き取れなかった。意識が、底の見えない闇へと沈んでいく。


 そのときだった。


『――後継者よ』


 不意に、頭の奥で声が響いた。先ほどの男とは違う。静かで、冷たく、それでいて不思議なほど穏やかな声だった。


『終焉は救いだ』


 その言葉が、薄れゆく意識に染み込んでいく。


『お前はもう、救われるのだ』


(……救い……?)


 その意味が分からなかった。


『……くだらない。私か後継者が死ねば、世界は滅ぶというのに』


 声には、微かな嘲りが滲んでいた。


『人間とは、なんと愚かな生き物なのだろうか』


 次第に、意識は深い闇へと沈んでいいった。




―――――――




「――あ、あああああっ!!」


 悲鳴とともに、ヴィオラは勢いよく上半身を起こした。慌てて目を見開く。そこに広がっていたのは、果てしない暗闇ではなかった。


 柔らかな朝日が差し込む、小さな部屋だった。


「はあっ、はあっ……はぁ……っ」


 荒い呼吸が、静かな室内に響く。冷や汗が背中を伝い、寝衣をじっとりと濡らしていた。喉はひどく渇き、心臓が張り裂けそうなほど激しく脈打っている。


 ヴィオラは反射的に両手首を目の前へ持ち上げた。


「…………」


 鎖は、ない。何度も手首をさすり、金属の輪が嵌められていないことを確かめる。


「……はぁぁ……っ」


 ようやく、大きく息を吐いた。


(……夢、だったの……?)


 あまりにも生々しい夢だった。背中に感じた冷たい石床の感触も、鼻をついたカビの匂いも、まだ鮮明に覚えている。


 何より、あの痛み。


 右眼を焼き尽くすような激痛は、思い出すだけで身体が震えた。そっと右眼に触れると、痛みはなかった。しかし代わりに、左眼の奥がじんわりと熱を帯びていた。


(……左眼……?)


 枕元を探り、眼鏡を手に取る。それをかけると、視界の端に垂れていた白銀の髪が、見慣れた色へと変わっていった。


 変化を確かめてから、再び瞼を閉じる。


(……なんて、恐ろしい悪夢……)


 そう思いかけて、すぐに否定した。いや、違う。こ(・)れ(・)は(・)た(・)だ(・)の(・)夢(・)で(・)は(・)な(・)い(・)。


(……過去視だ……)


 左眼に残る熱が、それを物語っていた。


 あの監禁も、あの男の怒声も、決して夢などではない。かつて、どこかの時間で確かに起きた出来事なのだ。


(……ザイデルバスト……いえ、レグルス先生……)


 時間が停止した双崖で、彼が告げた言葉を思い出す。


『お前が視ているものは、一度は存在した時間。今とは違う選択をした時間。あるいは――すでに失われた時間だ』


 もし、あの言葉が意味するものが、自分の想像を遥かに超えるものだったとしたら。


(……これまで視てきた光景も、すべて……?)


 脳裏に、過去視で目にした数々の光景が浮かび上がった。


 焼き払われた故郷とブナの森。朽ち果てた世界の終焉。母と従者との思い出。花畑でのランとの鬼ごっこ。ブナの森で出会った男の子。ヴァルティアとクロノスの悲恋。


 そして――。

 何者かに囚われ、力を酷使され続けた自分の末路。


 ヴィオラは無意識に両手首を握りしめた。何の痕跡も残っていない。だが、鎖の冷たさが肌に焼きついている感覚が残っている。


(……七つの道……)


 ふと、ヴァルティアの言葉が蘇った。ブナの森で、彼女はクロノスに告げていた。


『私の中にある七つの時間の流れる道を、ほんの少しずらし、時の綾を織りなおしたのです』

『その六つとも滅びた』

『ええ、あと一つの時間の道しか残っていません』


(……まさか……)


 ヴィオラの背筋に、冷たいものが伝う。ヴァルティアの言葉が真実なら、今まで視てきた光景の中には、単なる過去ではなく、既に失われた時間の記憶も含まれていたのかもしれない。


 今とは違う選択を重ね、やがて滅びへと辿り着いた世界。その記憶が、左眼を通して自分に流れ込んでいるのだとしたら。


(……あの監禁も、滅びた世界で起きたことなの……?)


 ヴァルティアの持つ、七つの時間の道。そのうち、六つは既に滅びている。残されているのは、たった一つ。


 今、自分が生きているこの世界だけだ。


(……もし、この時間まで失われてしまったら……)


 ヴァルティアも、人間も。この世界に存在する、あらゆるものが消えてしまうのだろうか。


 そこまで考えたとき、ふと別の言葉が脳裏をよぎった。


(……そういえば……)


 生徒会執務室で、ルシアンは言っていたではないか。


『このままでは、世界はいずれ滅びる。そしてヴィオラ、私は君を失いたくないんだ』


 あのときは、誰かに必要とされたことが嬉しかった。


 少し強引に距離を縮めてくるルシアンには、何か別の思惑があるのだろうと疑っていた。けれど、自分に向けられる真っ直ぐな眼差しや、惜しみなく注がれる優しさに、いつしか心を許し始めていた。


 自分を失いたくない。ただ守りたい。生きていてくれれば、それでいい。


 その言葉を、信じたかった。

 いや、信じていたのだ。


 けれど、今は違う。


(……もしかして……)


 ルシアンは、知っていたのではないだろうか。


 時守の力が、この世界の存続に深く関わっていることを。自分が失われれば、最後に残された時間の道さえも消えてしまうかもしれないことを。


(……だから、私を失いたくないと……?)


 胸の奥が、切ない音を立てて締めつけられる。


 もし、そうだとしたら――彼の言葉は、自分に向けられた愛情などではなかったのかもしれない。


 ただ、世界を守るために必要な存在だから。時守の力を失うわけにはいかないから。だから、あんなにも優しくしてくれたのだとしたら――。


(……バカみたいだわ)


 ヴィオラは自嘲するように唇を歪めた。あの言葉を鵜呑みにして、自分が本当に愛されているのだと信じていた。しかし、ルシアンはヴァンヴェール王国の第二王子だ。


 国を、そして世界を守ろうとするのは当然のことだ。分かっている。分かっていたはずなのに――。


(……どうして、こんなに……)


 胸が張り裂けそうに苦しい。心の奥で、何かが悲鳴を上げている。泣きたいのに、涙さえ出てこない。


(……ああ、私……)


 そのとき、ようやく気づいた。いや、本当はずっと前から気づいていたのかもしれない。ただ、認めるのが怖かっただけだ。


(……会長のことが、好きだったんだ……)


 気づくには、あまりにも遅すぎた。こんな状況になって、初めて自分の気持ちを理解するなんて――。


 昨日、彼に優しく囁かれた言葉。抱きとめられたときの温もり。自分を見つめる、穏やかな眼差し。その一つひとつが嬉しくて、昨夜は幸せな気持ちで眠りについた。


 あのときは、確かに信じていた。彼もまた、自分を想ってくれているのだと。


(……全部、私の勘違いだった……) 


 悪夢の記憶が、どうしても頭から離れない。誰かを救うために、時守の力を使い続けさせたあの男は、自分をただ利用していた。


 ルシアンも同じように、自分を利用しようとしていたのならば――。


(もう、何も考えたくない……)


 息が詰まりそうだった。このまま部屋に閉じこもっていたら、胸の奥に渦巻く感情に押し潰されてしまいそうだ。


 ヴィオラは寝台から降り、静かに部屋の扉を開けた。聖堂治療院の廊下には、昨日の喧騒が嘘のような静けさが漂っていた。人の気配はほとんどない。足音を忍ばせながら廊下を進み、突き当たりにある裏口から外へ出た。


 冷たい朝の空気が、火照った頬を撫でる。治療院の裏庭には白い花々が咲き乱れ、その傍らを清らかな水が静かに流れていた。朝露に濡れた花弁が、柔らかな陽光を受けてきらきらと輝いている。


 こんなにも美しい朝なのに。どうして、自分の心はこんなにも暗いのだろう。


(……もう、疲れた……)


 時蝕の原因も。

 時守の使命も。

 世界の終焉も。


 今は、何も考えたくなかった。


 結局、自分は誰かに利用されるためだけに存在しているのだろうか。時守の力がなければ、誰も自分を必要としてくれなかったのだろうか。


(……終焉こそ、救い……)


 あのときは理解できなかった言葉が、今は妙に胸に染み込んでくる。


 もし、この世界が最初から存在しなければ。誰かを愛することも、失うこともなかった。こんな苦しい感情を知ることもなかったのだろう。


(……どこか、遠くへ……)


 誰も自分を知らない場所へ。

 何もかも忘れられる場所へ。


(……消えてしまいたい……)


 ヴィオラは目的もなく歩き始めた。


「あれ〜? ヴィオラさま?」


 不意に、背後から明るい声が響いた。


「こんな朝早くに、どうしたんですか〜?」


 ヴィオラはゆっくりと振り返った。そこには、深緑色の髪をした一人の少女が立っていた。



 


 



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