閑話 アージェンの決意
不気味なほど澄んだ碧天が広がっていた。
(……義姉さん)
窓の外を眺めながら、アージェンは小さくため息を吐いた。遠くには、天を衝くようにそびえ立つ二つの崖が見える。その崖を越えた先に、リュウール聖堂治療院があった。
アージェンは、アウレア魔法学園の地下実験施設で魔力を使い果たし、意識を失っていた。目を覚ましたのは、昨日のことだ。どうやら、四日もの間眠り続けていたらしい。
幸い、身体に大きな異常はなかった。しかし体力の回復は思わしくなく、義父からはしばらく安静にするよう厳しく言い渡されていた。そのため、今日の聖堂治療院への訪問にも同行できなかったのだ。
(……僕だって、義姉さんを守りたいのに)
窓枠に頬杖をつき、もう一度ため息を吐く。義姉が自分を心配してくれていることは分かっている。けれど、心配なのは自分だって同じだ。
むしろ、何もできずにこうして待っていることの方が、よほど落ち着かない。晴れ渡る空とは裏腹に、アージェンの心は一向に晴れなかった。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、遠くの稜線に小さな影が現れた。
(……あれは、馬?)
目を凝らせば、一頭の馬が土煙を上げながら、こちらへ駆けてくるのが見えた。
その速度は尋常ではない。まるで何かに追われているかのように、脇目も振らず一直線に駆けてくる。
(……旅人にしては、随分と急いでいるな)
あれほど馬を酷使していては、目的地に着く頃には疲れ果ててしまうだろう。かといって、騎兵にしては単独での行動が不自然だ。馬賊ならば、なおさら人目につく街道を堂々と駆けてくるとは考えにくい。
(……となると、伝令か)
しばらくすると疾風のごとく駆け抜けてきた馬が、リュウール伯爵邸の正門前で急停止した。騎手は馬から飛び降りると、門番に何かを告げている。
ほどなくして、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いてきた。
(……やはり、何かあったのか?)
胸騒ぎを覚えたアージェンは部屋を出ると、エントランスを見下ろせる階段の踊り場へと向かった。
「――伯爵閣下!」
切迫した声が、階下から響いた。その声には聞き覚えがあった。幼い頃から何度も耳にしてきた、リュウール聖堂治療院の伝令役、ルークの声だ。
(……まさか、義姉さんに何かあったのか?)
目を向けると、慌てた形相のルークが息を切らして床に膝をついている。緊張した空気が漂っていた。そこに、義父のヴァイセルクが現れた。
「……どうした、ルーク」
「聖堂治療院より緊急の知らせです! 双崖で大規模な崩落が起きる恐れがあるとのこと!」
「……崩落?」
「はい! 現在、王太子殿下が通過中です。アルベリヒ様から、街道を封鎖するように命じられたのですが、間に合いませんでした……」
ルークが言い終えた、そのときだった。
――ドォォォォンッ!!
遠くから、腹の底に響くような轟音が鳴り響いた。
「……っ!」
反射的に窓へ駆け寄ると、外を見て目を見開いた。
遥か彼方。先ほどまで青空の下にくっきりと浮かんでいた双崖の一角から、凄まじい土煙が噴き上がっている。灰褐色の煙が空へと広がり、崖の輪郭を覆い隠していた。
(……嘘、だろ……)
アージェンは窓枠に手をついた。遠くの双崖から立ち上る土煙は、青空を覆い隠すように広がっていく。
胸の奥が、嫌な音を立てて軋んだ。崖が崩れるよりも先に、聖堂治療院から警告が届いていた。偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
(……まさか、義姉さんが未来を視たのか?)
そう考えれば、辻褄が合う。王太子殿下が通過する双崖で、大規模な崩落が起きる未来を視たのだとしたら――。
(……義姉さんなら、絶対に放っておかない)
誰かが危険に晒されていると知れば、決して見過ごせない人なのだ。きっと今頃、救助に向かっているに違いない。
「ルーク!」
階下から、ヴァイセルクの鋭い声が響いた。
「街道の封鎖を急がせろ。双崖へ向かう者をこれ以上通すな。近隣の村にも知らせ、二次災害に備えるよう伝えよ」
「はっ!」
「聖堂治療院には、負傷者の受け入れ態勢を整えるように。必要な薬品と治癒術師はこちらからも手配する」
「承知しました!」
「それから、現地の状況を確認しろ。王太子殿下の安否を最優先に報告させるんだ」
次々と指示を飛ばす義父の姿に、アージェンは唇を噛みしめる。ヴァイセルクは落ち着いていた。だが、義父がこういうときほど感情を表に出さないことを、アージェンは知っている。その静かな声音の奥に、どれほどの焦りを押し隠しているのだろう。
(……僕だって)
何もできずに待っているだけなんて、耐えられない。今すぐ義姉のもとへ向かわなければ。そう思ったときには、既に階段を駆け下りていた。
「父上!」
「……アージェン?」
「僕も双崖へ向かいます!」
「駄目だ」
「……どうしてですか!」
「お前はまだ療養中だ。無理をして、また倒れるつもりか?」
「でも、義姉さんが……!」
「ヴィオラのことは、私も心配している。だが、今のお前が現地へ向かったところで、できることは限られている。むしろ、救援の妨げになる可能性すらある」
「……っ」
反論できなかった。魔力も体力も、まだ十分には戻っていない。頭では分かっていても、気持ちが追いつかなかった。
「……僕は、ただ待っていることしか許されないのですか?」
「……アージェン」
義父は何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざした。そして、周囲に人がいないことを確かめると、声を落とした。
「実は、お前に伝えておかなければならないことがある」
「……え?」
「昨夜、お前の部屋の周囲に張っていた結界が発動した」
「……結界?」
「ああ。昨夜、お前が眠っている間に何者かが部屋へ近づいたらしい」
背筋に冷たいものが走った。その言葉が何を意味するのか、分からない訳がない。顔色が変わっていくアージェンの肩に手を置いて、ヴァイセルクは静かに頷いた。
「結界には、悪意を持って侵入しようとする者に反撃する術式を組み込んである。発動の痕跡を見る限り、侵入者は相応の傷を負ったはずだ」
「……そんな」
「相手の正体も、目的も分かっていない。だからこそ、今は屋敷から出るな」
有無を言わせぬ声音だった。アージェンは拳を握りしめる。
(……僕を狙った奴がいる?)
ふと、地下実験施設での出来事が脳裏をよぎった。
あのときも、妙なことがあった。階段を下りていた最中、何の前触れもなく腕に鋭い痛みが走ったのだ。
あの場では気に留める余裕もなかったが、今になって思えば、あまりにも不自然だった。
(……まさか、あのときに?)
もし、あの一瞬で何者かに瘴気を埋め込まれたとしたら――
アージェンは無意識に、自分の腕へ視線を落とした。
「……父上」
「心配するな。屋敷の警備は強化してある。お前は何も気にせず、身体を休めていればいい」
「しかし……」
そのとき、ヴァイセルクの胸元で淡い光が瞬いた。
「……む?」
義父は懐から小さな魔石を取り出した。青白い光が明滅し、やがて空中に複雑な魔法陣が浮かび上がる。
伝達魔法だ。
『――ヴァイセルク。聞こえるか?』
低く、威厳のある声が響いた。
「……ガイアスか」
『ああ。急ぎ、確認してもらいたいことがある』
ガイアス・ローズマリー。王国騎士団長であり、現在はアウレア魔法学園にいる地蝕調査団の責任者だ。
「……可愛い娘を王子に奪われ、傷心中の私には療養が必要だと伝えたはずだが?」
『……その可愛い娘と息子が関係しているかもしれない』
「……何?」
ヴァイセルクの表情が変わった。アージェンも思わず息を呑む。
『学園の地蝕跡から、時守の一族が用いていた術式の痕跡が見つかった』
「……時守の術式だと?」
『ああ。だが、現時点では誰が使用したものなのか分からない。調査の結果、その場に居合わせたのは生徒会の面々と、リュウール伯爵家の令息、令嬢だけだったことが分かっている』
「…………」
『術式の確認を頼みたい。至急、学園へ来てくれないか』
ヴァイセルクはしばらく黙り込んだ。その横顔を、アージェンはじっと見つめた。
(……まさか、義姉さんが術式を使ったことがバレたのか?)
「……分かった。すぐに向かおう」
『助かる』
短いやり取りを最後に、魔法陣が消えた。ヴァイセルクは深く息を吐くと、アージェンへ向き直った。
「……聞いてのとおりだ。私はこれから学園へ向かわなければならない。お前は屋敷で待っていなさい。双崖の件も、分かり次第知らせる」
「……しかし!」
「アージェン。今のお前に必要なのは、無事でいることだ。ヴィオラも、お前が再び倒れることなど望んでいないだろう」
「…………」
静かな声だった。しかし、それ以上の反論を許さない響きがあった。これ以上、何も言えなかった。
「……頼んだぞ」
それだけ告げると、義父は足早にその場を去っていった。残されたアージェンは、しばらく動けなかった。
(……無事でいること、か)
義父の言葉が、胸の奥に重く沈んでいく。確かに、そのとおりなのだろう。自分が無理をして倒れれば、義姉を余計に心配させるだけだ。そんなことは分かっている。分かっているけれど――。
(……それでも、何もできなかった頃の自分に戻るのはもう嫌だ)
アージェンは顔を上げた。義姉の無事を、自分の目で確かめたい。その気持ちだけは、どうしても抑えられない。
急いで部屋に戻ると、机の上に一枚の地図を広げた。ヴァンヴェール王国の街道を記した、古い地図だ。指先で、リュウール伯爵邸から聖堂治療院までの道筋を辿っていく。
(……双崖を通る道は、もう使えない)
崩落が起きた以上、街道は封鎖されているはずだ。ならば、迂回するしかない。サクスム子爵領を経由して山裾を回り込む道。森を抜ける古い街道。
しかし、どれも距離があり、馬車では時間がかかりすぎる。
(……もっと近い道はないのか?)
地図の上を指でなぞりながら、アージェンは眉を寄せた。双崖を大きく迂回する道は、いくつか存在する。だが、どれも遠回りになるうえ、今の身体で長時間の移動に耐えられるかも分からない。
「……いや、待てよ」
ふと、地図の端に描かれた細い道が目に留まった。双崖の西側に広がる森林地帯。そこを抜ける古い山道が、聖堂治療院の裏手へと続いている。
(……これなら、多少は時間を短縮できるかもしれない)
馬車が通れるほど整備された道ではないが、馬ならばどうにか進めるだろう。アージェンは地図を畳むと、外套を手に取った。
まずは厩舎へ向かわなければならない。幸い、屋敷には足の速い馬が何頭かいる。問題は、今の自分に馬を貸してくれる使用人がいるかどうかだ。
(……父上から、何か言い含められているだろうな)
そう考えると、正面から頼むのは得策ではない。ならば、使用人の目を避けて裏庭から厩舎へ回ればいい。アージェンは外套を羽織り、足早に部屋を出た。
廊下を抜け、使用人たちが行き交う階段を避けて、屋敷の裏手へと向かう。幸い、誰にも呼び止められることはなかった。裏口の扉を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でた。
(……よし)
アージェンは周囲を見回し、厩舎へ続く小道に足を踏み出した。その瞬間だった。
――パチンッ。
「……っ?」
指先で弾いたような乾いた音が響き、目の前の空間に淡い光が走った。反射的に足を止める。見ると、何もなかったはずの場所に、薄い光の膜が浮かび上がっていた。
(……結界?)
アージェンは眉をひそめた。試しに手を伸ばすと、指先が光の膜に触れた途端、柔らかな抵抗が返ってきた。痛みはない。ただ、どれほど力を込めても、その先へ進むことができなかった。
(……まさか)
アージェンは一歩下がり、周囲へ目を向けた。光の膜は、屋敷を取り囲むように緩やかな弧を描いている。しかも、その魔力の流れには覚えがあった。
(……父上の魔術だ)
間違いない。ヴァイセルクが得意とする、幾重にも術式を重ねた結界魔法。それも、ただ侵入者を防ぐためのものではない。アージェンが指先を離すと、光の膜は何事もなかったかのように消えた。
(……僕を、外へ出さないための結界か)
どうやら義父は、アージェンが大人しく待っているとは思っていなかったらしい。しかも、これほど精巧な結界を張られては、魔力が回復していたとしても突破できるかどうか怪しい。
「……そこまでする必要、ありますか?」
肩を落として、思わず呟いた。義父が自分を心配してくれていることは、十分に理解している。昨夜、何者かが自分の部屋へ侵入しようとしたというのだから、警戒するのも当然だろう。
だが、だからといって、屋敷から一歩も出られないようにするとは。
(……父上、本気で僕を閉じ込めるつもりだな)
アージェンは深くため息を吐いた。ふと、遠くの空へ視線を向ける。双崖の方角には、まだ灰褐色の煙が漂っていた。
(……義姉さん)
今、どうしているのだろう。無事なのだろうか。
そう考えるだけで、胸が締めつけられた。
(……諦めるものか)
結界があるのなら、抜ける方法を探せばいい。少なくとも、ここで何もせずに待っているつもりはなかった。踵を返し、再び屋敷の中へ戻る。まずは、結界の構造を調べなければ。
そう考えながら部屋へ戻ったアージェンは、机に魔術書を広げた。しかし、いくら考えても、良い方法は浮かばない。
義父の結界魔法は、王国でも屈指の精度を誇る。ましてや、魔力を使い果たしたばかりの自分に解除できるほど、甘いものではない。
「……どうしたものか」
アージェンは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。考えれば考えるほど、打つ手がなくなっていく。いっそ、義父が帰ってくるまで待つしかないのだろうか。そんな考えが頭をよぎった、そのときだった。
――コン、コン。
不意に、窓を叩く音がした。
「……ん?」
顔を上げると、窓の向こうで見慣れた青年が笑顔で手を振っていた。
「やあ〜、アージェン! ちょっとここ、開けてくれない〜?」
「…………は?」
あまりにも場違いな明るい声に、思わず間の抜けた声が漏れた。
そこにいたのは、アウレア魔法学園の生徒会役員、シオン・アークライトだった。
(……何で、こんなところに?)
しかも、よりによって窓の外から。アージェンは訝しげに眉を寄せた。先ほどまで頭を悩ませていた結界のことも、一瞬忘れてしまうほどの珍客だった。




