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第五十四話 異なる夜が明けるまで 5 side ルシアン①

 夜の聖堂は、昼間とはまるで異なる雰囲気に包まれていた。色鮮やかな光を落としていたステンドグラスも、今は深い闇に沈んでいる。


 静まり返った礼拝堂に、靴音だけが響く。ルシアンは聖堂の中央で足を止めると、ゆっくりと視線を上げた。


 頭上には、まるで大樹の枝のように幾重にも分かれた柱が伸びている。高窓から差し込む青白い月光が、その複雑な構造に柔らかな陰影を落とし、礼拝堂を幻想的に浮かび上がらせていた。


(……本当に、あのブナの森のようだ)


 そっと目を閉じると、今でも鮮明に思い出せる。


 第二王子という立場に戸惑い、優秀な兄と自分を比べては、劣等感に苛まれていた幼い頃だった。誰にも見つからないようにブナの幹に身を隠し、一人で泣いていた。


 そんな自分に声をかけてくれたのは、一人の少女だった。ルシアンの心を救ってくれたのは、彼女が何気なく口にした言葉と屈託のない笑顔だった。


(……もう二度と、彼女を失うわけにはいかない)


 ルシアンは静かに目を開く。昼間の双崖での崩落事故が、脳裏に浮かんだ。


 崖の崩落を予見したヴィオラは、危険を承知のうえで、迷うことなくアルヴェイン一行の救出を申し出た。その姿は、ルシアンの心を強く揺さぶるものだった。


 自らの危険を顧みず、誰かを救おうとする彼女の優しさに心を打たれた。しかし一方で、彼女を危険な目に遭わせたくないという身勝手な願いが、胸の奥に湧き上がってきた。


 彼女の意思を尊重したい。けれど、二度と失うことだけは耐えられない。相反する思いが、胸の内でせめぎ合った。


(……学園の地蝕では、彼女を救うことができた。だが、ここから先は……)


 学園の地蝕を鎮めた後、これから先ヴィオラにどのような危険が迫るのか、それを防ぐために何をすべきなのか、考えなくてはならない。


 ルシアンは、ゆっくりと自分の掌へ視線を落とした。地下礼拝堂で、始原精霊王ヴァルティアから授かった《選択の加護》。その力で自分に何ができるだろうか。もう一度、間違えてしまうことだけが怖かった。


(……この力で、私は大切な人を守れるのだろうか)


 掌を見つめたまま、ルシアンは静かに拳を握り締めた。


「……会長?」


 不意に背後から声をかけられ、ルシアンは振り返った。聖堂の入口に、一人の少女が立っている。淡い月明かりに照らされたその顔には、驚きと戸惑いが浮かんでいた。


「……ユノ?」


「会長、こんな時間にどうされたんですか?」


「ああ。少し気になることがあってね」


 握り締めていた拳を解き、ルシアンは穏やかに微笑んだ。その表情を見て安心したのか、ユノは聖堂の中へと足を踏み入れた。


「ユノこそ、もう休んでいたんじゃないのかい?」


「そのつもりだったんですけど……廊下の窓から、会長が聖堂へ入っていくのが見えたんです。それで、何かあったのかと思いまして……」


「そうだったのか。心配をかけてしまったね」


「い、いえ! そういうわけでは……!」


 慌てて手を振るユノを見て、ルシアンは小さく笑った。今日一日、彼女も随分と働いていたはずだ。


 双崖の崩落では、誰よりも早く魔力の異変に気づき、救援活動にも尽力してくれた。それなのに、こうして自分のことまで気にかけてくれる。


「……ありがとう、ユノ」


「え?」


「今日の救出作戦では、君にも随分と助けられたからね。改めて、お礼を言わせてほしい」


「そ、そんな! 私は自分にできることをしただけです! それに、みんなが無事だったのは、会長やヴィオラさんたちのおかげですから」


「……そうだね」


 誰か一人でも欠けていたら、あの崩落から全員を救い出すことはできなかっただろう。そう思うと、胸の奥に安堵が広がる。


 しかし、同時に、今日の出来事にまつわる幾つもの疑問が脳裏をよぎった。


「……ユノ。少し、話をしてもいいかな?」


「はい。もちろんです!」


「君は、この聖堂治療院で育ったんだったね」


「はい。小さい頃から、ずっとお世話になっていました」


「なら、七つの礼拝堂についても詳しいのかな?」


「七つの礼拝堂ですか? それぞれの名前と紋章くらいしか分からないのですが……」


「そうか。実は、王家には始原精霊王ヴァルティア様に由来する、七つの特別な加護についての古い伝承が残されていてね」


「……ヴァルティア様の、特別な加護……」


 ユノは小さく息を呑んだ。その反応に、ルシアンは僅かに眉を寄せた。


(……やはり、何か気になることがあるようだね)


「ヴァルティア様の御像が祀られているこの聖堂には、七つの礼拝堂がある。もしかすると、何か関係があるんじゃないかと思ったんだ」


「そうなんですね……」


「王家に残された古い記録にも、『七つの加護が揃うとき、世界は大きな岐路に立つ』といった曖昧な記述しかなくてね」


「……世界が、岐路に?」


「ああ。今日、私が授かった《選択の加護》も、その一つなのかもしれない」


 ルシアンは自分の掌へ視線を落とした。

 ヴィオラが持つ、未来と過去を視る力。

 ユノが持つ、魔力のオーラを視る力。

 そして、自分に与えられた《選択の加護》。


 それぞれ異なる力ではあるものの、今日、この場所で起きた出来事を思い返すと、まったく無関係だとは思えなかった。


 そもそも、なぜ今になって自分に加護が授けられたのだろうか。王家に伝わる『世界は大きな岐路に立つ』という言葉。それが意味するものは、世界の存続か、それとも終焉か。


 もし、始原精霊王が世界に迫る危機を察知し、自分たちに何かを託そうとしているのだとしたら――。


(……何か、見落としていることがあるのかもしれない)


 ルシアンが思案していると、ユノが何かを思い出したように顔を上げた。


「……そういえば」


「どうしたんだい?」


「地下礼拝堂で、ヴァルティア様の御像を見たとき……何だか、異変を感じたんです」


「……異変?」


「はい。子供の頃、アルベリヒ様に見せていただいたときは、御像の周りに七色の綺麗な光が見えたんです。でも、今日は一色しか見えなくて……それに……」


「……それに?」


 ユノは言葉に詰まった。何かを思い出したのか、その表情が悲しげに曇る。


「……残っていたのは、今にも消えてしまいそうな弱い光でした。それに、ヴァルティア様が、とても悲しそうなお顔をしていて……まるで、私に何かを訴えかけているように見えたんです」


「…………」


 ルシアンは、地下礼拝堂で目にした光景を思い返した。地上から隔絶された地下礼拝堂。そこはまるで、白い石で形作られた森のようだった。


 『時の根』と呼ばれる神秘的な空間。そこに安置されていたのが、始原精霊王ヴァルティアの御像だった。


『ヴァルティア様の御像は、見る者によってそのお姿が異なるのです』


 聖堂治療院の院長、アルベリヒが告げた言葉がよみがえる。確かに、ルシアンの目には、ユノが語る姿とは違って見えていた。


(……私には、目を閉じ、何かを祈っているように見えた)


 それが何を意味するのか、今はまだ分からない。だが、ユノが見た七色の光と、王家に伝わる七つの加護。その二つが、まったく無関係だとは思えなかった。


「……ユノ。王家に伝わる七つの加護の中に、《観測の加護》と呼ばれるものがあるんだ」


「……っ」


「まだ詳しいことは分かっていないけれど、人や魔力、時間の流れに潜む異常を見つけ出す力だと伝えられている」


「……時間の流れまで、ですか?」


「ああ。君が今日、双崖で魔力の異変に気づいたのも、その力と関係があるのかもしれないね」


 ユノは驚いたように目を見開いた。しかし、すぐにその表情を曇らせ、悲しげに視線を落とした。


 地下礼拝堂でアルベリヒの言葉を聞いた途端、ユノは血の気が引いたように顔を青ざめさせていた。そして、アルベリヒもまた、何かを悔いるような表情を浮かべていたのだ。


(……あのとき、何かを知ってしまったのだろうか)


 おそらく、自身の出自に関わる何かを。そう考えれば、二人の反応にも納得がいく。


「……ユノ」


 ルシアンは、できるだけ穏やかな声で呼びかけた。


「今日、地下礼拝堂で何かあったのなら、無理に話さなくてもいい」


「……っ」


 ユノは驚いたように顔を上げた。その瞳が僅かに揺れる。しばらく何かを迷うように唇を結んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。


「……会長は、どこまでご存じなのですか?」


 静かな問いかけだった。けれど、その声には隠しきれない不安が滲んでいた。


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