第五十三話 異なる夜が明けるまで 4 side ユノ
薬品の匂いが立ち込める、聖堂治療院の備品室。
双崖の崩落事故で負傷した人々の治療を手伝うため、ユノも作業に加わっていた。棚に包帯を片付けながら、そっとため息を吐く。
(今日は本当に、色々なことが起きた一日だったな……)
ユノは、聖堂治療院に帰省してからの出来事を思い返した。
久しぶりに訪れた聖堂治療院。懐かしい人々との再会に、見慣れた礼拝堂。そして、地下礼拝堂で目にした始原精霊王ヴァルティアの御像。あの場所を訪れてから、何もかもが目まぐるしく動き始めたように思う。
ヴァンヴェール王国の第二王子、ルシアンが授かった加護をきっかけに明らかになった、自身の出自。
(まさか、私が王家の血を引いていたなんて……)
幼い頃、地下礼拝堂で体験した不思議な現象。あの日を境に見えるようになった魔力のオーラは、ヴァルティアから授かった加護によるものだったのだ。
その事実を知った今でも、ユノは戸惑いを隠せずにいた。自分が王家の血を引いていることも、特別な加護を授かっていたことも、今日まで知らなかったのだ。
これまでと同じように暮らしていけるのだろうか。自分の置かれる立場が、これからどう変わってしまうのか。考えれば考えるほど、不安が募っていく。
(……でも、この加護がなかったら、みんなを救うことはできなかったかもしれない)
ヴィオラの未来視によって予見された、双崖の崩落。あのとき、ヴァルティアの御像の背後から現れた不気味な影が、ヴィオラの右目へと吸い込まれていった。その直後に、未来視が発動したのだ。
(……あの影は、クロノス様の意思だったのかな)
時守の一族に、未来と過去を視る加護を与えたクロノス。
ユノに、魔力のオーラを視る加護を与えたヴァルティア。
そして、新たにヴァルティアから選択の加護を授かったルシアン。
もし、精霊たちの加護に何らかの意思が込められているのだとしたら。自分たちが今日、この場所に集まったことにも、何か意味があるのではないだろうか。まるで、目には見えない大きな力に導かれているような、そんな気がしてならなかった。
(それに、双崖の崩落も……)
ユノは、あのときの光景を思い浮かべた。今日は雲一つない晴天だった。前日に大雨が降ったわけでもなく、崖が崩れるような前兆は見当たらなかった。それなのに、あれほど巨大な岩壁が突然崩れ落ちたのだ。
もちろん、崖が崩れる原因は大雨だけではない。地盤の緩みや長年の風化など、考えられる要因はいくつもある。けれど、ユノにはどうしても気になることがあった。
(……あの魔力は、いったい何だったんだろう?)
双崖で目にした、奇妙な光景。周囲の木々や地面から、幾筋もの淡い光が伸び、右側の崖へと吸い寄せられるように集まっていた。それは、ユノの目にしか映らない魔力の流れだった。
自然界の魔力が一か所に集中すること自体は、それほど珍しい現象ではない。しかし、あれほど急激に、しかも膨大な魔力が移動する光景は初めてだった。まるで、何者かが意図的に魔力を集めているようにも見えたのだ。もし、あの魔力の集中が崖の崩落と関係しているのだとしたら。
(……誰かが、わざと崖を崩した……?)
そこまで考えて、ユノは慌てて首を振った。あの魔力が何を意味していたのか、今の自分には分からない。ただ一つ確かなのは、あの場所で何か異常な現象が起きていたということだけだ。
考えても答えは出ず、ユノは小さく息を吐いた。そして、手元に残っていた包帯を棚へ戻す。
「……よし。これで全部かな」
最後の箱を片付け、作業台を見回した。ひとまず、頼まれていた仕事は終わったようだ。
そのときだった。
「――もう、他に治療師はいないのか!?」
突然、廊下の向こうから怒声が響いた。声が聞こえてきたのは、負傷者たちが運び込まれた医療室の方角だ。先ほどまで慌ただしく行き交っていた治療師たちも、今は幾分落ち着きを取り戻していたはずなのだが。
「これ以上、何もできないというのか!?」
「で、殿下! どうか落ち着いてください!」
聞き覚えのない男性の声に続き、治療師の困り果てた声が響く。
(……殿下?)
まさか、王太子殿下だろうか。気になったユノは、片付けを終えた備品室を後にした。医療室へ近づくにつれ、言い争う声がはっきりと聞こえてくる。
「先ほども申し上げましたように、リリアーナ様には、これ以上の治癒魔術を施すことが難しいのです」
「なぜだ!? これだけの治療師が揃っているのに、他に方法はないというのか!」
「殿下……。私どもも、できる限りの処置はいたしました。しかし、リリアーナ様のご病状は、通常の治癒魔術で改善できるものではなく……」
「……そんなことは、分かっている! 君たちが最善を尽くしてくれたことも、彼女の病が容易に治るものではないことも……分かっているんだ。だが……!」
ユノは医療室の入口で足を止めた。開け放たれた扉の向こうには、数人の治療師に囲まれた金髪の青年が立っていた。
ヴァンヴェール王国第一王子、アルヴェイン・ヴァンヴェール。
その端正な顔立ちは、弟であるルシアンによく似ている。しかし、今は眉間に深い皺を刻み、焦燥を隠しきれない様子だった。
「……せめて、少しでも楽にしてやりたいんだ」
最後の言葉は、懇願にも似ていた。その声音に滲む切実さに、治療師たちは返す言葉を失った。
アルヴェインの視線が、部屋の奥にある寝台へと向けられる。白い寝具に身を預けていたのは、リリアーナだった。アウレア魔法学園で教師を務める、ユノもよく知る女性だ。
普段は穏やかな笑みを絶やさない彼女も、今は顔色が悪く、ひどく疲弊しているように見えた。
(……リリアーナ先生)
ユノは心配そうに眉を寄せた。どうやら、双崖の崩落による怪我ではなく、以前から患っている病が問題らしい。
「アルヴェイン様……」
寝台から、か細い声が聞こえた。
「私は大丈夫ですから……。どうか、皆さんを困らせないでください」
「リリー。君は黙って休んでいてくれ」
「でも……」
「……頼むから、今は私に任せてほしい」
その声は、先ほどまでの怒声とは打って変わって優しかった。けれど、そこには有無を言わせぬ強さがあった。ユノはしばらく迷った末、おずおずと医療室へ足を踏み入れた。
「あ、あの……」
突然現れた少女に、治療師たちが驚いたように目を瞬かせる。
「……ユノ?」
ユノはちらりとアルヴェインを見た。王太子を前にして、緊張で胸が高鳴る。それでも、寝台に横たわるリリアーナの姿を見て、意を決した。
「僭越ながら、私でよろしければ、少し診させていただいてもよろしいでしょうか?」
「……君は?」
アルヴェインが訝しげに眉を寄せた。
「ユノと申します。こちらの聖堂治療院で、治癒魔術を学んでおりました」
「……ユノ?」
その名を繰り返したアルヴェインが、何かを思い出したように目を細める。
「……ああ。ルシアンたちと一緒に、双崖へ駆けつけてくれた少女か」
「は、はい!」
「そうか……いいだろう。ただし、彼女に危害を加えるようなことは絶対にしないでくれ」
「はい。もちろんです!」
ユノは深く頭を下げた。すると、傍らにいた治療師が小声で耳打ちしてくる。
「ユノ、大丈夫なの? 私たちでも原因が分からないのよ?」
「……はい。治せるかどうかは分かりません。でも、私の目なら、何か分かるかもしれないと思って……」
その言葉に、治療師は不思議そうに首を傾げた。ユノはそっと胸元に手を当てた。ヴァルティアから授かった、魔力のオーラを視る加護。治癒魔術だけでは分からない異常も、この目なら見つけられるかもしれない。そんな僅かな可能性に、ユノは賭けてみたかった。
「……リリアーナ先生」
「あら……ユノさん?」
リリアーナがゆっくりと顔を向ける。そして、弱々しくも優しい笑みを浮かべた。
「こんなところで会うなんて……。あなたも救援に来てくれていたのね」
「はい。先生こそ、ご無事でよかったです」
「ふふっ。ありがとう」
その笑顔を見て、ユノも少しだけ緊張が解けた。
「先生、少しだけお身体の状態を確認してもよろしいですか?」
「ええ。もちろんよ」
「ありがとうございます」
ユノはそっとリリアーナの手を取った。そして、意識を集中させる。普段なら、人の身体を巡る魔力は淡い光となって浮かび上がる。怪我をしていれば、その部分の光が弱まり、魔力の流れにも乱れが生じる。
(……え?)
ユノは思わず目を見開いた。リリアーナの身体を包むオーラは、今まで見たことのないものだった。
淡く輝く魔力の光。その輪郭が、まるで水面に映った月のように揺らいでいる。しかも、ただ揺れているのではない。身体から離れようとする光を、別の何かが引き留めているように見えた。
(……何、これ……?)
オーラが薄くなったかと思えば、次の瞬間には元の輝きを取り戻す。その繰り返しだった。まるで、二つの異なる力が、互いに引っ張り合っているかのようだった。
(……こんなの、初めて見る)
ユノは慎重に魔力の流れを追った。しかし、どこを見ても、怪我や病によって生じる一般的な魔力の乱れとは異なっていた。
「……どうだ?」
背後からアルヴェインの声がした。
「何か分かったかい?」
「……あ、はい。ですが、その……私にも、はっきりしたことは分からなくて……」
「構わない。気づいたことがあるなら教えてほしい」
その真剣な眼差しに、ユノは小さく頷いた。
「リリアーナ先生の魔力の流れが、少し不思議なんです」
「……魔力の流れ?」
アルヴェインの目が僅かに見開かれた。
「魔力流れが……見えるか?」
「はい。うまく説明できないのですが……先生の魔力が、身体から離れようとしているように見えるんです。でも、そのたびに別の力が引き戻しているような……」
「…………っ」
アルヴェインの表情が変わった。ほんの一瞬だった。けれど、その変化はあまりにも明白だった。
「……引き戻している?」
「はい」
「……それは、どんな光なんだい?」
「えっと……先生の周りには、淡い光が広がっています。でも、その外側に、細い糸のような光が幾重にも重なっていて……」
「……糸?」
「はい。まるで、ほつれた布を何度も縫い合わせたような……そんな感じなんです」
アルヴェインの瞳が、微かに揺れた。
「……そう、か」
「……殿下?」
「……いや」
アルヴェインは静かに首を振った。
「君の目には、そう見えるんだね」
「はい。でも、これが病気と関係しているのかどうかは……」
「……十分だよ」
アルヴェインは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、ユノ。とても参考になった」
「い、いえ! お役に立てたのならよかったです!」
ユノは慌てて頭を下げた。すると、アルヴェインが少し考えるように顎へ手を添える。
「……一つ、聞いてもいいかな?」
「はい!」
「君には、その光がいつも見えているのかい?」
「はい。意識すれば、ほとんどの人の魔力の流れをオーラとして見ることができます」
「……なるほど」
「ただ、リリアーナ先生のようなオーラは初めてで……」
「そうか。では、例えば――」
「……ふふっ」
不意に、小さな笑い声が聞こえた。二人が振り返ると、寝台に横たわっていたリリアーナが、口元を押さえて微笑んでいた。
「……リリー?」
「……あ、ごめんなさい」
リリアーナは少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「何だか、スチルみたいだなって……」
「……スチル?」
アルヴェインが首を傾げた。
「どういう意味だい?」
「……えっ?」
リリアーナははっとしたように口を閉ざした。
「い、いえ! その……」
「……?」
「ほら、お二人とも、とても絵になっていたから……」
慌てて言葉を探すように視線を泳がせる。
「金髪の王子様と、可愛らしい女の子が真剣にお話ししている姿って、何だか素敵でしょう? お似合いだなって……」
「…………」
アルヴェインの笑みが、ぴたりと止まった。
「……リリー?」
「……はい?」
「君は、私が他の女性とお似合いだと言われて、嬉しいのかい?」
「……え? い、いえ、そういう意味では……」
「……そうか」
アルヴェインは静かに微笑んだ。しかし、その笑顔は先ほどまでとは少し違っていた。
「どうやら、君はまだ分かっていないようだね」
「……何を、でしょうか?」
「私が君をどれほど愛しているのか、ということを」
「……っ!?」
リリアーナの頬が一瞬で赤く染まった。
「ア、アルヴェイン様!?」
「私が他の女性と親しく話している姿を見て、お似合いだなんて……。君は本当に、私を困らせるのが上手だね」
「ち、違うんです! ただ、何となく絵になるなって思っただけで……!」
「ふふっ。言い訳は聞かないよ」
アルヴェインは寝台の傍らへ腰を下ろした。そして、リリアーナの手をそっと取る。
「……私が君をどれだけ愛しているのか、まだ分かっていないようだね?」
「……っ!」
「今日は十分に分からせてあげるよ」
「ま、待ってください! ここ、医療室ですよ!?」
「もちろん分かっているとも。だから、君が安心して眠れるまで、何度でも愛していると伝えようと思ってね」
「そ、それは……!」
「まず、君がどれほど大切な存在なのか、最初から話そうか」
「アルヴェイン様! お願いですから、少しお静かに……!」
「おや。さっきまで私が他の女性とお似合いだなんて言っていたのに、今度は照れるのかい?」
「そ、それとこれとは別です!」
リリアーナは真っ赤になって抗議した。しかし、アルヴェインはまるで意に介していない。
「……リリー」
彼は彼女の手を両手で包み込み、優しく目を細めた。
「私には、君しかいないんだよ」
「…………っ」
「だから、もう二度と、私と他の女性がお似合いだなんて言わないでほしいな」
「……はい」
リリアーナが小さく頷く。その様子を見て、アルヴェインは満足そうに微笑んだ。
「……いい子だね」
「……もう、アルったら……」
すっかり二人の世界に入り込んでしまった王太子と、その婚約者。ユノは、そんな二人を少し離れた場所から眺めていた。
(……えっと)
どうしたらいいのだろう。何だか、ものすごく居づらい。先ほどまでの緊迫した雰囲気が嘘のように、医療室には甘い空気が漂っていた。
周囲の治療師たちも、困惑したように顔を見合わせている。
(……リリアーナ先生、さっきより元気そう)
ユノは小さく微笑んだ。顔色はまだ優れないものの、先ほどまでの苦しげな表情は和らいでいる。それだけでも、少し安心できた。
(……よかった)
ユノはそっと一礼した。
「……それでは、私はこれで失礼します」
しかし、二人から返事はなかった。
「リリー、君は私のことをどう思っている?」
「えっ!? い、今ここで答えなければいけませんか!?」
「もちろん。ぜひ聞かせてほしいな」
「も、もう……!」
ユノは苦笑した。
(……うん。そっとしておこう)
邪魔をしないように、静かに医療室を後にする。聖堂治療院の廊下には静けさが戻っていた。
窓の外には、深い夜の闇が広がっている。聖堂治療院の敷地内に点在する礼拝堂には、ところどころ明かりが灯されていた。
(……もう、こんな時間なんだ)
ユノは窓の外を見つめた。今日は本当に、色々なことがあった。自分の出自を知り、双崖の崩落に立ち会い、そして今、リリアーナの不思議なオーラを目にした。
(……あの光、何だったんだろう)
アルヴェインに伝えたときのことを思い返す。リリアーナのオーラについて説明した瞬間、王太子の表情が僅かに変わったように見えた。
考えても仕方ない。気を取り直して、割り当てられた部屋へ向かおうとした、そのときだった。
「……あれ?」
ふと、窓の向こうに人影が見えた。聖堂治療院の中庭を、一人の青年が歩いている。
月明かりに照らされた金色の髪。背筋を伸ばした、凛とした立ち姿。
(……会長?)
ユノは思わず足を止めた。間違いない。アウレア魔法学園の生徒会長、ルシアン・ヴァンヴェールだった。
ルシアンは周囲を見回すこともなく、真っ直ぐ聖堂へ向かって歩いていた。その足取りには、どこか迷いがない。
(……こんな時間に、どうしたんだろう)
今日の救援活動で、ルシアンも相当疲れているはずだった。それなのに、休む様子もなく聖堂へ向かっている。
やがて、ルシアンは聖堂の大きな扉を開き、その奥へと姿を消した。




