第五十一話 異なる夜が明けるまで 2 sideリオン
由緒ある騎士の名門、ローズマリー公爵家。その次男として生まれたリオン・ローズマリーは、幼い頃から兄に対して強い劣等感を抱いていた。
――いったい、何度剣を振るっただろう。
ローズマリー公爵家の裏庭に設けられた訓練場に、乾いた音が響き渡っていた。辺りは既に夕暮れに染まり、冷たい風が汗ばんだ頬を容赦なく撫でていく。
「……くそっ!」
手から弾き飛ばされた木剣が地面を転がる。荒い息を吐きながら、リオンはそれを睨みつけた。
「……また、負けた」
今日も父の剣には、まるで歯が立たなかった。
いや、勝てるなどとは最初から思っていない。相手は王国騎士団長を務める父、ガイアス・ローズマリーだ。成人すら迎えていない自分が、そう簡単に敵うはずもなかった。
しかし、兄は違った。
二つ年上の長男は、父の剣筋を一度見ただけであっという間に習得してしまう。その類まれな剣の才能は、父は勿論、周囲の騎士たちも一目置いていた。誰もが兄の将来を期待し、いずれは父の跡を継ぐにふさわしい逸材だと口を揃える。
対して、自分はどうだ。
何度剣を振っても、何度打ち込んでも、父の防御を崩すことすらできない。
『剣先が甘い。もう一度だ』『踏み込みが遅い。それでは敵に先を取られるぞ』『……リオン。お前はもっと努力しなければならん』
父の厳しい声が、今も耳の奥に残っている。
(……努力なら、しているさ)
誰よりも早く起きて剣を振り、日が暮れるまで訓練を続けている。それでも、剣の腕は思うように上達しない。ようやく一つの技を習得しても、兄はその二つも三つも先に進んでいるのだ。追いつこうともがけばもがくほど、兄の背中は遠ざかっていくばかりだった。
「……向いてないんだ、俺は」
自嘲するように呟き、リオンは拳を握り締めた。
本当は、ずっと前から分かっていた。自分が心から夢中になれるのは、剣術ではなく魔術なのだと。
複雑な術式を読み解き、目に見えない魔力の流れを感じ取ったりする。魔法学園で学んだ魔術を応用し新たな魔術を考える時間は、リオンにとって剣を振るう時間よりもずっと心躍るものだった。
夢中になり、隠れて魔術書を読み漁ることも多かった。しかし、父ガイアスはそれを快くは思わなかった。
『そんな本を読んでいる暇があるなら、剣を振るったらどうだ。騎士として必要なのは術式ではない。鍛錬だ。だからお前は、兄には敵わないんだ』
父の言葉が、リオンの劣等感を更に深くさせた。
(俺は……ローズマリー公爵家の人間だからな)
代々、優れた騎士を輩出してきたローズマリー公爵家に生まれた者として、剣の道を歩むことは責務だ。そう、幼い頃から教えられてきた。
父の期待を裏切ることも、兄と比べられることから逃げ出すことも、できない。たとえ、心の中では別の道を望んでいてもそれすら口に出すことが叶わない。それがリオンを苦しめていた。
「お兄様!」
小さな声が聞こえた。振り返ると、訓練場の入口に幼い少女が立っていた。
「セシリア?」
年の離れた妹だった。幼いセシリアは両手に小さな籠を抱え、笑顔で駆け寄ってくる。
「リオンお兄様、お母様がお菓子を焼いて下さったのです。一緒に食べましょう!」
「……そうか、ありがとう。でもここは危ないから、向こうで待っていてくれないか?」
「はい!」
元気良く返事をする無邪気な姿に、リオンの口元も僅かに緩んだ。そして、セシリアは訓練場の端にある石段へ向かった。
そのすぐ近くには訓練用の魔導人形が並んでいる。魔導人形は内部に組み込まれた魔石によって起動する、模擬戦を想定して造られた魔具だ。通常は訓練者の魔力に反応して動き出すが、制御術式によって攻撃範囲や威力が厳しく制限されている。
――ギギギギギギ……
しかし、不意に耳障りな金属音が響いた。
「……ん?」
ふと顔を上げたリオンは、訓練場の片隅で不自然な動きを繰り返す魔導人形に気づいた。普段なら静かに佇んでいるはずのそれが、まるで何かに操られているかのように、ぎこちなく身体を揺らしている。
嫌な予感がした。魔導人形の胸部に埋め込まれた魔石が、不規則に点滅している。
「……まさか!」
――ガシャンッ!
次の瞬間、魔導人形が突然腕を振り上げた。手に握られた模擬戦用の剣が勢いよく振り下ろされる。その先にいたのは、セシリアだった。
「……え?」
幼い少女は、何が起きたか理解できないままその場に立ち尽くしていた。
「――っセシリアぁぁっ!!」
リオンは叫んだ。しかし、遠い。ここからではどれだけ速く駆け寄っても、剣が振り下ろされるその瞬間を阻止できない。
(……くそっ! 間に合わないっ!!)
その刹那、リオンの脳裏に一つの術式が閃いた。炎を鋭い槍の形に凝縮し、標的へと放つ攻撃魔術。燃え盛る炎が槍へと姿を変えるその美しさに魅了され、幾度となく魔導書を読み返した、お気に入りの術式だった。
迷っている暇などない。ただ目の前の危機を退けたい。その一心で、リオンは無我夢中になって魔術を構築し、展開する。そして、掌を勢いよく突き出すと術名を叫んだ。
「紅蓮槍!!」
掌から放たれた炎の槍が、真っ直ぐ魔導人形へと飛んでいく。空気を焼き焦がすような轟音とともに、紅蓮の閃光が夕暮れの訓練場を駆け抜けた。
狙うは、セシリアの頭上に振り下ろされようとしている剣だ。しかしリオンの放った魔術は、魔導人形の剣を弾くどころか、その腕を根元から吹き飛ばした。
――ガァァンッ!!
激しい衝撃音が響き渡り、魔導人形が大きくよろめく。振り下ろされるはずだった剣は宙を舞い、セシリアから離れた石畳の上へと落下した。
「……っ! セシリア!!」
倒れかけた魔導人形の傍から妹を抱き上げ、そのまま勢いよく飛び退く。背後で鈍い音が響いた。そこには、片腕を失った魔導人形が地面に崩れ落ちていた。胸部の魔石は砕け散り、内部から黒い煙が立ち上っている。
「……はぁっ、はぁっ……セシリア! 怪我はないか!?」
荒い息を吐きながら、リオンは腕の中の妹を見下ろした。
「……お、兄様……?」
セシリアは大きな瞳を瞬かせた。突然の出来事に、まだ状況を理解できていないらしい。
「どこか痛むところは!? 腕は? 足は!?」
「……だ、大丈夫です……」
その返事を聞いた途端、リオンの全身から力が抜けた。震える息とともに、安堵の言葉が零れる。
「本当に……よかった……」
腕の中の小さな身体を、思わず強く抱き締めた。あと少し、魔術の発動が遅れていたら。あと少し、狙いが外れていたら。そう考えるだけで、背筋が凍る。
「……お兄様、すごいです!」
「……え?」
「さっきの炎、とっても綺麗でした! お兄様が、私を助けてくださったんですよね?」
無邪気な笑顔を向けられ、リオンは言葉に詰まった。
「……ああ」
「ありがとうございます、お兄様!」
セシリアは嬉しそうに笑うと、リオンの首へぎゅっと抱きついた。
「私、お兄様の魔術大好きです! 私もお兄様のような立派な騎士になりたいです!!」
「…………っ」
胸の奥が、熱くなった。今まで、剣を振るうことしか認められなかった。どれだけ魔術を学んでも、それを褒めてくれる者はいなかった。
(……俺の魔術で、守れたんだ)
小さな妹の命を。剣では間に合わなかったその一瞬に、自分の魔術が確かに妹を救ったのだ。その事実が、何よりも嬉しかった。
(……そうか……俺は、俺のままでよかったのか)
剣が得意でなくてもいい。父や兄のようになれなくてもいい。自分には、自分にしかできないことがある。そして、その力で誰かを守ることができるのなら。
(……俺は、騎士になれる)
リオンはそっと妹の頭を撫でた。
「……ありがとう、セシリア」
「……?」
「お前のおかげで、大切なことに気づけたよ」
セシリアは不思議そうに首を傾げた。それから、嬉しそうに笑った。
「えへへっ! よく分かりませんけど、お兄様が元気になられたなら嬉しいです!」
その笑顔につられるように、リオンも笑った。夕暮れの訓練場を、冷たい風が二人の頬を優しく撫でていく。その日、リオンは初めて、自分の魔術を誇らしく思った。そして、心に誓った。
――いつか必ず、誰かを守れる騎士になろう。
あの日、幼い妹の笑顔を前に誓った決意を、リオンは今でも鮮明に覚えている。
あれから、幾年もの月日が流れた。剣術の鍛錬を怠ることなく、得意とする魔術にも磨きをかけた。父や兄と比べられることは相変わらずだったが、以前ほど気にならなくなっていた。
誰かと同じ強さを手に入れる必要はない。自分には、自分にしかできないことがある。そう信じられるようになったからだ。
やがてリオンは、その魔術の才能と護衛としての適性を認められ、王太子アルヴェインの護衛騎士に任命された。初めてその知らせを受けた日、誰よりも喜んでくれたのはセシリアだった。
『お兄様! おめでとうございます!』
まるで自分のことのように喜び、満面の笑みで駆け寄ってきた。あの日と同じ、真っ直ぐな笑顔だった。その姿を見て、リオンは改めて誓った。自分を信じてくれた妹に恥じない騎士であり続けよう、と。
王太子の護衛騎士になってからは、家に帰ることも少なくなった。王城に寝泊まりをし、休暇はあまりない。十五歳になったセシリアは、アウレア魔法学園に入学し、第二王子の護衛騎士として勤めを果たしていると聞いた。魔術を幼い頃に習得し、その実力を認められたそうだ。
それを聞いた時はとても誇らしかった。自分も王太子殿下の護衛騎士として使命を果たそう。そう、自らを鼓舞したものだ。
そんなある日のことだった。アルヴェインから隣国視察への同行を命じられたのは。
『今回の視察には、リリアーナも同行する。私の大切な婚約者だ。万全の護衛を頼む』
『はっ!』
ところが、視察中にアウレア魔法学園で地蝕が発生したとの知らせが届いた。同行していた学園理事長は急遽帰国することとなり、護衛の一部もそちらへ回された。
アルヴェインとリリアーナは予定どおり帰国することになったが、災難はそこから始まった。
普段は魔物が現れない街道で群れに襲われ、野盗との交戦を余儀なくされた。さらには、丈夫なはずの石橋まで突然崩落した。
そのたびに護衛騎士たちは剣と魔術で危機を切り抜けたが、魔力は次第に底を尽いた。リュウール領に入る頃には、誰もが疲労困憊している状態だった。
『このままでは、次に襲撃を受けた際に対処できない。近くに聖堂治療院があるそうだ。そこで魔力を回復させよう』
アルヴェインの判断に、リオンも異論はなかった。しかし、治療院へ向かう道には、左右を巨大な断崖に挟まれた街道があった。
――双崖の試練の道。
見通しが悪く、襲撃されれば逃げ場を失いかねない場所だ。
(……嫌な場所だな)
リオンは無意識に剣の柄へ手を添えた。だが、周囲に魔物の気配はない。残された魔力では、広範囲の探知魔術を使うことも難しかった。
そうして馬を進めた、その直後だった。
――ゴゴゴゴゴ……。
「……ん?」
微かな振動が、馬の蹄を通して伝わってきた。音は次第に大きくなり、足元の地面まで震え始める。
「……止まれ! 全隊、停止!!」
護衛騎士たちが一斉に手綱を引いた。
『リオン? 何事だ?』
馬車の窓から、アルヴェインが顔を覗かせる。
「殿下! 何か様子がおかしいのです! 念のため――」
――ドォォォォンッ!!
言い終わるより早く、耳をつんざく轟音が響いた。右側の断崖に巨大な亀裂が走り、次々と岩塊が剥がれ落ちていく。
「崩落だ!!」
「殿下! 馬車から離れてください!!」
リオンは馬から飛び降り、馬車へ駆け寄った。
だが、頭上から巨大な岩塊が迫っていた。
リオンは咄嗟に右手を突き出し、残された魔力を掌へと集中させた。しかし、どれほど必死に魔力を練り上げようとしても、術式を発動させるには到底足りなかった。
(……くそっ、こんなときに……!)
胸の奥に、かつての無力感が蘇る。どれほど努力しても父や兄に追いつけず、自分の弱さを嘆いていた幼い頃の記憶。
だが、今は違う。あの頃の自分とは違うのだ。リオンは奥歯を噛み締めると、腰に佩いた騎士剣を勢いよく引き抜いた。魔術が使えないのなら、剣を振るえばいい。剣で敵わないのなら、この身体を盾にしてでも守り抜く。
――目の前に、守るべき人がいる。
それだけで、立ち向かう理由は十分だった。
「殿下! こちらへ!!」
リオンが声を張り上げた、その瞬間だった。
――ズズズズズ……ッ!!
地の底から響くような轟音とともに、目の前の地面が突如として隆起した。頭上から迫っていた巨大な岩塊が、盛り上がった土壁に激突する。
――ドォォォンッ!!
凄まじい衝撃が辺りを揺るがし、砕けた岩片が四方へ飛び散った。しかし、岩塊が馬車を押し潰すことはなかった。舞い上がる土煙の向こうには、街道を覆うように巨大な防護壁がそびえ立っていた。
(……土魔法による結界!? いったい、誰が……!)
これほど大規模な術式を、一瞬で構築するなど。驚愕に目を見開いた、そのときだった。
「――兄上!!」
崩落の轟音を切り裂くように、聞き覚えのある声が響いた。リオンが振り返ると、立ち込める土煙の向こうから、数頭の馬が姿を現す。先頭で手綱を握っていたのは、第二王子ルシアン・ヴァンヴェール殿下だった。
(……ルシアン殿下!?)
まさか、このような場所に救援が駆けつけるとは。安堵と驚きが入り混じる中、リオンの視線が、後方を走る一頭の馬に釘付けになった。そこには、見間違えるはずのない赤髪の少女がいた。
(……セシリア!?)
騎士の制服に身を包み、真剣な眼差しで前方を見据えるその姿は、記憶の中の幼い妹とはまるで違っていた。
「紅蓮槍!!」
紅蓮の槍が岩塊を貫き、砕けた破片が宙を舞った。
(……あの魔術は……)
見間違えるはずがなかった。かつて自分が妹を救ったときに使った魔術。あの日以来、セシリアが何度も教えてほしいとせがんできた術式だった。
(……使えるようになったのか)
リオンは思わず目を細めた。
幸い、アルヴェインとリリアーナの命に別状はなかった。護衛騎士たちも負傷こそしたものの、死者は一人も出なかった。
しかし街道は通行止めになり、リュウール聖堂治療院での足止めを余儀なくされた。
その夜、治療を終えたリオンは、アルヴェインの指示で聖堂内の警備状況を確認していた。その途中、廊下の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。
「……エレノア、それってどういう……」
聞き覚えのある声に、リオンはふと足を止めた。
(……セシリア?)
声のする方へ視線を向けると、廊下の先に三人の若者がいた。その中に、見慣れた赤髪の少女の姿を見つける。
以前よりも背が伸び、顔立ちも随分と大人びていた。それでも、感情がすぐ表情に現れるところは、幼い頃と少しも変わっていない。
懐かしさに、リオンの口元が自然と緩んだ。
「――セシリア?」
呼びかけると、少女がこちらを振り返った。
「……お兄様!?」
リオンの姿を認めた途端、セシリアの瞳が大きく見開かれる。
「ああ、やっぱりセシリアか。無事だったんだな」
「お兄様こそ! お怪我はありませんか!?」
「大丈夫だ。幸い、かすり傷程度で済んだよ」
「……よかった」
心底安堵したように胸を撫で下ろす妹を見て、リオンはふと遠い日の記憶を思い出した。暴走した魔導人形の前で、何が起きたのかも分からず立ち尽くしていた小さな少女。自分の魔術に目を輝かせ、いつか立派な騎士になりたいと笑っていた。
けれど、今の彼女は違う。
かつて自分が守った幼い妹は、もうそこにはいなかった。代わりに目の前にいるのは、自らの意志で危険に立ち向かい、大切な人々を守り抜いた、一人の立派な騎士だった。
「……セシリア」
「はい?」
「立派になったな」
「……え?」
「今日のことだ。お前たちが駆けつけてくれなければ、俺たちはどうなっていたか分からない。本当に助かったよ。ありがとう」
「そ、そんな! 私はただ、自分にできることをしただけです!」
セシリアは慌てたように首を振り、照れくさそうに視線を逸らした。
「それで十分だ。……誰かを守りたいと思って行動できることが、騎士にとって何より大切なことだ」
「……お兄様」
セシリアは感慨深く兄を見つめ、その言葉を噛み締めるようにそっと目を伏せた。そして、嬉しそうに微笑んだ。
「実は、今日……友人に大切なことを教えてもらったんです」
「……大切なこと?」
「はい。守るべき人を助けるだけではなく、自分自身も生きて帰ること。それも、騎士として大切なのだと」
「……そうか。よい友人に恵まれたんだな」
「ええ。本当に」
セシリアは、どこか誇らしげに笑った。
その笑顔に、リオンの胸の奥がじんわりと温かくなった。
あの日、自分の魔術を認めてくれた小さな妹。
今度は自分が、その成長を認める番なのだと、リオンは静かに微笑んだ。




