第五十話 異なる夜が明けるまで 1 sideセシリア
「ああ、今日は本当に疲れたわ……!」
セシリアは両腕を頭上へ大きく伸ばし、凝り固まった肩をほぐしながら呟いた。
ルシアンの護衛騎士を務める彼女にとって、乗馬は慣れたものだった。しかし、そびえ立つ双崖が目の前で崩れ落ちる光景には、さすがに肝を冷やした。
無意識のうちに手綱を強く握り締めていたらしく、今になって肩や腕が悲鳴を上げている。
「いやぁ、今日は大変だったというお話! もう足が棒のようです!」
「あなた、ほとんど馬に乗っていただけでしょう」
隣を歩くエレノアに、セシリアが呆れたように返す。双崖の崩落事件を終えた一行は、聖堂治療院で怪我の手当てを受け、今夜は隣接する孤児院に宿泊することになっていた。
彼女たちは割り当てられた部屋へ向かうため、治療院の長い廊下を歩いているところだった。
「セシリアさん! 通信魔法を維持するのも大変なんですよ!」
「はいはい。よく頑張ったわね」
「なんだか褒め方が雑というお話!」
二人のやり取りに、反対側を歩いていたガルディアスが苦笑を浮かべた。
「だが、エレノアの通信魔法がなければ、俺たちも状況を把握できなかった。助かったよ」
「おおっ! ガルディアスさんは分かっていらっしゃる!」
嬉しそうにエレノアは胸を張った。
「調子に乗らないの」
「セシリアさん、厳しいというお話!」
エレノアは頬を膨らませたものの、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。
「あっ! そういえば、会長にも『時間があれば褒めてあげる』って言われていたんですよ! なのに、まだ褒めてもらっていないというお話!」
「……え? あなた、それを真に受けていたの?」
「もちろんです! 会長が約束を破るなんて思いませんから!」
「ふふっ……そうね。きっと、そのうち褒めてもらえるわよ」
「なんだか含みのある言い方というお話!」
セシリアは堪えきれず、くすくすと笑った。
その笑い声につられるように、ガルディアスの表情も和らぐ。
――不思議なものだ。
つい数時間前まで、自分たちは命の危険と隣り合わせの場所にいた。
崩れ落ちる岩壁と耳をつんざく轟音。頭上から容赦なく降り注ぐ岩塊を避けながら、セシリアはエレノアを庇い、必死に手綱を操り続けた。
恐怖で身体が強張り、何度も絶望が胸をよぎった。
もう、助からないかもしれない。
そう思ったのは、一度や二度ではない。
けれど、そんな絶望的な状況の中でも、ヴィオラとルシアンは決して諦めなかった。
アルヴェインとリリアーナを救い出すため、迫り来る危険を顧みず、懸命に手を伸ばし続けていた。
その姿に、セシリアの胸が熱くなった。
最後の瞬間まで希望を捨てず、運命に抗おうとする二人の姿が、今も瞼の裏に焼きついている。
(……本当に、信じられないわね)
――王族を守ることが使命。
幼い頃から、そう教えられてきた。
セシリアにとって、たとえ自分の命を犠牲にしてでも主君を守ることは、騎士として当然の責務だった。
恐れている場合ではない。
何度も自分を奮い立たせ、降り注ぐ岩塊に立ち向かった。
けれど、今になって思う。
命を懸ける覚悟と、命を諦めない強さは、必ずしも同じではないのだと。
ヴィオラたちは、皆を救うために、自分たちも生き残る未来を掴もうとしていた。だからこそ今、隣にはいつもどおり騒がしいエレノアがいて、ガルディアスも穏やかに笑っている。
誰一人欠けることなく、こうして帰ってこられた。
(……これも、ヴィオラとユノ、それからルシアンのおかげね)
セシリアは胸の内で、そっと感謝した。
「……そういえば、ガルディアス」
ふと思い出し、セシリアは隣を歩くガルディアスへ顔を向けた。
「あなた、サクスム領へ帰る予定だったわよね? 街道が崩れちゃったけど、大丈夫なの?」
「ああ。帰ろうと思えば、ここからでも帰れるんだ」
「え? そうなの?」
「この聖堂治療院の裏手にある山を越えれば、サクスム領へ抜けられる細い山道がある。馬車では通れないし、足場も悪いが歩いて越えられないことはない」
「へぇ……そうだったのね」
「ただ、この騒ぎだ。しばらくはここに留まって、街道の復旧を手伝うつもりだ」
ガルディアスは、何でもないことのように続けた。
「俺の土魔法なら、崩れた岩を動かすのにも役立つだろうからな」
「…………」
セシリアは思わず、ガルディアスの横顔を見つめた。彼にも故郷へ帰る理由があるはずだ。それなのに、目の前で困っている人々のために、迷うことなく自分の力を使おうとしている。
そこまで考えが及ばなかった自分が、少し気恥ずかしくなった。
「……ガルディアス」
「ん?」
「あんたって、本当にいいヤツね!」
照れ隠しのように笑い、セシリアはガルディアスの背中を勢いよく叩いた。かなりの力を込めたつもりだったが、鍛え上げられたガルディアスの身体はびくともしない。
「……ん? どうした、急に」
「別に! 褒めてるのよ!」
「そうか。ありがとう」
ガルディアスは不思議そうに首を傾げたあと、穏やかに笑った。
「でも、俺は十年前の地蝕で受けた恩を、少しでも返したいだけなんだ」
「……恩返し?」
「ああ。あのとき、俺たちを助けてくれた人たちがいた。だから今度は、俺が誰かの力になれたらと思っている」
照れることも、気負うこともなく、ガルディアスはそう言い切った。その真っ直ぐな言葉が、セシリアにはひどく眩しく感じられた。
「……そっか。じゃあ、私も明日は復旧作業を手伝おうかしら。どうせしばらく帰れそうにないものね」
「本当か? それは心強い」
「もちろん。こういうときこそ、騎士の出番でしょう?」
そう胸を張ると、セシリアは隣を歩くエレノアへ視線を向けた。
「……というわけで、エレノア。あなたも当然、手伝うわよね?」
「……え?」
エレノアが、ぴたりと足を止めた。
「まさかというお話! せっかくここまで来たんですよ!? 私には、もっと大切な使命があるというお話!」
「……使命?」
セシリアが眉をひそめる。エレノアは待っていましたとばかりに胸を張った。
「もちろん! 時守一族の村の跡地を探し出すことです! ここまで来て、何の成果もなく帰るなんて、研究者としてあり得ないというお話!」
「…………」
実に清々しいほど、迷いのない宣言だった。
(……この子、どこまで自分の欲望に忠実なのよ)
セシリアは思わず、呆れたように天を仰いだ。
当の本人はというと、悪びれるどころか実に堂々としたものだった。自分の主張に一点の疑いも抱いていないらしく、その表情には妙な自信さえ漂っている。
(……ここまで自分の欲望に忠実になれるなんて、ある意味才能よね)
もはや何も言い返す気になれず、セシリアは感心とも諦めともつかない溜息を零した。
――ぽうっ…
「……ん?」
不意に、エレノアの胸元で淡い光が瞬いた。
首から下げていた小さな首飾りが、薄暗い廊下の中で青白い輝きを放ち始めたのだ。
「……エレノア?」
セシリアの視線が、首飾りへと吸い寄せられる。エレノアもまた、胸元へ視線を落とした。
「……ああ。天星魔導研究院からの通信ですよ」
先ほどまでの高揚した表情が、途端に曇った。
彼女は露骨に肩を落とすと、首飾りを手に取り、中央に嵌め込まれた青い魔石へ指先を添えた。
「……こちら、エレノアです」
『エレノア様。今、どちらにいらっしゃるのですか?』
魔石から、若い男性の声が響いた。どうやら研究院の職員らしい。
「アルベリヒ叔父様の治療院です」
『……リュウール聖堂治療院ですね』
「はい」
『承知しました。院長にはこちらから報告しておきます。くれぐれも、危険な場所には近づかないようにしてください』
「……分かりました」
事務的な返事をエレノアがすると、魔石の光はゆっくりと弱まり、やがて消えた。
何事もなかったかのように首飾りを胸元へ戻す姿を見て、セシリアはふと疑問を口にした。
「……ねえ、エレノア。さっき、アルベリヒ院長のことを『叔父様』って呼んでいたわよね?」
「はい?」
「どういうこと? もしかして、親戚なの?」
「ああ、そのことですか。アルベリヒ様は、お父様の双子の弟なんですよ」
「……えっ!?」
セシリアは思わず足を止めた。
「二卵性の双子なので、お顔はあまり似ていないんですけどねぇ。でも、お名前はそっくりなんですよ。アルベルトとアルベリヒ。ややこしいというお話!」
「確かに、名前は似ているけれど……」
呆気に取られながらもセシリアは頷いた。まさか、あの二人が双子の兄弟だったとは。
「……でも、アルベリヒ院長は一言もそんなことを仰らなかったわね」
セシリアは首を傾げた。エレノアは一瞬だけ目を伏せ、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「ええ。アルベリヒ様は、きっと私には気づかないでしょうから」
「……え?」
セシリアは思わず聞き返した。
「どういうこと? あなた、姪なんでしょう?」
「……それは秘密です」
エレノアは、唇に人差し指を当てた。いつものように冗談めかした仕草だ。しかし、その瞳にはどこか真剣な色が宿っていた。
(……どういうこと?)
セシリアは戸惑った。
双子の弟であるアルベリヒが、兄の娘であるエレノアに気づかない。それも、本人は当然のことのように話している。
何か事情があるのだろうか。
そう思ったものの、これ以上踏み込んでよいものか迷っていると、隣でガルディアスが小さく咳払いをした。
「……しかし、居場所を確認するためにわざわざ通信が入るなんて、エレノアは家族にずいぶん大切にされているんだな」
「……はい?」
エレノアが、きょとんと目を瞬かせた。
「大切に……ですか?」
「ああ。お父上も、君のことが心配なんだろう」
ガルディアスが穏やかに微笑む。しかし、エレノアは小さく首を振った。
「……違いますよ、ガルディアスさん」
「……ん?」
「監視されているんです」
「…………は?」
あまりにもあっさりと告げられた言葉に、セシリアとガルディアスの表情が固まった。
「か、監視……?」
「ええ。お父様は、私に愛情なんてありませんから」
「……え?」
「お父様にとって、私はただの研究対象でしかないんです」
「…………」
エレノアは、まるで何でもないことのように言い放った。その口調はあまりにも淡々としていて、そこに悲しみや怒りといった感情は感じられなかった。
しかし、セシリアには妙に引っかかるものがあった。いつもなら冗談めかして笑い飛ばすはずのエレノアが、今は笑っていない。
胸元の首飾りに視線を落としたまま、静かに佇んでいる。
「……エレノア、それって……」
思わず問いかけたセシリアだったが、途中で言葉を失った。
エレノアが、ふっと寂しげに微笑んだからだ。
それは、普段の天真爛漫な彼女からは想像もつかないほど、儚い笑みだった。まるで、とうの昔に何かを諦めてしまったかのような。
(……エレノア……?)
セシリアは、それ以上踏み込むことができなかった。隣にいたガルディアスも、何かを言いかけて口を閉ざす。
先ほどまで賑やかだった廊下に、気まずい沈黙が流れた。
――そのときだった。
「――セシリア?」
不意に背後から聞き覚えのある声がして、セシリアは足を止めた。
「……え?」
振り返ると、廊下の向こうから一人の青年がこちらへ歩いてくるところだった。
王国騎士団の制服を隙なく着こなし、腰には騎士剣を佩いている。端正な顔立ちに、意志の強さを感じさせる凛々しい眼差し。その面差しには、セシリアとどこか似通ったものがあった。
青年はセシリアの姿を認めると、驚いたように目を見開き、足早に近づいてきた。
「……お兄様!?」
セシリアは思わず声を上げた。まさか、こんなところで会うとは思ってもみなかった。
「ああ、やっぱりセシリアか」
青年は彼女の前で足を止めると、ほっとしたように表情を緩めた。
「無事だったんだな。……よかった」
その声には、妹の無事を確かめた安堵が滲んでいた。
セシリアの目の前に現れたのは、王太子アルヴェインの護衛騎士を務める実の兄――リオン・ローズマリーだった。




