第四十九話 聖堂治療院の夜
夕闇が辺りを包む。
双崖の崩落事件を受け、リュウール聖堂治療院は騒然としていた。
リュウール領の中心街と聖堂治療院を結ぶ道は、双崖の試練の道しかない。そのため、崩落によって街道が寸断され、帰路に着けなくなった参拝者たちが大勢取り残されていた。
さらに、崩落に巻き込まれた王太子一行も聖堂治療院へ搬送され、負傷した護衛騎士たちの治療が急ピッチで進められていた。
「担架をこちらへ! 重傷者を優先してください!」
「治癒魔術師をもう二人、お願いします!」
「参拝者の方々は、こちらの礼拝堂でお待ちください!」
廊下には慌ただしい足音が響き、白衣を纏った治癒魔術師や聖堂の職員たちが忙しなく行き交っている。
普段は静謐な祈りの場である聖堂も、今夜ばかりは臨時の救護施設と化していた。
「院長! 西棟の病室がすべて埋まりました!」
「では、東棟の空き部屋を開放してください。軽傷の方は大広間へ。治療が済んだ方々には温かい食事と毛布を用意しましょう」
院長アルベリヒは、次々と届けられる報告に落ち着いた声で指示を返していた。
「それから、帰れなくなった参拝者の方々にも宿泊場所を確保してください。今夜は誰一人、外で夜を明かすことのないように」
「承知しました!」
職員が足早に駆け出していく。
その背中を見送ったアルベリヒは、小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。遠くに見える双崖は、夕闇の中で黒々とした影を落としている。
「……まさか、あれほどの崩落で死者が一人も出なかったとは。奇跡としか言いようがありませんね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いたときだった。
「……アルベリヒ様」
背後から、控えめな声が聞こえた。振り返ると、そこには黒縁眼鏡を掛け、唐茶色の長い前髪で顔を隠した少女が立っていた。
「おや、リュウール伯爵令嬢ではありませんか」
アルベリヒは穏やかに微笑んだ。
「お疲れでしょうに、どうなさいました?」
「あの……お借りした馬のことなのですが……」
ヴィオラは申し訳なさそうに俯いた。
「双崖の崩落で混乱してしまって……お借りした馬を見失ってしまいました。大切な馬をお貸しいただいたのに、申し訳ありません」
「ああ、そのことでしたか。ご心配には及びませんよ。あの馬たちは、たとえ乗り手とはぐれても、自分で戻ってこられるように訓練されていますから」
「……そうなのですか?」
「ええ。もう厩舎に戻っているかもしれませんね」
「……よかったです」
ヴィオラは胸を撫で下ろし、はにかむように微笑んだ。
その笑顔を見つめながら、アルベリヒはふと、彼女がここを訪ねてきた本当の理由を考えた。わざわざこの混乱の中、自分を訪ねてきた理由が、本当に馬のことだけなのだろうか。目の前の少女は、何かを言いかけては躊躇うように、指先を胸元で重ねている。
(……なるほど)
アルベリヒは、そっと目を細めた。彼女はきっと、気にしているのだろう。自分の秘密を、どこまで知られてしまったのか。そして、それを知った自分がどうするつもりなのかを。
アルベリヒが、どのように声をかけようかと思案していたときだった。
「あの……アルベリヒ様」
「はい?」
「私の言葉を信じてくださって……ありがとうございました」
ヴィオラは真っ直ぐに顔を上げた。黒縁眼鏡の奥から向けられる、真摯な眼差しがアルベリヒを捉えていた。
「私が見た未来のことを、疑わずに聞いてくださったから……皆さんを助けに行くことができました。お陰で未来を変えることができました。本当にありがとうございます」
そう言って、ヴィオラは深く頭を下げた。
「…………」
アルベリヒは、一瞬言葉を失った。
てっきり、秘密を知られたことへの不安を口にするのだと思っていた。だが、この少女が真っ先に伝えたのは、自分への感謝だった。
(……本当に、貴女たちには敵いませんね)
アルベリヒは小さく笑みを零した。
「……ヴィオラ様」
「はい?」
「貴女は、お父上によく似ていらっしゃいますね」
「……え?」
ヴィオラが目を瞬かせた。
「お父様……ですか?」
「ええ。貴女の本当のお父上のことです」
「……っ! アルベリヒ様は……私の父をご存じなのですか?」
「もちろんですとも」
アルベリヒは懐かしそうに目を細め、夜の帳が下りた窓の向こうへ視線を向けた。窓の外では昼間の喧騒が嘘のように、夜空に浮かぶ星々が静かに瞬いていた。
「……現在のリュウール伯爵の兄君にあたるお方です。とても優秀な魔術師でいらっしゃいましたよ」
「……そう、なのですね」
「ええ。ただ、普段は少々気弱なところがありましてね。人前に出ることも、あまり得意ではありませんでした」
アルベリヒは、ふっと笑った。
「ですが、いざというときには決して自分の信念を曲げない。穏やかでありながら、誰よりも芯の強いお方でした」
ヴィオラの実父は、リュウール伯爵家の長男であり、十年前サクスム子爵領で発生した地蝕の調査中に命を落とした魔術師だった。
その人についてヴィオラが知っていることは、決して多くなかった。自分の知らない、父の話。記憶の中にほとんど残っていないその人が、アルベリヒの言葉によって、少しずつ輪郭を持ちはじめる。
「……だからこそ、バーベナ様のお心を射止めることができたのでしょうね」
「……!! お母様を知っているのですか?」
「ええ。お二人は、本当に仲睦まじいご夫婦でしたよ」
「……っ」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
会いたい。もう一度、声が聞きたい。
そんな叶わぬ願いが、ふと胸をよぎる。俯いたヴィオラの姿を見つめ、アルベリヒは優しく微笑んだ。
「……ヴィオラ様」
そっと歩み寄り、静かな声で告げる。
「貴女は、バーベナ様の娘であると同時に、リュウール伯爵家の長男が遺した、大切な娘でもあるのですよ」
「…………」
「どうか、そのことを忘れないでください」
ヴィオラは、ゆっくりと顔を上げた。黒縁眼鏡の奥で、瞳が潤んでいる。
「……はい。ありがとうございます……アルベリヒ様」
その声は、僅かに震えている。アルベリヒは、それ以上何も言わなかった。ただ、穏やかな笑みを浮かべていただけだった。その優しさが、ヴィオラの胸に染みた。
「客間をご用意しております。今日はもう、ゆっくりお休みください」
「……はい」
「貴女も今日は、十分に頑張られましたからね」
その言葉に、ヴィオラはもう一度、深く頭を下げた。アルベリヒは静かに踵を返し、奥の治療棟へと歩いていった。
残されたヴィオラは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(……お父様)
胸の奥に、温かなものが広がっていく。
今まで知らなかった父の人柄。母と過ごした日々。ほんの僅かな話だったけれど、それだけで、遠い記憶の中にいる父が少しだけ身近に感じられた。
「……よかった」
小さく呟き、ヴィオラは客間へ向かおうと一歩踏み出した。
その瞬間だった。
「……っ!」
ぐらり、と視界が揺れた。足元の石床が、突然傾いたように感じる。
(……あれ?)
咄嗟に壁へ手を伸ばそうとする。しかし、指先に力が入らない。全身から血の気が引いていくような感覚に、ヴィオラは思わず息を呑んだ。
(……魔力、切れ……?)
思い当たる理由は、一つしかなかった。
双崖の崩落で、ヴィオラは限界を超えて《停止》の魔法を使い続けていた。未来視による負担も、決して小さくない。むしろ、ここまで意識を保っていられたことの方が不思議なくらいだった。
(……まずい……)
膝からゆっくりと力が抜けていく。身体が傾き、床がみるみる近づいてくる。
――倒れる。そう思った瞬間だった。
「ヴィオラ!」
聞き慣れた声が耳に届いた次の瞬間、倒れかけた身体を力強い腕が抱き留めた。
「……っ!」
不意に引き寄せられ、ヴィオラは小さく息を呑む。
頬に触れる柔らかな衣服と、身体を包み込む温もり。すぐ近くから伝わる鼓動に、朦朧としていた意識が僅かに引き戻された。
「……大丈夫かい?」
頭上から降ってきたのは、心配そうな響きを帯びた優しい声だった。ゆっくりと顔を上げると、澄んだ瞳がこちらを覗き込んでいる。
「……会長……?」
その姿を認めた途端、張り詰めていた緊張がふっと緩んだ。
「まったく……」
ルシアンは安堵したように息を吐いた。けれど、その眉は心配そうに寄せられている。
「少し目を離しただけで、こんなことになるなんて」
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
彼はそう言って、ヴィオラの身体を支え直した。
「ただ、もう少し自分を大切にしてほしいな」
「……はい」
ヴィオラは素直に頷いた。その様子を見たルシアンが、ふっと表情を和らげる。
「……顔色が悪い。魔力を使いすぎたんだね?」
「……少しだけ、無理をしてしまったみたいです」
「少し、ね」
ルシアンは困ったように笑った。
「君の『少し』は、あまり信用できないな」
「……うっ」
言い返せずに俯くヴィオラを見て、ルシアンは小さく息を漏らした。そして、彼女の額に掛かった前髪を、そっと指先で払う。
「……でも、無事でよかった」
「……会長?」
「双崖で君がリリアーナ嬢の元に駆け寄った時、本当に肝が冷えた。君を失うんじゃないかと思って、とても怖かった」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「君が誰かを助けたいと思う気持ちは、よく分かっている。だけど……」
ルシアンは、ヴィオラを抱き留める腕に僅かに力を込めた。
「私は、君にも無事でいてほしい。どうか守るべき人たちの中に、自分自身も入れてほしいんだ」
「…………」
「君がいなくなってしまったら、私はきっと平気ではいられないから」
苦しげに揺れるその瞳に、ヴィオラの胸がどくんと跳ねた。
顔が熱い。魔力切れで朦朧としていたはずなのに、彼の言葉だけは不思議なほど鮮明に耳へ届く。
「……あの、会長」
「うん?」
「……ありがとうございます」
ヴィオラは、彼の衣服をそっと掴んだ。
「私のことを……そんなふうに心配してくださって」
ルシアンは、一瞬だけ目を見開いた。そして、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「……当然だよ」
彼の指先が、ヴィオラの頬にそっと触れる。
「君は、私の大切な人なんだから」
「……っ!」
ヴィオラは、耳まで熱くなるのを感じた。その反応を見て、ルシアンは小さく笑う。
その次の瞬間。
「……きゃっ!」
ふわりと身体が浮いた。
気づけば、ヴィオラはルシアンの腕に横抱きにされていた。
「か、会長!?」
「客間まで運ぶよ」
「い、いえ! そこまでしていただかなくても……!」
「駄目」
ルシアンは、にっこりと微笑んだ。
「さっき倒れかけたばかりだろう?」
「……ですが、皆さんが見ています……!」
ヴィオラは慌てて周囲を見回した。行き交う聖堂の職員たちが、驚いたようにこちらを見ている。恥ずかしさのあまり、ヴィオラは思わずルシアンの胸元に顔を埋めた。
「ふふ。そうだね。でも、今だけは許してほしいな」
ルシアンは楽しそうに笑うと、ヴィオラを抱きかかえたまま、ゆっくりと歩き出した。
胸元から伝わる、規則正しい鼓動。
包み込むような温もり。
ヴィオラは、ルシアンの胸元に顔を埋めたまま、そっと目を閉じた。
(……なんだか、安心する)
魔力切れで重くなった身体が、少しずつ温もりに溶けていくようだった。しばらくその温かさに身体を預けていると、ルシアンの足が止まった。
「……ここだね」
顔を上げると、目の前には客間の扉があった。ルシアンが扉を開けようとした、そのときだった。
「――あらあら、まあまあ〜」
不意に、扉が内側から開いた。
「……え?」
現れたのは、見慣れた侍女服を纏った少女だった。少女はヴィオラとルシアンを交互に見つめると、口元に手を当てて、楽しそうに目を細めた。
「まあまあ、ヴィオラさま〜。これはまた、随分と仲睦まじいご様子で〜」
「……ラ、ラン!?」
ヴィオラは思わず声を上げた。
「ヴィオラさまをわざわざお部屋までお運びくださるなんて。殿下は本当にお優しいのですねぇ〜」
「……っ! ち、違うの! これは、その……!」
ランはにこにこと微笑んでいる。その含みのある笑顔に、ヴィオラの頬がますます熱くなった。
「……ラン!」
「ふふふ。ヴィオラさまは相変わらず、可愛らしいですねぇ〜」
ルシアンは二人のやり取りを眺めながら、小さく笑った。
「君がランだね。ヴィオラから話は聞いているよ」
「まあ、それは光栄でございます」
「ヴィオラは魔力を使いすぎたようでね。少し休ませたいんだ」
「あらあら。それはいけません」
ランはヴィオラの顔色を確かめると、すぐに表情を和らげた。
「殿下、どうぞ中へ。寝台までお運びいただけますか?」
「もちろん」
「……あ、あの、ラン! 私、自分で歩けるから……!」
「まあまあ、お嬢様。そんなお顔で何をおっしゃってるんですか〜。ルシアン殿下のご厚意に甘えて、今日はゆっくりお休みください〜」
「……うぅ」
反論する気力もなく、ヴィオラは小さく俯いた。ルシアンはそのまま客間へ入り、奥に置かれた寝台へヴィオラをそっと横たえた。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
ルシアンは寝台の傍に膝をつき、ヴィオラの顔を覗き込んだ。
「今夜はもう、無理をしないこと。いいね?」
「……はい」
「約束だよ」
念を押され、ヴィオラはこくりと頷いた。
その様子を見ていたランが、またしても口元を綻ばせる。
「あらあら。殿下は随分とお嬢様のことを大切にしてくださっているのですねぇ〜」
「……ラン!」
「ふふ。いいことじゃないですか」
ルシアンは微笑みながら立ち上がった。
「それじゃあ、ヴィオラを頼むよ」
「はい。どうぞご安心ください〜」
ランの右眉が微かに上がり、丁寧に頭を下げる。ルシアンはもう一度ヴィオラへ視線を向けた。
「おやすみ、ヴィオラ」
「……おやすみなさい、会長」
柔らかな笑みを残し、ルシアンは客間を後にした。扉が静かに閉まる。途端に、ランがくすくすと笑い始めた。
「……ふふふ」
「……ラン?」
「いえいえ。お嬢様も、随分と殿下と親しくなられたのですねぇ〜」
「……そ、そんなこと……!」
「あら。お顔が真っ赤です〜」
「……もう!」
ヴィオラは思わず掛布を引き上げ、顔を隠した。そんな主人の姿を、ランは楽しそうに眺めていた。
「それより、ラン! どうしてここにいるの? ユリアにベランダから落ちて怪我をしたって聞いたけど……大丈夫なの?」
「ああ、そのことですか〜」
ランは何でもないことのように微笑んだ。
「怪我を治していただこうと思って、こちらへ来たんですよ〜。治療が終わって帰ろうとしたら、突然崖が崩れたものですから。もう、びっくりしました〜」
「……そうだったのね」
ヴィオラは小さく頷いた。けれど、胸の奥に僅かな疑問が残った。
怪我をしていたはずのランが、どうしてあれほど自在に風の魔術を操れたのだろう。それに、崖の上でザイデルバストが見せた、あの表情は――。
「……ヴィオラさま?」
「あ……ううん。何でもないわ」
「ご心配をおかけしました。さあ、ヴィオラさまもお疲れでしょう? 温かいお茶を淹れますね」
ランは手際よく茶器を用意すると、湯気の立つ茶杯を差し出した。
「ありがとう、ラン」
ヴィオラは茶杯を受け取り、そっと口をつけた。じんわりと身体に染み渡る、優しい甘さ。
けれど、その奥に僅かな苦味が残った。
(……あれ?)
いつものランのお茶とは、少し違う。
「……何か、変わった茶葉を使ったの?」
「ええ。疲れた身体によいお茶なんですよぉ〜」
「……そうなのね」
ヴィオラはもう一口、お茶を飲んだ。
ランはそんな主人の様子を、いつもと変わらぬ穏やかな笑みで見つめていた。




