閑話 時守の痕跡
――アウレア魔法学園。
ヴァンヴェール王国において、魔力を持つすべての子供たちが、十五歳から三年間通うことを義務づけられている王立の魔法学園だ。
普段なら、生徒たちの賑やかな声が響き渡る昼下がり。しかし、今日の学園は不気味なほど静まり返っていた。
広大な中庭には、穏やかな初夏の日差しが降り注いでいる。新緑の木々がそよ風に揺れ、葉の隙間から零れ落ちた陽光が、石畳の上にきらきらと光の模様を描いていた。
木陰で談笑する生徒も、噴水の傍で昼食を楽しむ生徒も、今はどこにもいない。
地蝕の発生を受け、アウレア魔法学園には当面の休校措置が取られていた。生徒たちはすでに帰宅し、寮に暮らしていた者たちも一時的に退去している。学園内への立ち入りも厳しく制限され、かつての賑わいはすっかり失われていた。
風が吹くたび、木々の葉がさらさらと音を立てる。まるで、学園そのものが深い眠りについてしまったかのようだった。
――ただし、学園の裏庭だけは別だった。
「観測魔石のデータを集積しろ!」
「こちらに魔力反応があります!」
「記録を取れ! 些細な変化も見逃すな!」
飛び交う指示と、慌ただしく行き交う人影。裏庭にはいくつもの観測魔石や魔導器具が設置され、調査員たちが休む間もなく魔力の測定と記録を続けていた。
静まり返った学園の中で、そこだけが異様な熱気と緊張感に包まれている。王国各地から集められた精鋭たちで構成された、地蝕調査団。彼らは今、この学園で起きた不可解な異変の原因を突き止めようとしていた。
そんな裏庭の一角に、いくつもの天幕が設けられていた。
「ルミナス院長。原因調査の進展はいかがですか?」
天幕の一つに入ってきたのは、王国騎士団長ガイアス・ローズマリーだった。
調査団の指揮を執る彼は、中央に置かれた大きなテーブルへと視線を向ける。そこには、純白の法衣を纏い、金縁の片眼鏡を掛けた初老の紳士がいた。
王立天星魔導研究院院長――アルベルト・ルミナス。
彼はテーブルいっぱいに広げられた資料を、食い入るように眺めていた。
「ふむ。ガイアス殿、ちょうど良いところに来たのぉ。今しがた、実に興味深いデータが集まったところじゃ」
顔を上げると、分厚い資料の束を差し出した。そこには、観測魔石によって記録された膨大な数値と、複雑な魔力波形がびっしりと書き込まれている。
「……私には、ただの数字の羅列にしか見えませんが」
「ほっほっほ。そうじゃろうな。では、こちらを見てくだされ」
アルベルトは資料から一枚の記録紙を抜き出し、ガイアスの前へ広げた。
「これは地蝕発生直後の魔力波形じゃ。通常、地蝕ほど大規模な異常が発生した場所には、膨大な魔力の残滓が残る」
細く節くれ立った指が、波形の一部分を示す。
「ところが、今回の観測では、それがほとんど確認されておらん」
「……地蝕が早期に収束したからではないのですか?」
「無論、その可能性も考えられる。じゃが、不可解なのはそこではない。魔力が消失する直前、乱れていた魔力の流れが、ある一点を中心に整えられた形跡があるんじゃ」
「整えられた……?」
「うむ。自然に収束したというには、あまりにも規則正しい。まるで、何者かが意図的に魔力の流れへ干渉したかのようにな」
「何者かが……地蝕に介入したということですか?」
「その可能性がある、ということじゃ」
アルベルトの瞳に、子供のような好奇心が宿った。
「そこでじゃ。天星魔導を使って、さらに詳しく調べてみようと思っておる」
「天星魔導……。通常の魔術では解析できないのですか?」
「ほっほっほ。そこが天星魔導の興味深いところじゃ」
アルベルトは楽しげに笑った。
「通常の魔術は、術者の魔力を炎や水、風といった現象へ変換するものじゃ。対して天星魔導は、星々の運行と天体に流れる魔力の法則を術式に組み込み、魔力の流れや空間の異常を観測・解析する魔導技術なのじゃよ」
「……つまり?」
「簡単に言えば、通常の観測では捉えられぬ痕跡を、星の運行から導き出した理論値と照らし合わせて探し出す、ということじゃ」
「理論値……ですか」
「うむ。魔力が消えたとしても、その前後に何が起きたかを推測することはできる。たとえば、流れていた川の水が突然消えたとしよう。水そのものがなくなっても、川底に残った痕跡を調べれば、どのように流れていたかは分かるじゃろう?」
「……なるほど」
「魔力も同じじゃ。問題は、その痕跡が通常の観測では捉えられぬほど微細であることじゃがな」
そう言って、アルベルトはテーブルの上に置かれた魔導器具へ手を伸ばした。星を象った銀色の円環が幾重にも重なった、不思議な形状の装置だった。
その傍らには、複雑な曲線が描かれた記録紙が置かれている。
「ほれ、これを見るとよい。地蝕の発生から収束までに、本来生じるはずだった魔力の変化を、天星魔導の理論に基づいて算出したものじゃ。そして、こちらが実際の観測結果じゃ。二つを重ねてみると……」
「……一部分だけ、波形が途切れていますね」
「そう。しかも、ただ魔力が失われたのではない。前後の波形が、不自然なほど滑らかに繋がっておる」
アルベルトは、途切れた部分を指先でなぞった。
「まるで、その間に起きた異常そのものが、なかったことにされたかのようにな」
「……その原因を調べるのですか?」
「うむ。魔力が消えた瞬間に、どのような干渉が加えられたのか。それを術式の残響から復元する」
「そんなことが可能なのですか?」
「理論上はな。もっとも、膨大な計算と精密な観測が必要じゃが……」
アルベルトは、悪戯を思いついた子供のように笑った。
「難しいからこそ、研究する価値があるという興味深さ!」
そう言って、魔導器具の中央に青白い魔石を嵌め込んだ。
「天星魔導――星辰残響解析」
――ウゥン……。
低い駆動音とともに、銀色の円環がゆっくりと回転を始めた。異なる方向へ回転する円環の内側に、青白い光が集まっていく。
やがて装置の上空に幾重もの魔法陣が浮かび上がり、その中心に一本の細い光の線が現れた。
「……これは?」
ガイアスが目を細める。光の線がゆるやかな円を描き、その内側に幾何学的な紋様が次々と浮かび上がっていく。
幾重にも連なる円環。その中心から四方へ伸び、複雑に交差する無数の魔導線。まるで異なる時を刻む幾つもの時計が、一つに重なり合ったかのような、不思議な紋様だった。
「……ほう?」
アルベルトが身を乗り出した。
「これは……実に興味深い」
「何か分かったのですか?」
「いやはや、驚いた。現代の魔導理論では説明のつかない構造じゃ。しかも、この術式……魔力が通常とは逆方向に循環するよう組まれておる」
「逆方向?」
「うむ。一般的な術式が魔力を外へ放出して現象を引き起こすのに対し、これは周囲に生じた変化を中心へ収束させる構造になっておる」
アルベルトの指が、宙に浮かぶ紋様をなぞった。
「まるで、乱された時間の流れを元に戻そうとするかのような……まさか」
「ルミナス院長?」
「ガイアス殿。貴殿は、時守の一族をご存じかな?」
「時守……? 確か七年前に謀反を図り、粛清された、時間を操る一族のことですか?」
「その通りじゃ」
アルベルトは興奮した様子で頷いた。
「記録によれば、時守の一族は時間の流れそのものに干渉する特殊な術式を扱っていたとされておる。それを悪用し、王家から抹消された。しかし、その術式の詳細は謎に包まれており、現存する記録にも、わずかな特徴が記されているに過ぎん」
「……それが、今回の地蝕と何か関係が?」
「大いにあるとも!」
アルベルトは空中に浮かぶ魔法陣を指差した。
「この術式は、地蝕を引き起こしたものではない。むしろ逆……乱された時間の流れを、本来の状態へ戻そうとしていた可能性がある」
「……つまり、何者かが地蝕を鎮めたと?」
「その可能性が高い。そして、どの記録にも残っていない術式が使われているとは、実に興味深い!」
アルベルトは顎に手を当て、何かを思い出すように目を細めた。
「そういえば、第二王子殿下のお話では、リュウール伯爵家の令息と令嬢が地蝕の収束に力を貸したそうじゃな?」
「……ええ。そのように報告を受けています。ただ、学園の生徒会メンバーも居合わせたそうです」
ガイアスの表情が険しくなった。その表情とは対照的にアルベルトは楽しげに笑った。
「未知の術式が、地蝕が起こった地点で現れた。そして、それにリュウール伯爵家と生徒会の生徒諸君が関わっているという興味深さ!」
「……その術式を使った者が、居合わせた生徒たちの中にいるということですか?」
「うむ。少なくとも、地蝕が収束した際、この場所に時間へ干渉できる何者かがいたことになる。その者が時守の一族の生き残りであるならば……実に興味深い話じゃな」
ガイアスは腕を組んだ。地蝕の発生。学園地下で発見された謎の施設。そして、滅びたはずの時守の術式。偶然にしては、あまりにも不可解な出来事が重なっている。
「……ルミナス院長。この件は、まだ公にはしないでいただきたい」
「ほう?」
「調査が進むまでは、情報を慎重に扱う必要があります。特に、時守の生き残りが存在するなどという話が広まれば、どのような騒ぎになるか分かりません」
「なるほど。騎士団長らしい判断じゃな」
アルベルトは素直に頷いた。
「では、まずはヴァイセルク・リュウール魔術師団長に、この術式を見てもらうとしよう。あの御仁ならば、何か分かるやもしれん」
「リュウール伯爵に?」
「うむ。宮廷魔術師団長であると同時に、古代魔導にも造詣が深い。ぜひとも意見を聞いてみたいという興味深さ!」
「……分かりました。こちらから連絡を取りましょう」
ガイアスがそう答えた、その時だった。
「団長! 緊急のご報告です!」
テントの入口から、一人の騎士が駆け込んできた。
「何事だ。騒々しい」
「はっ! 地下施設で保護した少女が、医務室から姿を消しました!」
「……何? 詳しく話せ」
「先ほど、聖堂治療院から派遣された治療師が確認したところ、寝台が空になっておりました。廊下には見張りを配置しておりましたが、誰も少女が出ていくところを見ておりません」
「窓は?」
「施錠されたままです。争った形跡もありません」
「……妙だな」
ガイアスは険しい表情を浮かべた。
「確か、その少女は……ランと名乗っていたな」
「はっ!」
「怪我を負っていたはずだ。自力で動ける状態だったのか?」
「いえ。医療担当者によれば、まだ安静が必要な状態だったとのことです」
怪我を負った少女が、見張りに気づかれることもなく、忽然と姿を消した。それも、地蝕の原因を調査している最中に。
「ほっほっほ。こちらもまた、不可解な出来事という興味深さ」
「院長。今は笑い事ではありません」
「おっと、これは失礼」
ガイアスは騎士へ向き直った。
「直ちに学園内を捜索しろ。各出入口の警備を強化し、少女を発見した場合は速やかに報告せよ」
「はっ!」
「ただし、少女は保護対象だ。決して乱暴な真似はするな」
「承知しました!」
騎士が慌ただしく駆け出していく。その姿を眺めながら、ガイアスは深く息を吐いた。
「……次から次へと」
眉間に深い皺を寄せ、こめかみを押さえる。
「地下施設について、あの少女から詳しい話を聞こうと思っていたのですが……まさか姿を消すとは」
「ほっほっほ。謎が多いからこそ、解明する楽しみがあるという興味深さじゃ」
「……院長には敵いませんな」
ガイアスは呆れたように首を振った。
「では、私は急ぎヴァイセルク魔術師団長に連絡を取ります。現在は体調不良のため休暇を取っておりますが、リュウール伯爵家の令息と令嬢に関わる事実が見つかったと伝えれば、奴のことです。文字どおり飛んでくるでしょう」
「ほっほっほ。それは楽しみじゃな」
「こちらの調査は、引き続きお願いします」
「承知した。これほど興味深い研究対象に巡り合えるとは、研究者冥利に尽きるわい」
苦笑を浮かべ、ガイアスは天幕をまくり上げた。その姿が天幕の外へ消えるまで、アルベルトは穏やかな笑みを浮かべていた。
「……さて」
ガイアスの足音が遠ざかると、アルベルトは静かに研究員を呼び寄せた。
「至急、エレノアの現在地を調べてくれんか」
「エレノア様の、ですか?」
「うむ。できるだけ正確にな。居場所が分かり次第、わしにだけ報告するのじゃ」
「……承知しました」
研究員は一礼すると、足早にテントを出ていった。
再び静寂が訪れる。アルベルトは、テーブルの上に浮かび上がった術式へ視線を戻した。青白い光が、幾重にも重なった魔導線を照らし出している。
「……間違いない」
先ほどまでの陽気な声とは、どこか違っていた。
「これは、時守の術式じゃ」
細い指先が、光の紋様をそっとなぞる。
「現代の魔導理論では説明のつかぬ構造……。これほど精巧に時間へ干渉する術式など、ほかに考えられん」
アルベルトの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「ほっほっほ……ようやく、見つけたわい」
その瞳に浮かんでいるのは、先ほどまでの純粋な好奇心とは異なる光だった。
「エレノア……」
愛おしむように、その名を呟く。
「お前の傍には、必ず時守の一族がいるはずじゃ」
銀色の円環が、静かに回転を続ける。
「……そうなるように、仕組んでおいたのじゃからな」
青白い光が、アルベルトの片眼鏡を照らした。その奥の瞳には、もはや笑みなど浮かんでいなかった。




