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第四十八話 双崖崩落救出作戦 6

長かった救出作戦も今日で終わります。

「リリアーナ先生……!!」


 ――ピシッ。


 静止した灰色の世界に、亀裂が走るような音が響いた。


「……っ!」


 《停止(フェルマータ)》が、限界を迎えようとしている。


 左右には、今にも崩れ落ちそうな断崖が聳え立っていた。無数の岩塊が宙に留まり、まるで巨大な獣が獲物へ襲いかかる、その一瞬を切り取ったかのようだった。


 もう、一刻の猶予もない。


 灰色に染まった世界が色彩を取り戻せば、宙に留まっている岩も、止まっていた崩落も、すべてが再び動き出す。


 その前に――リリアーナを助けなければならない。


 ヴィオラは、ぎゅっと唇を噛み締めた。微かな痛みが、遠のきかけた意識を辛うじて繋ぎ止める。


(……間に合って!)


 違う。祈っているだけでは、何も変わらない。


(絶対に――間に合わせる!!)


 魔力を使い果たしかけた身体は重く、足にもほとんど力が入らない。それでもヴィオラは震える足を踏みしめ、力の限り地面を蹴った。


「そうはさせない――束縛(レガート)」


「……っ!?」


 背後からレグルスの声が響いた。その瞬間、ヴィオラの手首に、淡い白銀の光が絡みついた。


「きゃっ……!」


 何かに身体が後ろへ強く引かれる。踏み出した足が地面を滑り、ヴィオラは体勢を大きく崩した。視線を移すと、手首には魔力で形作られた白銀の鎖が巻きついている。


 その先を目で追い――絶望した。


 鎖は、リリアーナたちが乗ってきた馬車へと繋がっていた。


(レグルス先生の――束縛(レガート)の魔術……!)


 見間違えるはずがない。幼い頃、レグルスから教わった魔術の一つだった。


 《束縛(レガート)》は、二つの対象を魔力の鎖で結びつけ、その距離と動きを制限する魔術だ。繋ぐ先を容易に動かせないものに設定すれば、相手の自由を奪うことができる。


「くっ……!」


 ヴィオラは必死に前へ踏み出した。しかし、鎖が張り詰めた途端、手首を強く引き戻される。


(動けない……!)


 馬車が、そのままヴィオラを繋ぎ止める枷となっていた。しかも、レグルスが放った鎖は、止まった世界の中でも淡い光を放ち続けていた。この灰色の世界で、彼だけが自由に魔術を行使していた。


「諦めろ。結末は変わらない。じきに停止(フェルマータ)も解ける」


「嫌です!彼女を…リリアーナ先生を死なせてはいけないんです!!」


 ヴィオラの瞳から、涙が溢れた。


 未来視は、ただ未来の光景を映し出すだけではない。その未来で生じる感情も、痛みも、想いさえも――まるで自分自身のもののように流れ込んでくる。


 正直なところ、ヴィオラはアルヴェインのことをよく知らない。


 けれど、忘れられなかった。未来視で感じた、あの絶望を。リリアーナを失った瞬間、アルヴェインの心を引き裂いた、あまりにも深い悲しみを。


 ――彼女が助からないのなら、もう何もいらない。たとえ、この世界のすべてが失われようとも構わない。


 それほどまでに、激しい感情だった。


(……駄目よ)


 あの未来だけは、現実にしてはいけない。リリアーナの命を救いたいのはもちろんだが、ヴィオラを突き動かしていたのは、それだけではなかった。


 リリアーナを失ったとき、アルヴェインが抱くであろう絶望――。


 あれほど深い悲しみを彼に味わわせてしまえば、きっと取り返しのつかない何かが起きてしまう。


 そう確信できるだけの根拠はない。それでも、あの未来だけは決して現実にしてはならない。


 ヴィオラの胸の奥で、拭いきれない不吉な直感が警鐘を鳴らしていた。


「先生!! お願いです! 束縛(レガート)を解いてください!!」


「駄目だ。ヴィオラ様まで死なせるわけにはいかない」


 レグルスの声は、どこまでも冷静だった。その落ち着きが、今はひどくもどかしい。


(どうしたら……どうしたら分かってもらえるの……!?)


 レグルスは、『リリアーナがこの世からいなくなれば、時間の流れが元に戻る』と言うが本当にそうだろうか? 本当に彼女が歪みの原因なのだろうか?


 ヴィオラには、違うように思えてならなかった。

 リリアーナが生きていることではなく――彼女が死ぬことこそ、時間の歪みを引き起こす原因だとしたら?


 ヴィオラは必死に鎖を引いた。しかし、白銀の鎖はびくともしない。


 ――ピシッ。


 再び、亀裂の走るような音が響いた。今度は、先ほどよりも大きい。灰色の空間が、微かに揺らいだ。


「……っ!」


 もう、時間がない。そのとき、レグルスが静かに口を開いた。


「……もういい、ヴィオラ様。お前は十分に抗った」


 諭すような、低い声だった。そして、残酷なほど穏やかに告げる。


「後は――時を、本来の流れへ戻すだけだ」


 レグルスは、ゆっくりと銀縁眼鏡を掛けた。白銀の髪に菫色が戻り、左右で異なっていた瞳も、次第に同じ色へ変わっていく。


 そこに立っているのは、もうレグルスではない。アウレア魔法学園の教師――ザイデルバストだった。


「先生……!」


 ヴィオラが叫んだ、その瞬間だった。


 ――パキンッ!


 何かが砕けるような音が響き、灰色の世界が大きく揺らいでいく。


「……っ!」


 耳の奥で、張り詰めていた糸がぷつりと切れたような感覚が走った。


 そして――世界が、再び色を取り戻した。残酷な風が頬を打つ。静止していた砂埃が一斉に舞い上がり、宙に浮かんでいた小石が地面へ降り注ぐ。途切れていた轟音が、耳をつんざく勢いで押し寄せた。


「リリアーナ!!」


 アルヴェインの叫び声が響き渡った。ヴィオラは弾かれたように顔を上げる。リリアーナへ必死に手を伸ばすアルヴェイン。その頭上では――巨大な岩塊が再び落下を始めていた。


「兄上! 下がってください!!」


 ルシアンの叫びが響く。しかし、アルヴェインは退かなかった。リリアーナの両腕を掴み、必死に引き上げようとしている。


「くっ……!」


「アル……! 足が……っ!」


 リリアーナの身体が強張った。抜けない。崩れた岩に挟まれた足が、彼女をその場へ縫い留めている。


「ヴィオラ!?」


 ルシアンがこちらを振り返った。白銀の鎖に繋がれ、身動きの取れないヴィオラを見た瞬間、その表情が険しくなる。


「何があった――」


「私はいいから、早く! 先生を助けてください!!」


 その言葉にルシアンが振り返る。すでに巨大な岩の影が、リリアーナたちを覆い尽くそうとしていた。


「リリー……!」


 アルヴェインが彼女を庇うように身を屈める。


(駄目……!)


 それでは、二人とも。二人とも――!


「いや……っ!!」


(未来を変えることができなかった……)


 すべてが終わったと思った、その時だった。


 ――ヒュンッ!


「……え?」


 一筋の緑光が、視界を横切った。それは風だった。草木の香りを含んだ、鮮やかな緑色の風。それが地面すれすれを駆け抜け、リリアーナの足元へ巻きつく。

 

 ――パキンッ!


 硬い音とともに、足を挟んでいた岩に亀裂が走った。


「……っ!」


 その刹那、リリアーナを繋ぎ止めていた岩が砕けた。そして、リリアーナの足が自由になった。


「リリー!」


 アルヴェインが彼女を引き寄せようとした。しかし、それよりも早く、緑の風が二人の間を吹き抜けた。


「――っ!?」


 突風に煽られ、アルヴェインの手が離れる。その一瞬で、リリアーナの身体がふわりと宙へ浮いた。


「リリアーナ!?」


 彼女の姿は、緑の風に包まれたまま砂埃の向こうへ消えた。


「兄上!!」


 すでにすぐ傍まで駆け寄っていたルシアンが、アルヴェインの腕を掴み、力いっぱい引き寄せた。その直後――。


 ――ドォォォォンッ!!


 巨大な岩塊が、地面へ激突した。


「――っ!!」


 凄まじい轟音。大地が大きく揺れ、砕けた岩片が四方へ飛び散る。巻き上がった土煙が、瞬く間に辺りを覆い尽くした。


「リリアーナ……先生?」


 ヴィオラは呆然と、その光景を見つめていた。

 何も見えない。リリアーナがいた場所も。

 あの緑の風が、彼女をどこへ連れ去ったのかも。


「……リリー」


 土煙の向こうから、アルヴェインの声が聞こえた。掠れた声だった。


「リリアーナ!!」


 返事はない。ヴィオラの喉が、小さく震えた。


(……そんな)


 岩は砕けた。確かに、リリアーナの足は自由になったはずだ。あと少しだったのに――。


「……先生……」


 ヴィオラの呟きが、轟音の余韻に呑まれていく。その時だった。


「おやおや、みなさん。危機一髪でしたね〜!」


「…………え?」


 あまりにも場違いな、間延びした声。


「いやぁ〜、流石の私も焦りましたよ〜」


 声は――頭上から聞こえた。


 ヴィオラは弾かれたように顔を上げる。崖の中腹の張り出した大きな岩の上で、緑色の風がふわりとほどけていく。


 そこには、二つの人影があった。


「……っ!」


 一人は、リリアーナだった。


 何が起きたのか理解できないのだろう。目を丸くしたまま、もう一人の人物に抱きかかえられている。


 土に汚れた靴先が、宙で小さく揺れていた。

 そして――彼女を抱きかかえている人物をヴィオラは知っていた。


「…………ラン?」


 見慣れた侍女服。風に揺れる、その裾。


 ヴィオラの侍女――ランだった。


 リリアーナを横抱きにしたまま、まるで庭先で顔を合わせたかのように、にこりと微笑んでいる。


「はい、ヴィオラさま」


 いつもの声。いつもの笑顔。何一つ変わらない調子で、ランは告げた。


「お迎えに上がりました〜」


「…………」


 ヴィオラは言葉を失った。


 どうしてランがここにいるのか。

 どうして、あの崩落の中からリリアーナを助け出せたのか。


 何一つ、分からない。


 ただ――すぐ傍で、誰かが息を呑む音がした。


 ザイデルバストだった。

 その顔からは、いつもの余裕が消えていた。


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