第四十七話 双崖崩落救出作戦 5
「……先生、どうして……」
――動けるんですか?
そう続けようとして、ヴィオラは言葉に詰まった。理由なんて、一つしかない。
ザイデルバストは無言でヴィオラの横を通り過ぎると、地面に片膝をついた。その手が、リリアーナの足元へ伸びた。
「ありがとうございます! その岩を一緒に…」
「やはり、ここだったか」
「……え?」
伸ばされた手は、岩に触れなかった。ザイデルバストはただ静かに、時の止まったリリアーナを見下ろしている。その横顔に浮かんでいたのは、ヴィオラの知る教師の穏やかな表情ではない。
見たこともない、凍てつくような冷たさだった。
「この場所で、彼女は死ぬ運命だ」
「……っ。何を、言っているんですか……?」
ヴィオラの心臓が大きく跳ねた。彼は、リリアーナを助けるつもりはない。そう聞こえた。
「言葉通りだ」
ザイデルバストは岩を退かすこともせずに立ち上がると、ヴィオラを真っ直ぐ見つめた。
「分からないなら言い方を変えよう。何度助けようと、彼女は死から逃れられない。それが、本来あるべき時間の流れだ」
「そんな……」
「未来を変えようと、随分と頑張ったようだが」
ザイデルバストの視線が、空中で止まっている巨大な岩へ向けられる。
「どれだけ過程を変えようとも、結局はここへ辿り着いた」
「……っ!」
「どうやっても、彼女を助けることはできない。諦めなさい」
「……嫌です」
「…………」
「まだ、リリアーナ先生は生きています」
ヴィオラはザイデルバストを真っ直ぐ見返した。まだ、彼女の命はここにある。たとえ死から逃れられないのだとしても、見殺しにしていい理由にはならない。
「未来だって変わりました。私が視た未来とは、もう違います。それなら、運命を変えることだって……」
「それはできない」
「……え?」
冷たい声が、静寂の中に落ちる。ザイデルバストがリリアーナを見下ろした。
「崖が崩れる順番が変わり、落ちる岩も変わった。お前たちがここへ辿り着くまでの道筋も変わった。だが」
その視線が、頭上で静止する巨大な岩へ向かう。
「彼女は今、どこにいる?」
「…………」
「お前が未来視で視たのと同じ場所だ」
ヴィオラは唇を噛んだ。分かっている。痛いほど分かっている。必死に運命に抗おうとしても、結局は未来視の通りにいつもなってしまう。それは、自分自身が誰よりも感じていたことだった。
みんなの力を合わせたことで、未来は確かに変わった。それなのにリリアーナだけが、まるで何かに引き戻されるように、あの未来と同じ状況へ辿り着いてしまった。
(本当に運命を変えることはできないの?)
「それでも……!」
ヴィオラは首を振った。まだ諦めるのは早い。まだ未来は決まっていない。
「今はまだ、間に合います!!」
「…………」
「死ぬと決まっているから何もしないなんて、私にはできません」
再びヴィオラはしゃがみ込み、岩に手を掛けた。必死に持ち上げようとするが、びくともしない。
「……相変わらず頑固だな」
「え?」
ぽつりと落とされた言葉に、ヴィオラの手が止まった。
「昔からそうだ。どれだけ言って聞かせても、自分が一度決めたことは曲げない」
「……先生?」
「そして、自分のことより他人を優先する」
ひどく優しく、どこか懐かしむような声だった。教師としてヴィオラに向けるものではない。もっと近しい誰かへ向けるような、深い慈愛が込められていた。
「……お前は本当に、あの方によく似ている」
「え……?」
「だから困るのだ」
その瞳には、今にも零れ落ちそうな感情が滲んでいた。その眼差しに、なぜか胸の奥がざわめいた。
知らないはずだった。こんな顔を向けられたことなど、一度もない。しかし、ずっと前にも誰かがこんなふうに自分を見つめていたような気がしてならなかった。
「――ヴィオラ様」
「…………!」
名前を呼ばれた瞬間、どくんと心臓が大きく跳ねた。頭の奥で、何かが弾ける。
――ヴィオラ様
声が重なった。今、目の前にいる彼の声と、記憶のずっと奥底に沈んでいた誰かの声が。
――ヴィオラ様
(この声……)
知っていた。その声を覚えている。まだヴィオラが幼かった頃に、何度も呼ばれた名前だ。
『ヴィオラ。こっちへ来てごらん。沈丁花が満開だ』
『お母様は、本当に花が好きね』
『ああ。特に、淡い桃色と白の色合いの沈丁花が一番好きなんだよ。沈丁花の別名をヴィオラに名付けたかったくらいだ。ただ、少し無骨だと止められてしまってね』
『ふふふ。お母様らしい。ちなみに、なんて言う名前なの?』
『沈丁花は別名ーー』
(……そうだ、何で今まで忘れていたんだろう)
彼は優しく笑う母親の後ろで、ヴィオラたちの会話を聞いていたではないか。
『それでは、その名前は私が生まれ変わったら使わせてもらおうか』
『あははー。レグルスは優しいな。でも私がその名前を呼ぶことができないじゃないか』
『レグルス先生! その時は私が、お母様の代わりに呼んであげますよ!』
『ああ。私が生まれ変わったら、ヴィオラ様にそう呼ばれるのを楽しみにしている』
(そうだ……『ザイデルバスト』この名前は……)
「……まさか、レグルス……先生?」
――ザイデルバスト
その名は、ヴィオラの母バーベナが好きだった沈丁花の別名だった。片時もバーベナの傍を離れず、彼女を護衛していた魔術師。そして、ヴィオラの時守の術式の講師。
それが、レグルスだった。
「やっと気づいたのか。相変わらず出来の悪い生徒だ」
その言い方まで、記憶の中と同じだった。言葉と裏腹に愉快そうに笑う。
「そんな……だって、レグルス先生は……」
ザイデルバストは答えず、銀縁眼鏡へ指を掛けた。そして、ゆっくりと外すと彼を覆っていた魔法が解けた。
「――っ!」
菫色だった髪から色が抜け落ちていく。現れたのは、月明かりを溶かしたような白銀の髪と、左右で異なる色彩を宿した瞳。
間違いない。母バーベナの護衛魔術師。そして、幼いヴィオラへ時守の術式を教えた男。
「レグルス先生……」
レグルスは静かに眼鏡を下ろした。
「久しぶりだな、ヴィオラ様」
「どうして……ここに」
「私の教えたことを忘れたのか?」
「…………!」
「歪んだ時間を正し、本来あるべき流れへ戻す。それが我々の使命だ」
「歪んだ時間……?」
「ああ」
「今のお前なら、少しは感じているはずだ。この世界の時間が、少しずつ歪んでいることを」
「…………」
脳裏を過ぎったのは、アウレア魔法学園を襲った時蝕。そして、過去視や未来視から感じていた、言葉では説明できない違和感だった。
「時間は本来、過去から現在、そして未来へと流れていく。決して後戻りはしない」
「だが、今は違う」
「どういう……意味ですか?」
「そのままの意味だ。今の時間は、何度も本来の流れから外れている」
「何度も……?」
引っ掛かる言葉だった。
「待ってください。それなら先生は、何が本来の時間だったのか知っているんですか?」
「すべてを知っているわけではない。私とて、神ではないからな」
「だったら、どうしてリリアーナ先生がここで死ぬのが本来の流れだなんて――」
「分かるさ」
レグルスの視線が、ヴィオラの左眼へ向けられる。
「お前と同じものを視てきたのだから」
「……え?」
ヴィオラは無意識に左眼へ触れた。
「でも、過去視は過去に起きた出来事を見る術です。それとリリアーナ先生がここで死ぬことに、何の関係が……」
「……ヴィオラ様」
「はい?」
「お前はまだ、その眼をそう思っていたのか?」
「……え?」
意味が分からず、ヴィオラは瞬きをする。
「過去視は、過去を視る術でしょう?」
「間違いではない。だが、正しくもない」
「どういうことですか?」
「私は昔、お前に右眼は未来を、左眼は過去を視ると教えた」
「はい」
術式の稽古をサボることは多かったけれど、忘れるはずがない。何度もレグルスから教わった。
右眼は、これから起こり得る未来。
左眼は、すでに起きた過去。
それが時守に受け継がれる眼の力なのだと。
「だが、私は一度もそれが“今のお前へと繋がっている過去”だけだとは教えていない」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか理解ができなかった。
「今の……私に繋がっている……?」
「時間は一本ではない。枝分かれし、重なり、時には途切れる。同じ始まりから生まれた時間であっても、選択一つで異なる道を辿ることがある」
「違う……時間……」
「お前が《過去》と呼んでいるものの中には、この時間には存在しない記憶も混ざっている」
「――っ」
心臓が大きく跳ねた。
「そんな……」
「思い当たることがあるだろう?」
「…………」
否定はできなかった。これまで左眼で視てきた光景は、確かに過去であるはずなのに、現在へ繋げようとすると、どうしても噛み合わないものがあった。
知らない場所。覚えのない会話。そして、自分自身が経験したはずなのに、記憶のどこを探しても存在しない出来事。
もしそれが本当なら、これまで感じていた違和感にも説明がつく。
「でも……それなら、私が視ていたものは何だったんですか?」
「過去だ」
「だから、その過去は――」
「ただし、この時間のものとは限らない」
「…………!」
レグルスの言葉が、胸の奥へ突き刺さった。
「一度は存在した時間。今とは違う選択をした時間。あるいは――」
「すでに失われた時間」
「失われた……」
ヴィオラは呆然と呟く。声が震えた。
「そんなものが……本当に……?」
「ある」
「だからこそ、時守が存在した」
「…………」
「流れる時間を見届け、歪みが生じれば正す。それが我々に課せられた役目だった」
ヴィオラはレグルスの白銀の髪と、左右で異なる瞳を見つめた。頭の中で、いくつもの事実が繋がっていく。だが、同時に疑問は増えていくばかりだった。
「だったら……リリアーナ先生と、失われた時間に何の関係があるんですか?」
レグルスの表情から、僅かに残っていた温かさが消えた。
「……彼女が、歪みの中心にいる」
「え?」
「この世界の時間が狂い始めた場所には、必ず彼女がいる」
「そんな……」
「何度調べても、辿りつく答えは同じだった」
レグルスは時の止まったリリアーナへ歩み寄る。
「本来なら死んでいるはずの人間が、生きている」
「…………!」
「死ぬはずだった時間を越えても生き続け、そのたびに時間の流れが歪む。そして歪んだ時間は、再び彼女を本来の結末へ戻そうとする」
どれほど未来を変えても。どれほど違う道を選んでも。リリアーナだけが、同じ死へ辿り着く。
「だから……リリアーナ先生を助けないんですか?」
「そうだ」
「そんなの……!」
「ヴィオラ様」
強い声に遮られる。彼の瞳は真剣だった。
「一人を救うために、世界そのものが歪んでも構わないのか?」
「――っ」
「時間の歪みは、すでにアウレア魔法学園にまで現れた。次も学園だけで済む保証はない」
「それは……」
「彼女一人を救い続ければ、いずれ何人が巻き込まれる?」
「…………」
「百人か。千人か。それとも、この国すべてか」
冷たい言葉だった。けれど、レグルスの瞳には怒りではなく、恐れがあった。
何かを失うことを心の底から恐れているような、そんな顔だった。
「だから、ここで終わらせる」
レグルスはリリアーナを見下ろした。
「本来の時間へ戻すために」
「…………」
「それが、時守として正しい選択だ」
ヴィオラは俯いた。先生の言っていることが、すべて間違っているとは言い切れない。
もし本当にリリアーナ一人を救うことで、多くの人が危険に晒されるのなら、レグルスの言うことにも一理ある。だからと言って、彼女を切り捨てることなどヴィオラにはできない。
「……違います」
「何?」
「私は、そうは思いません」
ヴィオラは真っ直ぐ顔を上げた。その瞳には迷いは無かった。拳をぎゅっと強く握る。
「だって、先生はまだ何も証明していないじゃないですか」
「…………」
「リリアーナ先生がいる場所で時間が歪んだ。それだけで、リリアーナ先生が原因だなんて決めつけられません」
レグルスの眉が僅かに動いた。
「それに、もし先生の言う通りこの人が死ぬのが本来の未来だったとしても」
未来視で見た光景を思い出す。死んでいくリリアーナを抱き締めるアルヴェイン。あの悲鳴が鮮明に残っている。
「私はまだ、その未来を選んでいません」
「……選ぶ?」
「はい」
ルシアンの姿が脳裏に浮かんだ。未来は与えられるものではない。どんな未来になるか分からなくても、それでも自分たちで選ぶ。私たちには、未来を選ぶことができるはずだ。
「だから、助けます」
「彼女を助けたことで、また誰かが危険に晒されるのなら、その人も助けます。何度だって諦めません。私は誰かを切り捨てることでしか守れない未来なんて、選びたくありません!」
レグルスが目を見開いた。そして困ったように笑う。その顔は、昔のレグルスそのものだった。
「……本当に、バーベナ様によく似てしまったな」
「え……」
――パラッ
小さな音がした。ヴィオラの肩に、一粒の砂が落ちる。
「…………?」
視線を上げた瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
――パラ……パラ……
空中で静止していた砂埃が、微かに揺れ始めていた。
「まさか……!」
「時間切れだ。お前の《停止》が解ける」
「――っ!」
ヴィオラは弾かれたようにリリアーナへ振り返った。頭上には巨大な岩が静止している。
止まっていたはずの岩が、ほんの僅かに動いた。




