第四話 時守の魔女①
裏庭へ続く扉を駆け抜けた瞬間、ヴィオラは息を呑んだ。
空が、吸い込まれそうなほどの濃密な闇に染まっていた。重苦しい空気が肌へ纏わり付き、空間そのものが軋むような不快感が支配する。先ほどまで青空を照らしていた朝日は、爛れた瘴気に遮られ、その光を失っていた。
「……嘘……」
肌がピリピリと焼ける。胸の奥が嫌な予感で締め付けられた。
――始まっている。“時蝕”が。
それは、ヴァンヴェール王国で古くから語り継がれている大災害だ。
一般市民には“地蝕”と呼ばれていて、大地に突如として巨大な亀裂が走り、地下深くから溢れ出した黒い瘴気によって魔獣が凶暴化する現象を指す。
瘴気に侵された魔獣は理性を失い、異形へ変貌しながら街や村を襲撃する。地割れから噴き出す瘴気は、土地を腐敗させ、水や空気を淀ませ、生き物の命を蝕んでいく。
そのため人々は、地蝕を“瘴気災害”の一種として恐れていた。
だが、時守の一族だけは、その災厄の本当の名を知っていた。
時蝕。
それは単なる自然災害などではない。世界そのものが崩壊し歪む際に発する、“悲鳴”の一部だ。
空間と時間が軋み、大地が耐えきれず裂けた結果として現れる崩壊現象だった。黒い瘴気は世界の傷口から漏れ出した“時の澱”だ。その“時の澱”の中から生まれた、“時喰いの魔獣”と呼ばれる魔獣は、人間の“時間”そのものを喰らう性質を持つ。
つまり“時蝕”とは、世界が歪み壊れ始めている証なのだ。
そして時守の一族は、時間の守り人として、来たるべきその終焉を防ぐ術を、代々継承してきた。
ゴゴゴゴゴゴ……!!
轟音と共に校舎裏の広場が崩れた。巨大な亀裂が大地を引き裂く。底は見えない。ただ漆黒だけが広がっている。
その闇の奥から、ずるり、ずるりと異形の影が這い出してきた。
酷く腐敗した黒毛。口は裂け、何重にも並んだ牙が覗く。赤黒く濁った瞳が、何かに飢えているようにギラギラと光る。獣の姿をしているのに、どこか人間に似た不気味さがあった。
「きゃああああっ!!」
耳を裂く悲鳴が聞こえる。ヴィオラが進む方向とは逆に、多くの生徒が走りながら逃げていく。
「っ…時喰い…!!」
ヴィオラの喉が震える。普通の魔獣じゃない。時蝕から現れる、“時間”を喰らう異形だ。彼らは歪んだ己の存在を維持するために、人間の時間を喰らう。歪みが生み出した災厄そのものだった。
「…ひいっっ!!」
大地の裂け目から次々と這い出してくる。そのおぞましい姿に、近くにいた生徒が恐怖で動けなくなる。当たり前だ。魔法学園で魔術を学んでいると言っても、実践は初めてだろう。見るも恐ろしい魔獣が咆哮を上げ、近くにいる女子生徒へ飛び掛かった。
「危ない!!」
逃げられない。間に合わない。誰もがそう思った、その瞬間。
夜空を裂く流星のような光が駆け巡った。
「天狼星の槍!!」
星光の槍が魔獣を貫いた。神々しい蒼銀の光が弾け、魔獣は断末魔を上げながら浄化されていく。光の中から、一人の青年が現れた。
生徒会長、ルシアン・ヴァンヴェール。
黄金の髪が風に舞い、透き通るような碧眼が、周囲を鋭く捉える。堂々とした立ち姿。まるで神話から抜け出してきた英雄のようだった。
「皆、落ち着け!!」
響き渡る声。その一言だけで、混乱していた生徒達の動きが止まる。
「ガルディアス!亀裂の前に防護壁を展開!」
「よし!俺に任せておけ!!」
「ユノは負傷者の治療を頼んだ!」
「はい!」
「エレノアは負傷者を優先して避難誘導!」
「承知したというお話し!」
「セシルは学園内に入り込んだ魔獣の探索を頼む!」
「りょーかい〜」
迷いのない指示に生徒会役員達が一斉に動き出す。その光景はまるで精密な時計の歯車のようだった。誰一人として命令に疑問を抱かない。絶対的な信頼と絶対的な統率が、そこにはあった。
「生徒は全員下がれ!!」
魔獣が溢れ出してくる亀裂の前に、ガルディアスと呼ばれた巨漢の男子生徒が立ちはだかった。
「ふん!俺に任せておけ!」
剣を地面へ突き立て魔法陣を展開する。
「守護王の巨盾!!」
轟音と共に現れた岩壁が、亀裂から次々と飛び出してくる魔獣の突進を、真正面から受け止めた。
「俺はな……弟たちに胸を張れる兄貴になるって決めてるんだ!」
土煙の中で笑う姿は、まるで動かぬ城壁そのものだ。
「さあ、今のうちに怪我人はこちらへ!すみません!少しだけ我慢してください…」
傍らに座り動けなくなっている生徒に向かって手をかざす。
「聖花治癒!!」
ユノと呼ばれた女子生徒が呪文を唱えると、白い花びらが舞い傷を癒していった。
よく見ると彼女は、先ほど令嬢達に絡まれていた少女だった。これだけの治癒力があれば、平民出身でも実力を認められるのも頷ける。
「全生徒へ通達するというお話し!」
エレノアと呼ばれた眼鏡を掛けた小柄な女子生徒が手を掲げる。
「観測網展開!蒼流避難路!!」
その刹那、青白い光の道が学園全域へ走った。
『校舎裏庭で地蝕発生!生徒達はその光を辿って速やかに、避難開始してください!』
空中に映った水鏡には、災害発生の警告と安全区域が映し出される。
『負傷者は西棟へ!無傷の生徒は東棟へ避難!!結界魔術が使える者は中央棟へ移動をお願いします!!』
生徒たちは次々と避難を開始した。
「ふふ、災害対策は事前準備が九割というお話し」
赤縁の眼鏡を軽く上げてドヤ顔をキメる。
「じゃあ、そろそろ僕の番かな〜?」
シオンと呼ばれた飄々とした男子生徒が、緑陰色の髪を風になびかせて魔法陣を展開する。
「千 里 風 眼」
上空に緑色のエフェクトが輝きながら上っていく。
(偵察を主とした風魔法……?)
「会長。この裏庭からは魔獣は逃げていないよ。ここを封鎖すれば被害は最小で止められるみたいだよ〜」
「分かった。感謝する!」
凛々しく立ちはだかった生徒会長が、微かに微笑む。その荘厳で美しい佇まいに、ヴィオラは思わず魅入られた。
「次は我々の仕事だ!セシリア行くぞ!」
会長が叫ぶと、紅蓮の長い髪が揺れる長身の女子生徒が構える。
「ええ、もちろん。生徒会副会長を舐めるんじゃないわよ!」
勝ち気に笑うその存在感に、周りの雰囲気も安堵を含んだ表情になる。
「紅 蓮 槍 !!」
烈火を纏いながら、鋭い槍が幾つも放たれる。貫かれた魔獣は、奇声を上げて燃え上がった。
慄いて地面に座り込んでいる生徒を助けながら、魔獣を撃退していく。
「何をぼさっとしているの! しゃんとしなさい!!」
「…はい!ありがとうございます!」
その姿は『紅蓮の副会長』という名に相応しい姿だった。
突然の時蝕にも物怖じしない的確な対応は、王立アウレア魔法学園のトップに相応しい集団だ。
生徒会――彼らには、魔術災害時の指揮権まで与えられている。国家機関にも匹敵する権限と責務を持つ組織なのだ。
「流 星 刃」
魔術を詠唱しながら、ルシアンは剣を抜いた。銀白の刀身が輝き、黒い空を映す。その姿はあまりにも美しかった。
低く、けれど誰よりも力強い声が辺りに響く。
「この学園は必ず守る」
その瞬間だった。鷲掴みにされたような衝撃が、ヴィオラの胸を貫いた。破滅が迫り、命すら危うい状況なのに、彼から視線が離せない。
たったそれだけ。それだけなのに。胸の奥で何かが弾けた。
(――綺麗だわ……)
絶望に染まった世界の中で、ルシアンだけが眩しいほどの光だった。




