第三話 義弟の想い
ヴィオラが崩れ落ちた瞬間、アージェンの胸を嫌な予感が貫いた。
「義姉さんっ!!」
反射的に床へ膝をつき、倒れ込む身体を抱き留める。
細い肩が小刻みに震えていた。呼吸は乱れ、右眼から溢れる黄金の光が止まらない。指の隙間から漏れる光が、教室の床へ不気味な模様を落としている。
――深層未来視。
最悪の状態だった。
アージェンは奥歯を噛み締める。ヴィオラの未来視は普通の“予知”ではない。
ただ未来を見るだけなら、まだ良かった。彼女は視た未来を、まるで自分自身が体験しているかのように感じ取ってしまう。
痛み、恐怖、絶望も全て――。
それが深層未来視だ。あまりにも強く深く入り込んでしまうと、精神負荷は増し、最悪の場合、自我が壊れる。
「義姉さん、しっかりして!」
アージェンは慌てて傍らの鞄を漁った。指先が震える。焦って上手く掴めない。
「っ……あった!」
鞄の奥から小瓶を掴み出し、アージェンは乱暴に蓋を開けた。淡い銀青色の液体が、かすかに揺れる。
《クロノシア》
時守専用に義父が開発した魔導薬だ。未来視の暴走を抑制し、精神侵食軽減の効果を持つ秘薬だった。
「義姉さん、これ飲んで!」
口に瓶をあて、飲ませようとする。しかしヴィオラは反応しない。
「あ、あ…ああ……!いや……いやぁぁっ!!」
涙を流しながら、悪夢に囚われたように震えている。呼び掛けても届かない。このままでは危険だった。
「……くそっ」
アージェンは決意すると、小瓶を口に含む。苦い薬液が舌へ広がった。そしてそのまま、ヴィオラの唇に口付ける。
「……っ!」
一瞬、金色の瞳が見開かれた。
だが構わない。逃がさないよう後頭部を支え、薬を流し込む。
ごくり、と小さな嚥下音が響いた。アージェンは、そっと唇を離す。
涙で濡れた頬、薬液で艶めく唇、乱れた呼吸。ヴィオラの妖艶な姿は、恐ろしいほど綺麗だった。
(……僕は何を……)
身体の奥が熱を持つ。義姉に対して抱いた感情に、頭が真っ白になる。本当は気付いていた。ずっと前から、自分はヴィオラに執着している。
木枯らし色の髪、地味な黒縁眼鏡、目立たない平凡な令嬢。普段の姿は全部、“偽物”だ。
本当のヴィオラは、誰よりも美しい。
淡雪を思わせる白銀の髪も。
桜花を滲ませた淡桃の毛先も。
星夜と陽光を宿した異なる虹彩も。
(本当の彼女を知っているのは、僕だけだ)
眼鏡の魔法陣修復なんて口実だった。
ただ、ヴィオラを独り占めしたかった。
毎朝、待ち合わせて一緒に寮を出ていた。目立つ事を嫌うヴィオラが、周囲の令嬢から噂されているアージェンと、行動を共にしたく無いと思っている事も分かっていた。
けれど、彼女の隣は譲りたく無かった。
今日、ヴィオラが先に行ってしまった時、胸が酷く苦しかった。置いて行かれた気がした。頼って欲しかった。必要とされたかった。
ヴィオラがいなくなれば、自分には何も残らない。
このまま連れ去って檻に閉じ込めてしまいたい。優しくてか弱い、愛しい彼女を誰の目にも触れさせたくない。
自分以外の男が彼女に触れることを想像するだけで、気が狂いそうだった。どうすれば僕だけを見てくれるだろう。どうすれば僕を男として意識してくれるのだろう。何度も繰り返し囚われる想いに、胸が張り裂けそうだ。
(……醜いな)
そう思った。けれど、今はそれ以上に後悔していた。
眼鏡を外したことによって、深層未来視が誘発されてしまった。眼鏡をかけていれば、力は封印されここまでひどい発作にはならなかった筈だ。
自分が苦しめたのだ。守ると誓った人を。
「……っ」
腕の中で、ぐったりともたれかかり目を閉じるヴィオラを見つめながら、アージェンは静かに拳を握る。彼女の温もりが、胸を締め付けた。
(……ヴィオラは絶対、僕が守る)
時守だろうが、禁忌だろうが、世界に嫌われようが関係ない。ヴィオラが生きていてくれれば、それでいい。
ヴィオラは優しすぎる。だからきっと、自分を犠牲にしてしまう。未来のために。誰かのために。笑って自分を差し出すだろう。
だから、そんな未来だけは、絶対認めない。
もし誰かが彼女を利用し、傷つけようとするなら。自分が全部壊してみせる。そのために魔術を学んだ。そのために強くなった。でもまだだ。もっと彼女を守るために力をつけなくては。
「……ジェー?」
腕の中のヴィオラが目を開けた。
「…ありがとう。助けてくれたのね」
空になった瓶を見ながらヴィオラが小さく笑う。その顔を見た瞬間、アージェンは泣きたくなった。
(…違う、僕の欲で暴走させたんだ)
苦しめたのは自分だ。だが、その言葉は飲み込んだ。
「……また深い未来視だったの?」
努めて平静を装い、眼鏡を差し出す。
ヴィオラが掛け直した瞬間、白銀の髪が木枯らし色へ変わる。異色の瞳も地味な色彩へ溶けた。
再び“平凡な令嬢”へ戻った彼女は、小さく息を吐く。
「……時蝕よ」
「え?」
「この学園が、“時蝕”の発現地になるのを見たの」
アージェンの顔色が変わった。
「……嘘だろ」
「もうすぐ始まるわ…」
その瞬間だった。
――ズドォン!!
地面を揺らす轟音が響き、窓ガラスが激しく震えた。
外から悲鳴が響く。
「瘴気だ!!」
「裏庭に瘴気が!!」
生徒たちが叫びながら逃げ惑っている。
「ここに居ては危険だ!早く逃げよう!」
手を引いて逃げようとする。しかし、彼女は真っ直ぐアージェンの目を見て動かなかった。
「ごめん。ジェー。私は逃げない」
ヴィオラが立ち上がった。こんな時も彼は思う。真っ直ぐな彼女は美しい。でもどうか、自分の腕の中からいなくならないで欲しい。
「……私、行かなくちゃ」
「駄目だ!!危険すぎる!」
アージェンは腕を掴む。
だがヴィオラは静かに首を振った。その瞳は、決意を纏った真剣なものだった。
「……ごめん、ジェー。もう、誰かが死ぬ未来を見たくないの」
「義姉さんっ……!」
「――加速」
次の瞬間。加速魔法が発動する。ヴィオラの身体が風みたいに駆け出した。
「ああ、もう……!!」
アージェンは頭を抱える。本当に昔から頑固だ。いくら周りが言ったところで聞く耳を持たない。でも、そんな彼女だから目が離せない。…絶対、一人にはさせない。
(…誰にも渡さない)
彼女の背を追って駆け出す。たとえ未来そのものが敵になったとしても、自分だけは、最後までヴィオラの味方でいると決めていた。




