第二話 眼鏡の奥の秘密
朝早い校舎内はまだ人影も少なく、長い廊下には静寂が満ちていた。磨き上げられた床に、窓から差し込む淡い朝日が白く伸びている。
周囲を一度見回したアージェンが、小さく息を吐いた。
「……義姉さん、こっち」
促されるまま空き教室へ入る。扉が閉まると同時に、アージェンは無言で右手を掲げた。
細い指先が器用に空中を滑る。手が止まると、描かれた紫色の魔法陣が静かに回転した。
「――遮蔽壁」
低く紡がれた詠唱と共に、淡い閃光が教室全体へ広がる。次の瞬間、音も気配も吸い込むような透明な結界が張り巡らされ、空気がわずかに震えた。
防音、防視認、魔力遮断。
アージェンが最も得意とする結界魔法だ。
「……これで大丈夫」
ヴィオラはようやく、小さく息をついた。
「義姉さん、眼鏡」
「うん……」
かけていた眼鏡を外し、そっとアージェンへ渡す。
その刹那、木枯らし色だった長い髪が、雪解けのように真っ白に変化した。さらりと零れる髪は淡い月光色に輝き、毛先だけがほのかな桃色を帯びている。
窓硝子に映る自分の姿に、ヴィオラは静かに目を伏せた。
左眼は、深い紫水晶のような紫色。
右眼は、陽光を閉じ込めたような黄金色。
左右で異なる瞳――オッドアイ。
それは、“時守”の証だった。
(……隠したところで、消えたりしないのに)
チクリと胸の奥が鈍く痛む。ヴィオラは静かに目を閉じた。
十五年前。
リュウール伯爵家の嫡男として生まれたヴィオラの父は、ある一族の娘と恋に落ちた。
彼は伯爵家の跡取りという地位を捨てて彼女を選び、結ばれた二人は、彼女の一族が暮らす村でひっそりと暮らし、ヴィオラを授かった。
この世に生を受けたヴィオラは、母親の一族の血を受け継いだ。それが、左右で虹彩の異なる瞳――“オッドアイ”だった。
――時守の一族。
世界創世の時代、天空から現れた“始原精霊”たちが、この世に安定をもたらした。その中の一人が、時を司る精霊“クロノス”だ。
時守の一族は、古代からクロノスより加護を与えられ、その力を守護する役割を担っていたという。
クロノスから与えられた加護には、特別な力があった。左眼は過去を、右眼は未来を視る。
そして、時間そのものへ干渉する“時間魔法”を行使する力。
最初は、小さな未来だけだった。数秒後の出来事。明日の天気。数日後に出会う誰か。
だが成長するにつれ、見えるものは変わっていった。
身近な人の死。地震や洪水などの自然災害。武力を行使した破壊的な戦争。
そして、時間が崩壊し、世界そのものが崩れ落ちていく終焉。視なくてもいい未来ばかりが、流れ込んでくる。
それは呪いだった。
未来は、知れば知るほどヴィオラの心を蝕んでいった。
(知られたら終わり……)
時守の一族は、時間魔法を使う禁忌の一族とされ、七年前、王国軍によって滅ぼされた。
燃える村。崩れ落ちる家々。鼻を突く煙の臭い。
あの日の光景は、今でも鮮明に思い出せる。
生き残ったのは、アージェンとヴィオラの二人だけだった。
『この眼鏡をかけている限り、君の素性は知られない。安心しなさい』
特殊な結界魔法が刻まれた魔導具。この眼鏡を渡されたのは、保護されていた教会にリュウール伯爵が迎えに来た時だった。
帝国魔術師団長を務める彼は、国内最高峰の魔術師だった。叔父が創った眼鏡には、封印魔法陣が刻まれていた。
本来の姿と力を封じ込め、地味な容姿へ変えてくれる。普通の変化魔術とは違い、この眼鏡は半永久的に効果が持続する。
――眼鏡を外さない限り。
ヴィオラは無意識に自分の腕を抱いた。
自分が“時守の一族”の生き残りだと知られれば、待っているのは破滅だけだ。
禁忌として恐れられ、殺されるか。あるいは未来を視る力を求められ、利用されるか。
どちらにせよ、まともな結末などあり得ない。だからヴィオラは、存在を消すように生きてきた。
目立たず。人に関わらず。何も知らない無害な令嬢を演じながら。
――それが、自分を守る唯一の方法だった。
けれど、一度視てしまった未来を、なかったことにはできない。
誰かが傷つく未来を知ってしまったのに、見て見ぬふりをするほど、ヴィオラは器用にはなれなかった。
未来は絶対じゃない。行動すれば、変えられる。
たとえその代償として、自分の秘密が暴かれることになったとしても。
「……義姉さん」
アージェンの声に、ヴィオラは顔を上げた。
彼は眼鏡の魔法陣を修正しながら、わずかに眉を寄せている。
「無意識でも“未来視”を使いすぎると、術式が摩耗する」
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
アージェンは小さく息を吐いた。
「義姉さんが壊れるのが嫌なんだ」
一瞬、言葉を失う。彼はヴィオラの一番の理解者だった。小さい頃から、一緒に寄り添ってきた家族だったから。
何度も崩れそうになるヴィオラの心を、彼は繋ぎ止めてくれている。
「……うん。ありがとう、ジェー」
小さく微笑む。アージェンの目が、微かに揺れた。その時だった。
「きゃーっ! 見て、生徒会長よ!」
「素敵だわ!」
窓の外から響いた黄色い歓声に、ヴィオラはびくりと肩を揺らした。
静かだった空き教室の空気が、一瞬で騒がしさに塗り替えられる。広場の喧騒に思わず眉を寄せ、窓の外へ視線を向けた。
石造りの中庭。
中央の噴水広場には、いつの間にか大勢の生徒が集まっている。その中心で、朝日を受けて煌めく金色の髪が揺れた。
ルシアン・ヴァンヴェール。
ヴァンヴェール王国第二王子。そして、王立アウレア魔法学園の生徒会長だ。
陽光そのものを閉じ込めたような金髪に、湖面を思わせる碧眼。整いすぎた容姿に加え、圧倒的な魔法の実力を誇る彼は、学園中の憧れの的だった。
だが、それは“王子だから”ではない。
ヴァンヴェール王国は徹底した実力主義国家だ。爵位も血筋も絶対ではない。力ある者が上へ立つ。
たとえ平民でも、優秀であれば爵位を授かり、王国中枢へ上がることができる。その象徴こそ、生徒会制度だった。
学園成績上位者のみが所属を許される特別機関。それが生徒会だ。そして、その中でも最も優秀な成績を修めた首席の生徒が、生徒会長として君臨する。
その権限は、理事長をも凌駕するという。
平民出身で、貴族出身の生徒に蔑まれて生きてきた者たちは、生徒会に入り、貴族を見返したい一心で血眼になって研鑽を積む。
優秀な人材を育てるのには、理にかなった制度だ。ただし、膨大な生徒の頂点に君臨するには並大抵のことではない。
他の生徒を圧倒するほどの天性の才能。そして、貪欲に学び、研鑽を積み重ねる努力。その両方がなければ、辿り着くことは叶わない。
決して身分で付いた役職ではない。生徒会長とは、選ばれた天才の証だった。
「……さっきの子」
アージェンが窓の外を見ながら呟く。
「噴水の子だけど、生徒会所属だったみたいだな。」
ヴィオラも視線を向ける。
人混みの中心に、先ほど助けた少女がいた。
生徒会役員らしき生徒たちに囲まれ、何かを話している。そういえば、平民なのに生徒会入りしたことを妬まれていた。
(……私には関係のない世界だわ。関わってはいけない)
そう思い、視線を逸らそうとした、その時。
生徒会長がふと顔を上げた。碧い瞳が、真っ直ぐこちらを捉える。
「……っ!」
ヴィオラの呼吸が止まった。
教室には結界が張ってある。内側からの防音、防視認、魔力遮断の結界だ。外から内部を感知することなど、本来は不可能なはず。
なのに――。
彼は確かに、“こちら”を見ていた。
(まさか……気づいた?)
全身の血が冷える。鼓動が激しく跳ねた。
(逃げなきゃ……)
本能が警鐘を鳴らす。あの人は危険だ。直感が、そう叫んでいる。
「……義姉さん?」
その時、右眼が灼けるように熱を帯びた。あまりの熱さに右眼を押さえ、うずくまる。
「あ、あ……ああ……!」
指の隙間から黄金の光が溢れ出す。金色の瞳が、制御不能なほど強く発光していた。
静かな教室に、ヴィオラの掠れた悲鳴が響いた。
「義姉さん!?」
アージェンの声が遠い。視界がぐにゃりと歪む。
世界が引き裂かれるように白く染まり、大量の“未来”がヴィオラの脳へ直接流れ込んできた。
―――――――
空を覆う黒い瘴気が立ち込める中、突如として現れた、魔獣の群れ。黒く爛れた肉体。裂けた口。赤黒い目玉をぎょろぎょろと動かしながら、狂ったように校舎を駆け回っている。
生徒たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
『いやぁぁぁっ!!』
『助けて!!』
『来るなっ……!』
直後、少女の身体が、巨大な牙に喰い千切られた。ぶち、と肉が裂ける音と共に鮮血が噴水みたいに吹き上がり、石畳を真っ赤に染めた。
―――――――
「あ、あぁ……っ!!」
恐怖で喉が裂ける。
「義姉さんっ!!!」
アージェンが慌てて肩を掴む。だが未来視は止まらなかった。
―――――――
逃げ惑う人々を嘲笑うかの様に、黒い瘴気を纏った巨大な異形の魔獣が現れた。全身を漆黒の鱗で覆い、額には巨大な赤い眼球が埋め込まれている。呼吸するたび瘴気が溢れ、周囲の空間が軋んでいた。
その怪物がゆっくりと顔を上げる。赤い瞳が、学園の尖塔を捉えた。次の瞬間、巨大な前足が振り下ろされた。
――轟音が響き渡る。
世界が揺れ、石造りの尖塔がまるで砂細工みたいに崩れ落ち、瓦礫が散乱し粉塵が舞い上がっていく。
逃げる暇もなく、生徒たちは瓦礫の下敷きになっていった。
『た、助け――!』
助けを求める声も虚しく、生徒達は潰され断末魔と共に血飛沫が舞う。泣き叫ぶ声が、崩壊音へ飲み込まれて消えた。由緒正しい魔法学園は壊れ、燃え上がっていく。
―――――――
「いや……いやぁぁぁっ!!」
ヴィオラは崩れ落ちた。胸を鷲掴みされた様に苦しくて、呼吸ができない。涙で視界が滲み、耳を塞ごうと必死に両手で頭を押さえた。
アージェンが抱きしめながら、隣で何かを叫んでいた。けれどヴィオラには聞き取れなかった。
ただ一つだけ分かる事がある。
この学園は、これから血に染まる。




