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第四十三話 双崖崩落救出作戦 1

 聖堂治療院の裏手にある厩舎には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。


 柔らかな午後の陽射しが木造の厩舎へ差し込み、積み上げられた干し草を黄金色に照らしている。馬たちはのんびりと草を食み、ときおり尾を揺らしては、気持ちよさそうに鼻を鳴らしていた。


 厩務員の青年もまた、鼻歌を口ずさみながら一頭の馬の毛並みにブラシをかけていた。聞こえてくるのは、小鳥のさえずりと、風に揺れる木々の葉音。


 いつもと変わらない、一日――のはずだった。


「ルーク!至急、伝令です!早馬を飛ばせますか?」


 突如、鋭い声が響き渡った。馬たちが一斉に顔を上げる。驚いて振り返ると、厩舎へ駆け込んできたのは、アルベリヒだった。


「院長?」


「急いでください!一刻を争います!」


 普段は穏やかなアルベリヒの切迫した表情を見た瞬間、青年の顔から笑みが消えた。


「……何かあったんですか?」


「双崖の試練の道で、崖崩れが起こる予兆を感知しました」


「え……?」


「そこへ今、王太子殿下の馬車が通行する予定になっています」


 その言葉に、時間が止まったような静寂が落ちた。しかしその意味を理解すると、厩舎の空気が一変した。


「一番速い馬を出せ!」

「鞍を持ってこい!」

「街道へ知らせるんだ、急げ!」


 怒号とともに、治療院に常駐している騎士たちが一斉に厩舎になだれ込む。先ほどまで穏やかに草を食んでいた馬たちが、人々の慌ただしさを感じ取ったようにいななき、蹄で地面を蹴った。すぐさま鞍が運び込まれ、手綱が締められる。


「すぐ出立します!」


 迷いもせずルークは叫んだ。彼は領主との伝令係に任命されていた。馬を走らせるのは治療院で誰よりも早かったからだ。


「お願いします。王太子殿下の一行を見つけたら、すぐに馬車を止めてください。決して双崖の試練の道へ入れてはなりません」


「はい!」


 ルークは勢いよく馬に飛び乗った。重要な役割だ。手綱を握る手に力がこもる。


「待て、私も行こう」


 聞き覚えのある声に、ルークは手綱を握ったまま振り返った。厩舎の入口に立っていたのは、ザイデルバストだった。


「ザイデルバスト先生?」


 四年前まで通っていた、アウレア魔法学園の教師だった。担任として三年間お世話になった記憶が蘇った。なぜここにいるのか、不思議に思う間もなく、彼は矢継早に話した。


「双崖までは距離がある。それに、本当に崖崩れが起きるのであれば、君一人では対処できない事態も考えられる。私は結界魔法が使える。道中で落石が始まった場合、多少は役に立つだろう」


 ザイデルバストは、空いている馬を見つけると、颯爽とその背に飛び乗った。


「先生も行ってくださるのですか?」


 声を上げたのはルシアンだった。厩舎の入口には、アルベリヒの後にルシアンたち生徒会の面々が駆けつけていた。


「ああ。伝令一人を向かわせるよりはいいだろう。万が一、王太子殿下がすでに双崖へ入っていた場合、私なら結界で多少の時間を稼げる」


「では先生、先行をお願いします」


「ああ」


「兄上の一行を発見したら、ただちに馬車を止めてください。何があっても双崖へ進ませないように」


「承知した」


「それから、すでに崩落が始まっていた場合は、任務よりご自身の安全を優先してください」


 ザイデルバストが僅かに眉を上げた。ルシアンを見つめる、銀縁眼鏡の奥の紫瞳が鋭くなる。


「ほう。まさか生徒に心配されるとはな。私も大分、見くびられたものだ」


「違います。先生には私たちが到着するまで、現場を持ちこたえてもらいます。すぐに後を追いかけるので、先生一人でどうにかしようとしないでください」


「……なるほど。さすが、生徒会長というところか」


 ザイデルバストの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「だが、私の心配までは必要ない。お前たちはお前たちの役目を果たせ」


「行くぞ、ルーク」


「はい!」


 二人が手綱を引くと馬が高くいななき、蹄が地面を蹴った。次の瞬間、二頭の馬が厩舎を飛び出した。乾いた蹄の音が連なり、穏やかだった午後の空気を切り裂いていく。


「先生、必ず止めてください!」


 ヴィオラの声に、ザイデルバストは振り返ることなく片手を上げた。治療院を後にした二人の姿は、あっという間に小さくなっていった。


「こっちも準備できたわ!」


 セシリアの声が飛ぶ。振り返れば、騎士たちが残りの馬を引いてきていた。残りは三頭だった。


「……セシリア、ガルディアス、乗馬はできるよな?」


「もちろん!騎士団長の娘を舐めないでもらいたいわね」


「俺も、ロウ師匠に馬術の基礎を学んだからな。任せておけ」


 ルシアンが声をかけると、得意気に二人は返す。その言葉にヴィオラは不安になった。ヴィオラは乗馬など経験がない。しかし、未来視で見た状況を知っているのは、自分しかいなかった。そんな心情を汲み取ったのか、ルシアンはヴィオラを安心させるように頷いてから、指示を飛ばし始めた。


「これから、双崖崩落救出作戦を説明する。まず、エレノア。セシリアと馬に乗り、流水伝達魔法で三騎を繋いでくれ。セシリアは、エレノアが集中できるように手綱を握ってほしい」


「はい!双崖崩落救出作戦という名前がカッコいい響きというお話です!頑張ります!」


「……まあ、エレノアのお守りは、私の役目よね……。任せて頂戴!岩が落ちて来たら、吹っ飛ばしてやるわ」


 エレノアとセシリアが馬に乗る。エレノアは小柄なため、すっぽりとセシリアの胸の中に収まった。


「ユノは、ガルディアスと騎乗してくれ。魔力のオーラを視て、崩れそうな場所を水流で皆に伝達して欲しい。ガルディアスは、ユノの情報を元に崩れそうな場所に結界を張ってくれ」


「はい、もちろんです。お役に立てるように頑張ります!ガルディアス先輩、宜しくお願いします」


「ああ、任せておけ!結界の展開なら朝飯前だ」


 ユノとガルディアスも準備を済ませ、一頭の馬へ跨がった。残る一頭へ視線を向けたルシアンは、最後にヴィオラを見た。


「そして、ヴィオラは私と来てくれ。現地に着いたら、未来視で視た光景と実際の状況を照らし合わせながら、覚えていることをすべて教えてほしい。その情報をもとに、情況を判断しながら私が全体へ指示を出す」


「はい……。あの会長、疑わないのですか?」


「何を?」


 当然のように聞き返され、ヴィオラは一瞬、言葉に詰まった。幼い頃から視てきた未来視は、必ず現実になった。けれど、それを知っているのはヴィオラだけだ。


 彼らにとって未来視とは、まだ起きてもいない出来事に過ぎない。確かな証拠があるわけでもなければ、本当にその通りになるという保証もない。それなのにルシアンは、一度も疑う素振りを見せなかった。


「……私が視た未来が、間違っているかもしれません」


 ヴィオラは胸元で、ぎゅっと手を握る。


「もし私の未来視が外れていたら……皆さんを、必要のない危険に巻き込んでしまうかもしれない。まだ何も起きていないのに、どうしてそこまで私の言葉を信じてくださるのですか?」


「起こらなければ、それでいい」


「え……?」


 あまりにも迷いのない答えに、ヴィオラは目を瞬いた。


「何事もなく兄上たちが治療院へ辿り着く。それなら、それが一番いい。だが、もしヴィオラが視た未来が本当に起こるのなら、私は兄上を救いたい」


 その碧い瞳が、まっすぐにヴィオラを捉えた。


「ヴィオラも同じなのだろう?」


「…………」


「何もしなかったことを後悔したくない。だから、私たちにできることをしよう」


 ヴィオラは言葉を失った。一族が滅ぼされてから、アージェン以外に信じられる相手などいなかったからだ。


「大丈夫だ。私がヴィオラを信じている」


 迷いのない声だった。その言葉にも、眼差しにも、一片の揺らぎもない。ヴィオラの胸が、不意に大きく鳴った。


 誰にも縋らず自ら決めた道を迷うことなく進んでいくその姿が、どうしようもなく眩しく映る。その敢然たる姿に緊迫した状況も忘れ、ヴィオラは思わず見惚れていた。

 




◇◆





 二頭の馬が街道を駆け抜けた。正面から吹きつける風が、頬を打つ。馬の蹄が地面を激しく叩き、乾いた土煙が後方へ流れていく。


 治療院を出てから、どれほど走っただろう。木々に囲まれていた街道は、次第に岩肌の目立つ荒涼とした景色へ変わる。吹きつける風も明らかに強くなっていた。


 前方には、天を断つように聳える二つの巨大な断崖が見えてきた。


 ――双崖の試練の道。


「先生!」


「ああ。もうすぐだ」


 ザイデルバストが短く答える。谷間から吹き抜ける風が、二人の外套を激しくはためかせた。


 ゴゴゴゴ……。


 不意に、地の底から低い音が響く。ルークの馬が怯えたように鼻を鳴らした。


「今のは……」


「地鳴りだ。急げ!」


「はい!」


 二人はさらに馬を急がせる。


(間に合え。まだ双崖へ入っていないでくれ)


 ルークは祈るような気持ちで、ひたすら前を見つめた。やがて街道が大きく開ける。

 

「――いた!」


 ルークが叫んだ。舞い上がる砂埃の向こうに、黒塗りの豪奢な馬車が見える。扉に彫られた王家の紋章が、陽光を受けて輝いていた。


 その周囲を騎乗した騎士たちが固めている。


「王太子殿下の馬車です!」


 間に合った。そう思ったのも束の間だった。


「……っ!」


 ルークの表情が凍りつく。王家の一行は、すでに双崖の入口へ差しかかっていた。


「止まってくださぁぁぁい!」


 ルークは声の限り叫んだ。


「王太子殿下! お止まりください!」



 ゴオオオオオッ――!


 谷間から強烈な風が吹き抜ける。叫び声が風に呑まれた。御者まで声が届いていないのか、馬車は一向に止まらない。


「もう一度だ!」


「はい!」


 ザイデルバストの声に、ルークは大きく息を吸い込んだ。


「聖堂治療院からの緊急伝令です! 馬車を止めてください!」


 最後尾を走っていた騎士の一人が振り返った。


「先生! 気づきました!」


「そのまま知らせろ!」


「はい!」


 ルークは馬の腹を蹴り、少しでも距離を縮めようと速度を上げた。


「双崖で崖崩れが起こります! その道へ入ってはいけません!」


 騎士がこちらを見て、何かを叫んでいるのが分かった。だが――声が届かない。強風にすべて掻き消されてしまった。


「くそっ……!」

 

 黒塗りの馬車が、巨大な岩壁の陰へ吸い込まれていく。やがて最後尾の騎士までもが双崖へ入り、その姿は完全に見えなくなった。


「そんな……間に合わなかった」


 ルークの声が震えた。ザイデルバストも馬を止める。しばらく無言で双崖の入口を見つめていた。


「先生、追いかけましょう!まだ追いつけるかもしれません!」


「……いや」


「え?」


「君はここまでだ」


 思いがけない言葉に、ルークが目を瞬く。ザイデルバストは周囲へ視線を巡らせた。先ほどから続いている地鳴り。崖の上からは、ときおり細かな石がぱらぱらと落ちてきている。


「これ以上、伝令役の君まで危険に晒す必要はない」


「でも……!」


「王太子殿下へ知らせるだけが、我々の役目ではない。崖崩れが起こるとなれば、この周辺一帯にも被害が及ぶ可能性がある。領主にも一刻も早く知らせる必要があるだろう」


「領主様に……」


「ああ」


 ザイデルバストは小さく頷いた。


「仕方ない。ルーク君は領主様へ報告しに、そのままリュウール伯爵家の屋敷へ向かってくれ」


「しかし……」


 ルークは双崖へ目を向ける。その向こうには、王太子の馬車がいる。


「でも、先生一人では危険ではないですか?」


「私なら大丈夫だ」


 ザイデルバストは平然と答えた。


「結界で身を守れる。王太子殿下に近づいて、なんとか彼らを止めよう」


「でも、一人で双崖へ入るなんて……」


「心配はいらない」


 ザイデルバストは僅かに笑う。


「こう見えても、君たちよりは修羅場を潜ってきているのでね」


「……」


「それに領主への報告も重要な役目だ。もし大規模な崩落になれば、騎士や魔術師を動かしてもらわなければならない」


 その言葉に、ルークは迷った。王太子を追わなければならない。しかし、領主へも知らせなければならない。そして目の前にいるザイデルバストは、学園の教師であり、優秀な魔術師でもある。


 自分が残るよりも、彼に任せた方がいい。


「……分かりました」


 ルークはようやく頷いた。


「それでは、お気をつけてください」


「ああ。君も」


 ザイデルバストは穏やかに告げる。


「頼んだよ」


「はい!それでは!」


 ルークは馬首を巡らせ馬の腹を蹴る。


 ――ヒヒィン!


 甲高い声が響き、馬が勢いよく駆け出した。蹄の音が遠ざかっていく。ザイデルバストは、その後ろ姿を静かに見送っていた。やがて、ルークの姿が完全に見えなくなった。

 

「……」


 ザイデルバストの顔から、先ほどまでの穏やかな表情が消えた。彼は馬から降り、手綱を近くの木へ結ぶと、ゆっくりと崖へ近づいていった。

 

 王太子の馬車が消えていった双崖の入口ではない。その脇に聳える巨大な岩壁へ、ザイデルバストは静かに右手を当てた。光の線は岩肌を這うように伸び、複雑な紋様を描きながら広がっていく。やがて巨大な魔法陣が、崖一面へ浮かび上がった。光の紋様が岩盤へ吸い込まれ、消えていく。最後の光が消えたその刹那、崖の奥深くから何かが軋むような音がした。ザイデルバストは手を離し顔を上げた。


 その視線の先、双崖の奥には――王太子アルヴェインたちがいる。さらに遠からず、ヴィオラとルシアンたちもここへ辿り着くだろう。


 ザイデルバストは目を細めた。


「……さて」


 口元に、微かな笑みが浮かぶ。


「君たちは、この窮地をどう切り抜けるかな」


 その静かな声は、双崖を吹き抜ける強風に掻き消され、誰の耳にも届くことなく消えていった。





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