第四十ニ話 ヴィオラの視た未来
「こちらが始原精霊――ヴァルティア様の礼拝堂でございます」
重々しく開かれた扉の向こうへ、ヴィオラは足を踏み入れた。そこに広がっていたのは――小さな森だった。
白い石で造られた木々の間から淡い光が降り注ぎ、どこからともなく、清らかな水のせせらぎが聞こえている。地下にあるとは思えない幻想的な空間だった。
静かで、穏やかで、どこか懐かしささえ感じられる。その森の中央に、美しい御像が佇んでいた。
「……っ」
その姿には、見覚えがあった。足元まで伸びた白銀の髪。穏やかな眼差し。今朝、ヴィオラが夢の中で見た姿と、何もかもが同じだった。
けれど、何よりも心を惹きつけられたのは、その表情だった。まるで、そこにいるすべての者を慈しみ、深い愛情で包み込むような、どこまでも優しい微笑みだった。
すると、ふわりと風が吹いた。
「……?」
地下深くに造られた礼拝堂だ。外から風が入り込むような場所など、どこにもないはずだった。それなのに、確かに風が吹いている。
そよ風に揺れた白い花が、さらさらと音を立てた。そして、数枚の花びらが、ふわりと宙へ舞い上がる。その花びらは、まるで何かに導かれるように、会長の周りに集まっていった。
(……綺麗)
その光景に、ヴィオラは思わず見惚れた。あまりにも幻想的だった。そして一瞬、柔らかな光が会長を包み込んだかと思うと、花びらはそのまま空気へ溶けるように消えていった。
「……今のは?」
「……ヴァルティア様の加護です」
「ヴァルティア様は遥か昔より、ヴァンヴェール王国を築いた血脈に加護をお与えになりました。ヴァルティア様から加護を授かったということは、つまり――王家に連なる血を受け継いでいる証なのです」
「え?」
ヴィオラの胸が、大きく揺れた。頭の中で、事実が次々と繋がっていく。
始原精霊ヴァルティアは――循環と生命を司り、王家へ加護を与えた。
そして、始原精霊クロノスは――時と終焉を司り、時守の一族へ加護を与えた。
ヴァルティアの加護を受け継ぐ王家とクロノスの加護を受け継ぐ時守。
始まりと、終わり。
未来を紡ぐ者と、その終焉を見届ける者。
(もしかして……私たちは――対になる存在だったの?)
夢の中で聞いた、ヴァルティアの言葉が脳裏に蘇る。
『大丈夫。……私の子が、あなたをきっと止めてくれるでしょう』
ヴァルティアは、確かにそう言った。
(……それなら、あの言葉は――)
「ユノ!!」
そう考えを巡らせていた、その時だった。目の前にいたユノが、ふらりと身体を揺らした。足元から力が抜けたように、その身体が崩れ落ちた。
ヴィオラは咄嗟に腕を伸ばし、ユノの身体を支えた。
「大丈夫?」
顔を覗き込むと、ユノの顔は真っ青だった。今にも倒れてしまいそうなほど、その身体は小さく震えている。
(どこか、休ませられる場所を……)
そう思った――その瞬間。
「……!!」
その表情が、突然、強張った。見開いた瞳に浮かんだのは、明らかな恐怖だった。
「ヴィオラさん、逃げて!!」
「え……?」
あまりにも切迫した声に、ヴィオラは戸惑う。しかし、言葉の意味を理解するより早く、右眼が熱を持った。
「――っ!」
ドクンと、眼球の奥で何かが脈打つ。
「あ……っ、ああ……!」
熱い。焼けそうだ。まるで右眼の奥へ、灼けた鉄を押し込まれたかのようだった。眼鏡越しでも隠しきれないほどの眩い光が、右眼から溢れ出す。
「ヴィオラさん――!」
「ヴィオラ!」
ユノの悲鳴が聖堂に響き渡ると同時に、ルシアンが駆け寄ってきた。倒れかけたヴィオラの肩を、その腕がしっかりと支える。
「会、長……」
そこまでだった。意識が何かに引きずり込まれるように消える。音も光も、ルシアンの腕の感触さえ、遠ざかっていく。そして――世界が真っ白に染まった。
その白い光の中で、まだ起きていないはずの光景が、濁流のように流れ込んできた。
――――――――
そこは、切り立った巨大な崖に挟まれた、細く険しい街道だった。
吹き抜ける風が岩壁にぶつかり、唸り声のような音を響かせている。ときおり、断崖の上から小石が転がり落ち、そのたびに大地の奥から、かすかな地鳴りが伝わってきた。
リュウール聖堂治療院へ向かう道中にある――双崖の試練の道。
その険しい街道を、一台の豪華な馬車が進んでいた。
黒塗りの車体には、王家の紋章が刻まれている。その周囲を十数名の騎士たちが固め、さらに数人の宮廷魔術師が警戒するように周囲へ視線を走らせていた。
馬車の窓辺には、一人の青年が座っていた。
金色の長い髪。澄んだ碧い瞳。整った顔立ちには、王族らしい気品と、冷静な眼差しが宿っている。
ヴァンヴェール王国の王太子――アルヴェイン・ヴァンヴェール。
「王太子殿下。この道を抜ければ、リュウール聖堂治療院は目前でございます。この先は強風が予想されますので、馬車が大きく揺れる可能性がございます。どうか衝撃にお備えください」
「分かった」
護衛の声に短く答える。その直後、アルヴェインは向かいに座る女性へ視線を向けた。先ほどまでの王太子らしい表情が、ふっと柔らかくなる。彼は彼女の手を取り、包み込むように握った。
「リリー、大丈夫かい? もうすぐ治療院に着く。あと少しだけ、頑張れるかい?」
「ええ、アル。大丈夫よ。それより……私のせいで、寄り道させてしまってごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
アルヴェインは優しく微笑んだ。握った手に、そっと力を込める。
「君のためなら、どれだけ遠回りしたって構わない」
「でも……」
「君が気にすることじゃないよ」
「アル……」
「私にとって、君の身体より大切なものなんてないからね」
リリアーナの頬が、わずかに緩む。
「……ありがとう」
穏やかな時間だった。少なくとも――その瞬間までは。
――ガタンッ!!
「きゃっ!」
突如、馬車が大きく揺れた。
「リリアーナ!」
アルヴェインは咄嗟に彼女を抱き寄せる。
「何があった!」
その直後だった。
――ゴゴゴゴゴゴ……。
低い音が響いた。風の音でも馬車の車輪でもない。もっと深く、地の底から這い上がってくるような、不気味な地鳴りだった。
アルヴェインの表情が一変した。
「……止めろ!」
御者へ向かって叫んだ。しかし、遅かった。
――バキッと、頭上から何かが砕ける音がした。次の瞬間、巨大な岩が崖の上から落ちてきた。
「落石だ!!」
「殿下をお守りしろ!」
「魔術師は結界を展開!」
騎士たちが一斉に動く。馬車が急停止し、幾重もの魔法陣が展開された。
――ドォン!!
最初の岩が結界へ激突する。光が弾け、二つ、三つと落石が続いた。そして、次第に数え切れないほどの岩石が降り注ぐ。
――ガァン!
――ドォン!
「結界に亀裂!」
「張り直せ!」
「無理です! 落石が多すぎます!」
騎士や、魔術師たちの怒号が飛び交う。一刻も猶予もない状況だった。
「リリー、外へ!」
アルヴェインはリリアーナの手を掴み、馬車から飛び降りた。
「……っ」
しかし、逃げ場がなかった。左右には切り立った断崖がそびえ立ち、前方にも後方にも岩が落ち、細い街道を塞いでいく。地面には次々と亀裂が走っていた。
「――まずい……!」
アルヴェインが周囲を見渡す。そのときだった。ふと、頭上に巨大な影が差した。ゆっくりと顔を上げたアルヴェインの瞳が、大きく見開かれた。
崩れた岩盤の奥から、途方もなく巨大な岩塊が姿を現していた。そして、それはまっすぐに、二人のいる場所へ向かって落下してきた。
「――逃げろ!!」
周囲から叫び声が上がる。アルヴェインはリリアーナの手を掴み、走り出した。しかし、
「きゃっ……!」
「リリー!?」
崩れた地面に足を取られ、リリアーナの身体が大きく傾く。弾みで、繋いでいた手が離れた。
「――っ!」
「リリー!!掴まれ!!」
アルヴェインが咄嗟に手を伸ばした。リリアーナも必死に手を伸ばし、二人の指先が近づく。
あと少し。ほんの、あと少しだった。
しかし――その手は届かなかった。
「――――っ!」
――ドォォォン!!
凄まじい轟音が峡谷を揺るがした。視界が一瞬にして土煙に覆われる。アルヴェインが伸ばした手は、何もない空を掴んだ。
「…………リリー?」
土煙の向こうに、彼女の姿はない。アルヴェインの顔から、血の気が引いていく。
「……リリアーナ……?」
返事はなかった。崩れ落ちた岩塊の下に――彼女の姿が消えている。
「…………いやだ」
震える声が漏れる。次の瞬間、アルヴェインはその場に膝をついた。
「――リリアーナぁぁぁぁっ!!」
絶叫が、峡谷中に響き渡った。何度呼んでも、返事はない。ただ、吹き荒れる風だけが、二人の間を無情に通り抜けていった。
――――――――
「――――っ!」
ヴィオラは大きく息を吸った。
途切れていた意識が、一気に現実へ引き戻される。森の中にいるような、地下礼拝堂とヴァルティアの御像。そして、自分を抱き支えているルシアンが視界に映った。
「ヴィオラ!」
「……っ、は……」
身体が震えている。息がうまくできない。何より、右眼が熱い。眼球そのものが焼けているような痛みに、ヴィオラは目元を押さえた。
「ヴィオラ、大丈夫か!?」
ルシアンの顔は、見たことがないほど青ざめていた。しかし、
(今は……私のことなんて、どうでもいい)
伝えなければ。今、見た未来を。そして――助けなければ。
「……会長」
ヴィオラは震える息を整え、ルシアンを見上げた。
「落ち着いて……聞いてください」
「……はい」
「これから、王太子殿下と婚約者のリリアーナ様を乗せた馬車が、リュウール聖堂治療院へ向かいます。その途中で、双崖の試練の道を通ることになります」
ヴィオラは手を握り締め、今しがた視た信じられない光景を口にした。
「そこで、大規模な崖崩れが起きます」
「……!」
「王太子殿下たちは、その崩落に巻き込まれます」
礼拝堂の空気が凍りついた。ルシアンの瞳が大きく見開かれる。
「ヴィオラ……その光景が、視えたのかい?」
「……はい」
ヴィオラは小さく頷いた。周囲の誰もが言葉を失っている。突然そんな話を聞かされれば、信じられないのも当然だ。
未来視。
そんなものを、簡単に信じてもらえるとは思っていない。それでも、迷っている時間はなかった。
あの未来では、リリアーナが岩の下へ消えた。王太子が、その名を叫んでいた。あの悲劇を、現実にしてはいけない。
「……二人が、岩の下敷きになる前に、助けに行きたいんです」
ヴィオラは震える手を握りしめ、その場にいる全員を真っ直ぐ見つめた。
「でも、私一人では何もできません。だから……皆さんの力を貸してください」
そう告げると、ヴィオラはすぐにアルベリヒへ向き直った。
「アルベリヒ院長。この治療院には、すぐに出発できる馬は何頭いますか?」
「……はい」
突然話を振られたアルベリヒは、一瞬驚いたものの、すぐに表情を引き締めた。
「伝令用として、厩舎に五頭を待機させております」
「では、そのうち一頭をすぐに双崖の試練の道へ向かわせてください」
「……何と伝えれば?」
「街道を封鎖するように。王太子殿下の一行が到着する前に、できるだけ早く」
「承知しました」
「残る四頭は、私たちに貸していただけませんか?」
「もちろんです」
迷いのない返事だった。その瞬間、ヴィオラの胸が熱くなる。信じてもらえた。
未来視などという突拍子もないことを語った自分を、誰も嘲笑わなかった。今は、それだけで心強かった。
「ありがとうございます……!」
ヴィオラが頭を下げると、ルシアンが静かに口を開いた。
「ヴィオラ」
「はい」
「兄上の救助には、私たちも向かう。王家の者が危険にさらされているなら、私が行かない理由はない」
その瞳には、迷いがなかった。ルシアンは周囲を見渡し、凛とした声で宣言した。
「皆、準備をしてくれ」
その一言で、礼拝堂にいた者たちの表情が一斉に引き締まった。さっきまで未来の光景に震えていた空気が、今は明確な緊張へと変わっていく。
ヴィオラは小さく息を吸った。まだ、未来は変わっていない。しかし、変えるための一歩は、もう始まっている。ヴィオラは決意を胸に顔を上げた。
「……行きましょう。王太子殿下たちを、助けに」




