第四十話 ユノの視ている世界 1
ステンドグラスを通り抜けた陽光が、色とりどりの光となって聖堂の中へ降り注いでいた。
物心ついた頃から、ここは私の遊び場だった。朝、昼、夕方――時間が移ろうたびに変わっていく光。天井へ向かって伸びる、木々を思わせる柱。そのどれもが、幼い私に一人ではないことを教えてくれていた。
リュウール聖堂治療院に併設された孤児院で暮らしていた私にとって、孤独はいつもすぐ隣にあった。もちろん、ずっと一人だったわけではない。孤児院には、私と同じように親を持たない子供たちが大勢いた。一緒に遊んで、一緒に食事をして、笑い合うこともあった。
それでも――私は、どこか彼らとは違っていた。
多くの子供たちは、聖堂を訪れた参拝者の目に留まり、やがて養子として引き取られていく。ヴァルティア様の御加護を受けられる場所として、この孤児院には孤児を養子に迎えたい人々が多く訪れていた。
けれど――私に、養子の話が持ち上がることは一度もなかった。
仲の良かった子が誰かに引き取られていくたびに、私は笑顔でその背中を見送った。そして、そのたびに胸の奥が痛んだ。
聖堂を訪れた家族の姿も、眩しいほどに目に焼きついた。互いの手を優しく握る姿。心配そうな顔で気遣う、温かな声。治療を終えた子供を、涙を浮かべながら抱きしめる父親と母親。
そんな光景を目にするたびに、私は思い知らされる。
――私には、父も母もいない。家族と呼べる存在が自分にはないのだと。
だから、周りにはいつも大勢の人がいたのに、心の中にはぽっかりとした空白があった。誰かと話していても、笑い合っていても、胸の奥にある寂しさだけは消えてくれない。私の本当の気持ちを理解してくれる人は、どこにもいなかった。
そんな私の心を、いつも静かに受け止めてくれたのが、この聖堂だった。木々を模した大きな柱に囲まれていると、まるで巨大な木の中に包まれているような気がした。ここにいる間だけは、自分の悩みなど、とても小さなものに思えた。
だから私は、何かあるたびにここへ来た。誰にも言えないことを抱えたときも。寂しくて仕方がないときも。ただ、この場所に座っているだけでよかった。
「……また、ここにいるのですね」
聖堂の柱の陰に小さく蹲っていた私に、穏やかな声が降ってきた。顔を上げると、そこには聖堂治療院の院長のアルベリヒ様が立っていた。
「ユノ。あなたに特別なものを見せてあげましょう」
そう言って、アルベリヒ様は聖堂の奥へ続く階段を指し示した。連れて行かれたのは、地下深くに造られた礼拝堂だった。重い扉が開かれる。その向こうに広がっていた光景を見て、私は思わず息を呑んだ。
――そこには、小さな森があった。
地下にあるとは、とても思えない。白い石で造られた細い木々が幾本も立ち並び、枝を天井へ向かって伸ばしている。その天井には、淡い光を放つ無数の鉱石が埋め込まれていた。
きらきらと瞬く光は、まるで夜空に浮かぶ星々のようだ。その光を受けて、枝葉の隙間から淡い銀色の輝きがこぼれ落ちている。その光景は、星明かりに照らされた森の中に迷い込んだようだった。
足元には浅い水路が流れていた。透明な水が石床に刻まれた細い溝を伝い、さらさらと静かな音を響かせている。そして、その水辺には――白い花が咲いていた。
無数の花に囲まれるようにして中央に、一体の御像が佇んでいた。その御像は、森の中に降り立った精霊のような姿だった。白い衣をまとった精霊は、どこまでも穏やかで、優しい笑みを浮かべている。
「……きれい」
思わず、声がこぼれた。その瞬間だった。水辺に咲いていた白い花が、一斉にふわりと舞い上がった。
「……え?」
風など吹いていない。それなのに、花びらは私のもとへ集まってくる。ひらり、ひらりと舞いながら、白い花びらが身体の周りを優しく包み込んだ。
そして――淡い光を放ったかと思うと、そのまま空気に溶けるように消えていった。
何が起こったのか分からなかった。私はただ呆然と立ち尽くし、それから隣にいたアルベリヒ様を見上げた。すると、彼は少しだけ目を細めて、静かに微笑んだ。
「……ここで起こったことは、誰にも話してはいけませんよ」
その言葉の意味を、幼い私はまだ理解できなかった。
その日を境に、私は不思議なものが見えるようになった。
人の身体の周りに浮かぶ、色とりどりの光。赤い光をまとっている人もいれば、青い光を浮かべている人もいる。いくつもの色が混ざり合っている人もいれば、二重、三重になって見える人もいた。
健康な人の光は、明るく穏やかに輝いている。けれど、治療院を訪れる人たちは違った。光が弱々しかったり、ところどころ途切れていたりする。中には、砂時計の砂が落ちていくように、少しずつ光が失われていく人さえいた。
その光景を見ているうちに、私はいつしか直感的に理解していた。――私に見えているものは、その人の魔力や、残された命の時間なのだと。
それに気づいてから、私は積極的に治療院の手伝いを申し出るようになった。自分にしか見えないものが、誰かの役に立つ。それが、ただ嬉しかったのだ。
病気や怪我をしている人を見れば、どこが悪いのかを見つけることができる。けれど、それだけだった。
私には、傷を治す術がなかった。それに、子供である私の言葉を、治療院の治療師たちは簡単には信じてくれなかった。『ここが悪いみたいです』と伝えても、怪訝そうな顔をされる。何度も手伝いを申し出るうちに、いつしか『余計なことをしないで』と言われるようになった。
私は、ただ誰かの役に立ちたかっただけなのに。
それでも、どうすることもできなかった。やっぱり、私は一人なのだ。そう思い始めた頃だった。
「ユノさん? どうしたのですか?」
治療院の裏手にある小川のほとりで、ひとり蹲っていた私に、優しい声が降ってきた。顔を上げると、そこに立っていたのは黒縁の眼鏡をかけ、髪を二つに結んだ女性だった。
「……ユリアさん」
彼女は、領主様のお屋敷に仕える侍女だった。
治療院へ定期的に、薬草の仕入れに来る。その度、私たちのために小さな差し入れまで持ってきてくれた。そして、何より私のことを気にかけてくれていた。
その顔を見た瞬間だった。ずっと胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「……大丈夫ですよ」
ユリアさんは、泣き出した私の隣にそっと腰を下ろした。
「ゆっくりでいいのです。私でよければ……お話を聞かせてください」
その言葉が、嬉しかった。誰かに話を聞いてほしかった。誰かに、自分のことを分かってほしかった。私は、それまで胸の奥に溜め込んでいた思いを、ひとつずつ吐き出していった。
ユリアさんは、途中で口を挟むこともなく、ただ黙って私の話に耳を傾けてくれていた。やがて、すべてを話し終える。泣き疲れて俯いていた私に、ユリアさんは静かに告げた。
「……それなら、私が治療術をお教えしましょう」
「……え?」
思いもしなかった言葉に、私は顔を上げた。ユリアさんは、いつものように優しく微笑んだ。
「ただし、治療院の皆さんには秘密ですよ?」
その日から、私の世界は少しずつ変わっていった。ユリアさんは治療院を訪れるたび、誰にも気づかれないように時間を作って、私に治療術を教えてくれた。
私に初めて、『できること』を与えてくれたのは――ユリアさんだった。
ユリアさんに教えてもらったおかげで、私は少しずつ治療術を身につけていった。周囲の治療師たちは、子供の私が治療術を使えることを怪訝そうに見ていたけれど、もう気にはならなかった。
やがて、院長の計らいで、治療院を訪れる患者さんの治療を任せてもらえるようになった。
自分にも、誰かの役に立てることがある。その実感は、少しずつ私の中に自信を育てていった。いつしか私は、寂しくなるたびに聖堂へ逃げ込むこともなくなっていた。
そうして、私は十五歳になった。
結局、私を養子に迎えてくれる人は現れなかった。けれどもう、寂しいとは思わなかった。私には、ここに居ていいと思える場所があった。こんな自分を、必要としてくれる人たちがいた。
それだけで、十分だった。
そして、学園へ入学して間もないある日のこと。
「君、治療魔法が使えるんだって?」
声をかけてきたのは、生徒会長だった。
「よかったら生徒会に入って、私の手伝いをしてくれないだろうか?」
自分の力を必要としてもらえたことが、素直に嬉しかった。けれど新しい場所で、何もかもが順調だったわけではない。
「平民風情が生徒会入りなど、思い上がりも甚だしいですわ!身の程というものを教えて差し上げます!」
貴族の令嬢たちにとって、平民である私はどうにも気に入らない存在だったらしい。廊下で呼び止められたり、嫌味を言われたり。時には、何人かに囲まれることもあった。
そして、ある日のことだった。
「さあ――覚悟なさい!」
気づけば私は、噴水の縁へと追い詰められていた。このまま突き落とされる。そう思って、思わず目を固く閉じた。
――ばしゃーん!!
大きな水音が響いた。けれど、いつまで経っても水の冷たさはやってこなかった。
恐る恐る目を開ける。
「…………え?」
噴水の中で、ずぶ濡れになっているのは私ではなかった。さっきまで私に詰め寄っていた令嬢が、水の中で呆然としている。
何が起こったのか分からず、私はただ立ち尽くした。その時、水面の向こうに淡い光が揺れていたのが見えた。
虹色の魔力の残滓だった。
赤、青、緑、金――いくつもの色が混ざり合い、今まで見たことがないほど鮮やかに輝いていた。私は、息をするのも忘れて、その光を見つめていた。
これまで、たくさんの人の光を見てきた。強い光も、弱い光も、消えかけた光も。
けれど、こんな色は初めてだった。
美しくて、不思議で。
なぜか、胸の奥から目を離せなくなる。
その虹色の光は――それからずっと、私の心から消えることはなかった。




