第三十九話 リュウール聖堂治療院 3
「そのブナの森は、一夜にして消えてしまったのです」
アルベリヒのその言葉に、静寂が聖堂を支配した。理解が追いつかず、誰もすぐには言葉を返せなかった。聖堂の高い天井から差し込む光だけが、床の上で淡く揺れている。
「……消えたとは?」
「言葉の通り忽然と森が無くなってしまったのです。木々一本も残っていませんでした。まるで、最初からそこにはブナの森など存在していなかったかのように……」
(もしかして、その森って……)
ヴィオラの胸が、大きくざわめいた。脳裏に浮かんだのは、幼い頃に見た懐かしいブナの森だった。母に何度もせがんで、ようやく叶えてもらった願いだった。
『お母様、お願い。切られそうなブナの森を助けて!』
ブナの木を救うため、時守の里の魔術師たちは数十人がかりで転移魔法を行使した。一本ずつではない。森そのものを、この地から別の場所へと移したのだ。幼かったヴィオラにとって、それはただ『ブナの木を助けた』という記憶だった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
(まさか……あそこが、ヴァルティア様の住処だったなんて)
「ですが、ブナの森が消えたことは、まだ始まりにすぎなかったのです。本当の悲劇は、その翌日に起こりました」
「悲劇?」
「ええ、その翌日から大雨が降ったのです。長雨によってブナの森のあった山の地盤が緩み、大規模な土石流が発生しました」
アルベリヒは静かに答えた。
「土砂は谷を下り、村を呑み込みました。家々も畑も、ほとんどすべてが流され……村は、やがてできた湖の底へ沈んだと伝えられております」
「……そんな」
ヴィオラの唇から、かすかな声が漏れる。指先に冷たい感覚が走った。呼吸が知らず知らずのうちに浅くなり、頭の中まで霞がかったように、くらりと揺れた。
「唯一無事だったのは、崖の上に建てられた教会だけでした。難を逃れた村人たちは、教会から湖に沈んだ村を見て、やっと気付きました。『ブナの木は役立たずなんかじゃない。山の水はけを良くし、自分たちを災害から守ってくれていたのだ』と……」
「全ての結果には、必ず原因があるのです」
アルベリヒが天井を見上げ、石の森を静かに見つめて諭すように言った。
「因果応報という言葉があります。『良い行いをすれば幸せが、自分勝手な行いをすれば、災いが自分に返ってくる』という意味です」
「人々は、『人の欲によって森を傷つけようとしたため、ヴァルティア様の怒りを買ったのだ』と考えました。その怒りを鎮めるため、そして愚かな人間の過ちの犠牲になった命の鎮魂のため、このブナの森を模した聖堂を建て、崖の上の教会からヴァルティア様の像を移動しました」
「それが、この聖堂の始まりです」
木々のように枝分かれした柱。木漏れ日のようなステンドグラス。白い花々を思わせる装飾。そのすべてが、かつて存在したブナの森を模して造られていた。
「失われた森を、石と光によって再現したのです。森を切り拓くのではなく、森と共に生きる。その誓いを、形として残すために」
ヴィオラは頭を殴られたような衝撃を受けた。
(……私が、あの森を動かしたから?)
幼い日の記憶が、今になって別の意味を持って蘇ってくる。まさか、自分の行動が引き金となり、村そのものが消えてしまうほどの悲劇へと繋がっていたなんて、知らなかった。
あのブナの木を救いたかった。ただ、それだけだった。それでも、今になって知ってしまった真実に、ヴィオラは胸の奥に生まれた痛みを押し込むことはできなかった。
「ヴィオラ、大丈夫かい?」
隣にいたルシアンが気遣うように問いかける。そしてヴィオラだけに聞こえる声でそっと囁いた。
「ヴィオラのせいじゃない。あのままじゃ、村人たちは木を切り倒していた。どちらにせよ、湖の底に沈む運命だったんだよ」
「えっ?」
ヴィオラは慌ててルシアンの顔を見た。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「ヴィオラのお陰でブナの森は無事だったんだ」
「会長、なぜそれを……」
思わず声を上げたヴィオラに、ルシアンは一瞬だけ目を細めた。その時だった。
「これは……これは一体どういうお話でしょう!!」
突然、背後から弾むような声が響いた。ヴィオラが振り返ると、聖堂の中央で目を輝かせながら周囲を見回しているエレノアの姿があった。
「見て下さいというお話!」
エレノアは、まるで宝物を見つけた子供のような勢いで、はしゃいでいた。
「エレノアどうしたの?」
呆れたようにセシリアが近づくと、エレノアは両手を広げ、聖堂の奥を指し示した。
「七つの礼拝堂が、中央を起点に放射状に配置されているというお話」
その言葉に、皆改めて周囲を見渡した。先ほどまでは聖堂そのものの美しさに目を奪われていたため気づかなかったが、中央の祭壇を中心として、七本の通路がそれぞれ異なる方向へ伸びている。その先には、一つずつ独立した礼拝堂が設けられていた。
「しかも、ただ七つ並べただけではありません!それぞれの通路の幅、柱の間隔、天井の高さまで、ほぼ同じ比率で設計されています。中央を起点として七方向へ均等に力が分散する構造……。この建築様式、まるで巨大な魔法陣そのものというお話です!」
エレノアは興奮した様子でまくし立てる。そんな彼女を感心したように眺めながら、アルベリヒが目を細めて言った。
「ほう。よく気が付きましたね。この聖堂の設計には、ある一族の魔術技術が取り入れられていると言われています。もっとも、現在ではその詳細を再現できる者はほとんどおりませんが」
「やはり!では、この七つの礼拝堂そのものが巨大な魔法陣として機能している可能性も――」
「否定はできません。ただし、現在の私どもには、その仕組みを完全に理解することはできません。記録によれば、七つの礼拝堂はそれぞれ異なる魔力の流れを受け持ち、中央の祭壇へと集める構造になっているそうです」
「……素晴らしいお話!」
エレノアの瞳が、いっそう輝きを増した。アルベリヒは、その反応を微笑ましそうに眺める。
(魔力の場所が集まる場所……)
ヴィオラは、改めて七つの礼拝堂を見渡した。七本の道はそれぞれ異なる方向へ伸びているのに、その先はすべて中央へと繋がっている。それは何かに似ていた。既視感を感じたヴィオラは、静かに呟いた。
「七つの流れが……中央へ。まるで、七本の川が一本の大河へと集まっていくようです……」
「ええ。その捉え方が、一番近いかもしれません」
アルベリヒが穏やかに微笑んだ。
「この聖堂が建てられた頃の人々は、時間もまた、同じように流れていくものだと考えていたようです」
「時間も……?」
「はい。始まりがあり、終わりがある。そして、その間をひとつの流れとして進んでいく――そう考えられていたのでしょう」
ただ美しいだけではない。そこには、時間というものに対する人々の思想が、形となって刻まれているように思えた。
「では……ヴァルティア様の御像も、どこかに安置されているというお話でしょうか?」
エレノアが、ふと思い出したように尋ねるが、アルベリヒはすぐには答えなかった。ほんのわずかな間を置いてから、静かに頷く。
「ええ。ございます」
「こちらの礼拝堂に?」
「いいえ。ヴァルティア様の御像は、この七つの礼拝堂には安置されておりません」
「……え?」
ヴィオラも思わず聞き返した。始原精霊を祀る聖堂なのだから、中央祭壇か、あるいは七つの礼拝堂のどこかに御像があるものだと、当然のように思っていた。
「では……どちらに?」
ルシアンが尋ねる。するとアルベリヒは、聖堂の奥――中央祭壇のさらに向こうへと視線を向けた。
「この聖堂には、一般の信徒には決して知らされていない地下がございます」
「……地下?」
その言葉を境に、アルベリヒの表情から先ほどまでの穏やかな笑みが消えた。声も、わずかに低くなる。
「ええ。地下に造られた、もうひとつの礼拝堂です」
「地下礼拝堂……」
「そこは、この七つの礼拝堂とは少し性質が異なります。七つの礼拝堂が『人々が歩む時間』を表しているとすれば――地下礼拝堂は、そのすべての時間を見守る場所だと伝えられております」
ヴィオラの胸が、かすかにざわめいた。
「……すべての時間を?」
「ええ。私たちはそこを『時の根』と呼んでいます」
「時の……根……」
「七つの礼拝堂が枝だとすれば、地下礼拝堂はその根にあたる。根がなければ幹も枝も葉も育ちません」
森のような聖堂に、枝のように分かれる柱と七つの礼拝堂。そして――地下にある根。まるで、この建物そのものが一本の巨大な樹木であるかのようだった。
「では、その地下にヴァルティア様の像が?」
「はい。ただし、普段は誰も立ち入ることを許されておりません。しかし、今日は殿下の視察ということで特別にお見せします。どうぞ、こちらです。」
「なんて素晴らしいお話!」
エレノアの歓喜の声に苦笑いしながら、アルベリヒの後に、一行も続いた。
七つの通路が交わる中央を抜け、さらに奥へ進むと、やがて一般の礼拝堂とは異なる、古びた石造りの階段が姿を現した。
その先には、重い鉄の扉があった。扉には、七つの輪を重ねた聖堂の紋章と、その中央に一本の細い線が刻まれている。アルベリヒが懐から古い鍵を取り出して扉に差し込む。
かちり、と鍵が回り、重い音を立てて扉が開いた。
冷たい空気が、階段の下から流れ上がってきた。かすかに水の流れる音が聞こえる。
「ヴァルティア様の御像をご覧になる前に、皆様にひとつ、心に留めておいていただきたいことがございます」
「それは、なんですか……?」
ルシアンが眉を寄せる。静かな地下礼拝堂へ続く階段を前に、一行の間には、自然と張り詰めた空気が漂っていた。
「これから目にするものに、どうか驚かないでください」
アルベリヒはしばらく黙って皆を見つめ、それから慎重に言葉を選ぶように告げた。
「ヴァルティア様の御像は、見る者によって……そのお姿が異なるのです」
「……え?」
その瞬間、誰もが息を呑んだ。思いがけない言葉に、誰一人として口を開くことができなかった。
「もちろん、像そのものが動いたり、形を変えたりするわけではありません」
「同じ御像を見ているはずなのに……なぜか、人によってお姿が違って見えるのです」
「そんなことが……」
セシリアが目を丸くした。
「ええ。古い記録にも、幾度となく記されております」
前を歩くアルベリヒの穏やかな声を聞きながら、一行は一歩ずつ、その深い場所へと降りていった。
「ある者には、若く美しい女性に」
「ある者には、母を思わせる女性に」
「またある者には、どこか悲しげな女性に」
「そして、ごく稀に――『自分が最も必要としている姿に見えた』と、語る者もいるのです」
(自分が、最も必要としている姿……)
ヴィオラの胸が大きく跳ねた。なぜだかその言葉だけが、妙に胸の奥へ引っかかった。
「……では、皆様には――いったい、どのようなお姿に見えるのでしょうね?」
地下から漂うひんやりとした空気が、ヴィオラの頬をそっと撫でる。普通であれば不安を覚えてもおかしくない場所なのに、ヴィオラはなぜか、恐怖を感じなかった。むしろ、胸の奥に不思議な安らぎが広がっていく。
やがて、奥へと進んでいたアルベリヒが足を止めた。
「こちらが始原精霊――ヴァルティア様の礼拝堂でございます」
扉が開かれたその瞬間、ヴィオラたちは、言葉を失った。扉の向こうに広がっていたのは――小さな森だった。
木々の間から淡い光が降り注ぎ、どこからともなく水のせせらぎが聞こえている。地下深くにあるはずなのに、そこだけがまるで別の世界のようだった。




