第三十八話 リュウール聖堂治療院 2
馬車はゆっくりと谷を下っていた。先ほどの双崖での強風が嘘のように、爽やかな風が吹き、優しく木々を揺らしていく。
リュウール聖堂治療院に近づくにつれ、全貌が次第にはっきりと見えてきた。中心にそびえ立つ礼拝堂には、白亜の壁に細やかな彫刻が施され、幾つもの大きな尖塔が青空へ向かって伸びている。その横に、レンガ造りの鳶色の建物が連なっていた。
「礼拝堂の隣にある建物が、リュウール聖堂治療院と、孤児院です」
三階建ての立派な建物の周囲には、白い花が一面に咲き誇っていた。その花々の間を縫うように澄んだ水が流れ、細い小川となって建物の脇を静かに下っている。
陽光を受けた水面が、きらきらと眩しいほどに輝いていた。
「……綺麗な場所ね」
ヴィオラが思わず呟くと、ユノは嬉しそうに微笑んだ。
「はい! 私も大好きな場所です。ヴィオラさんに褒めていただけると、なんだか自分のことまで褒めてもらえたようで嬉しいです!」
「まあ……」
花が咲いたような笑顔。その無邪気な表情を向けられ、ヴィオラの胸がきゅんと鳴った。
(……尊い)
なんて可愛い子なのだろう。もうすっかり、ユノのファンになってしまっている自分を自覚する。
「……ユノは、ここで育ったのよね?」
「はい。小さい頃から、ずっとここで暮らしていました。治療院の方々には、本当の家族のように育ててもらったんです」
「そうだったの……」
「だから、こうして戻ってくると、少し不思議な気持ちになります」
ユノは窓の外を眺めながら、懐かしそうに目を細める。その視線は、遠い過去を見つめているようだった。
「前と何も変わっていないようにも見えるのに……なんだか、少しだけ違って見えるんです」
「……どうしたの?」
ヴィオラが尋ねると、ユノはしばらく黙っていた。やがて、ふっと微笑む。
「……いえ。なんでもありません」
そう言って笑うユノを見つめながら、ヴィオラは胸の奥で静かに思った。きっと、ユノには――彼女にしか見えない何かが見えている。自分にも、そういうものがあった。
幼い頃から過去や未来を見るたびに、周囲には理解してもらえない感覚を抱えてきた。見えてはいけないものを見てしまったような恐怖。誰にも話せない秘密を抱えているような孤独。そして、次に何が見えてしまうのか分からない緊張感。
眼鏡で自分の姿を隠すようになってからは、それに加えて、いつ正体が露見するのかという不安まで抱えるようになった。人の視線が怖かった。自分が排除された人種だと、知られることが怖かった。
だから、いつもどこかで身構えていた。心から気を抜ける瞬間など、ほとんどなかったのだ。
(……少しでも、ユノの力になりたい)
滅ぼされた一族の生き残りである自分には、もう居場所などない。ずっと、そう思っていた。義父に迷惑をかけないよう、ひっそりと生きていくしかないのだと。
けれど――。
ほんの少しだけ勇気を振り絞り、一歩踏み出して、眼鏡を外した。危険も隣り合わせの情況なのに、その先で理解してくれる人たちに出会った。自分の力を恐れずに受け入れてくれる。弱さを見せても、そばにいてくれる。何気ないことで笑い合える。そして――誰かを大切に思う気持ちを、教えてくれた人たち。
ユノも、その中の一人だった。
「……いつでも、どんなことでも、話を聞くからね」
そっと、ユノの手を握り締めると、ユノの目が大きく開かれる。そして、ふっと細められた。
「……はい。ヴィオラさん、ありがとうございます」
ユノが抱えているものは、分からない。けれど、もし彼女が自分と同じように誰にも言えない何かを抱えているのなら、今度は自分がその孤独に寄り添いたい。与えてもらった温かさを、今度は誰かへ返していきたい。それが、今の自分にできる恩返しだ。そう思いながら、ヴィオラは再び窓の外へ目を向けた。
やがて馬車は、白い石畳の上へと乗り込んだ。コツン、コツン、と車輪が石を踏む音が響き渡る。正面玄関へ続く大階段の前で、馬車が静かに停止した。
「到着しました」
ザイデルバストの声が響く。扉が開かれると、涼やかな風が車内へ流れ込んできた。足元には白い花びらが散っている。どこからか、鐘の音が聞こえてきて、澄んだ音色が谷間へ広がり、幾重にも反響していった。
「お待ちしておりました、ルシアン殿下」
大階段を上りきったところで、数名の聖職者たちが一斉に頭を下げた。
その中央に立っていたのは、白と淡い金色を基調とした法衣をまとった初老の男性だった。胸元には、七つの輪を重ねた聖堂治療院の紋章が刻まれている。
「遠路のところ、当院へお越しいただき、誠にありがとうございます。私、リュウール聖堂治療院の院長を務めております、アルベリヒと申します」
「こちらこそ、急な訪問となってしまい申し訳ありません。出迎えに感謝します」
「滅相もございません。殿下をお迎えできますこと、当院にとりましても光栄の至りでございます」
アルベリヒは深く一礼すると、その視線を一行の中へと移した。そして、ユノの姿を認めると、緊張した面持ちを少し緩めた。
「……おお、ユノ」
「院長様、ご無沙汰しております」
ユノも慌てて背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。
「ええ。よく戻ってきましたね。学園での生活はいかがですか」
「はい。おかげさまで、毎日楽しく過ごしています」
無邪気で自然体に笑うユノに、ここが彼女にとって、飾らない自分でいられる大切な場所なのだと感じた。
「それは何よりです。殿下のもとで、生徒会の役目も務めていると伺っております」
「ええ、ユノには日頃から大変助けられています。中でも治療術の腕前は、まさに目を見張るものがあります。彼女の卓越した技量を拝見しておりますと、こちら聖堂治療院における教育とご指導の素晴らしさが、よく窺えます」
「殿下……」
院長は静かにルシアンの言葉へ耳を傾けていた。ユノは思いがけない称賛に、顔を真っ赤にして俯いた。
「それは……ありがたいお言葉でございます。ユノがこのように立派に成長した姿を拝見でき、私どもも嬉しく存じます」
アルベリヒは感慨深げな顔で、改めてユノを見る。優しそうな瞳には、幼い頃から彼女を見守ってきた者だけが持つ、深い慈愛が滲んでいた。
ユノは顔を上げると、真っ直ぐにルシアンを見つめ、一礼した。
「ありがとうございます。これからも、お役に立てるよう努めてまいります」
「ええ。期待しています」
ルシアンが頷く。そのやり取りを見ていたアルベリヒは、満足そうに目を細めた。
「それでは、せっかくの機会です。まずは聖堂をご案内させていただきます」
アルベリヒはそう言って、聖堂の大扉へ向き直る。重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。その向こうから、淡い光が差し込んでくる。
「こちらが、リュウール聖堂でございます」
「……っ」
聖堂の中へ足を踏み入れた途端、ヴィオラは息を呑んだ。
そこは、まるで『石の森』だった。堂内の高い天井へ向かって伸びる無数の柱。その一本一本は、単なる石柱ではない。幹のように太く、途中から幾本もの枝へと分かれ、天井を支える梁へと繋がっている。
まるで巨大な樹木が何本も天へ向かって伸び、その枝葉が聖堂そのものを形作っているかのようだった。
壁一面に嵌め込まれたステンドグラスは、普通の聖堂にあるような絵画ではない。幾何学模様の幾重にも重なったガラスが、木漏れ日のような光を床へ落としている。風が通り抜けるたび、その光がゆらりと揺れとても幻想的な空間だった。
「……森みたいだわ」
思わず呟くと、院長が静かに頷いた。
「はい。この聖堂は、始原精霊ヴァルティア様が最初に人々の前に現れた場所を、建築そのものに取り入れているのです」
「……森がですか?」
ルシアンがその言葉に反応した。
「はい。神話では、まだ昼と夜の境目が曖昧で、未来と過去が混ざり合い、時の流れすら安定していなかった時代に、天空より火・水・風・土・星・時の六柱の始原精霊が現れたとされています。彼らはこの世界へそれぞれの力を分け与え、現在の世界を形作る法則を創ったと伝えられているのです」
「その中でも、星の力を持つ始原精霊、ヴァルティア様は生命と循環を司っておりました。穏やかで慈愛に満ち、人を愛した彼女はヴァンヴェール王国を創り、人と精霊が共存できる世界を願ったとされています」
アルベリヒは、静かに聖堂の奥へと視線を向けた。
「そして、ヴァルティア様が人々の前に現れた場所こそ、この地方に残る古いブナの森だったと伝えられております」
「……え?」
ヴィオラの胸が、小さく跳ねた。ブナの森。その言葉を聞いた瞬間、脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。川を渡り、丘を越えた先にあった、あの森。まっすぐに伸びた美しい白銀色の幹。木々の隙間から降り注ぐ陽光。風が吹くたびに揺れる葉。幼いヴィオラにとって、そこだけが世界から切り離されたような、不思議な場所だった。
「この近くには、かつて一つの小さな村があったのです」
アルベリヒの声が、遠い記憶を追いかけるように続いていく。
「その村には、古くからヴァルティア様にまつわる伝承が残されておりました。村の教会には、ヴァルティア様と、もう一柱――時と終焉を司る精霊、クロノス様の像も並んで祀られていたそうです」
「クロノス……」
その名に、ヴィオラはわずかに反応した。
「はい。二柱は対となる存在として伝えられていたようです。ヴァルティア様が生命と未来を象徴するなら、クロノス様は――時と終焉を象徴する存在として……」
アルベリヒはそこで言葉に詰まる。聖堂の中に、静かな緊張が生まれた。
「ところが、ある年のことでした。村人たちは、ブナの森を伐採しようとしたのです」
「どうしてですか……?」
セシリアが思わず尋ねる。
「ブナの木は水分を多く含み、建築材には適さないと考えられておりました。ならば、木を切り倒して別の用途に使おう――そう考えたのでしょう」
「村人たちは、ヴァルティア様が宿るとされていた森を、人の都合だけで切り拓こうとしたのです」
ヴィオラは黙って聞いていた。そうだ。あの男の子は、木が切られることを悲しみ、泣いていた。あの森を、幼い頃の自分は何も知らずに歩いていた。
「ところが、伐採を始めると決めた翌朝、ブナの森は消えたそうです」
「……消えた?」
「ええ、木々一本残さず。まるで、最初からそこには森など存在していなかったかのように」
アルベリヒは、静かに言葉を継いだ。
「一夜にして、跡形もなく消えてしまったのです」




