第三十七話 リュウール聖堂治療院 1
規則正しく響く車輪の音が、心地よく耳に届いていた。ゆるやかに揺れる馬車の中、ヴィオラは窓の外へ目を向ける。
なだらかな丘陵が幾重にも連なり、その間を街道がゆっくりと伸びている。穏やかな景色を眺めているうちに、やがて遠くに家々が見え始めた。小高い建物もいくつか立ち並び、その向こうに街が広がっている。
(まだまだ先は長そうね……)
「……ふふふふ。この馬車にも、王家の馬車と同じような特殊な駆動魔術が車輪に施されているというお話。いや、これは魔術というより、魔道具に近いのでしょうか?車軸や歯車の動きを滑らかにする術式に、地面の衝撃を和らげる為の浮遊の術式まで組み込まれている……ふふふ。すごい、すごい……こんな術式、王都でも滅多にお目にかかれません……」
「…………」
隣では、エレノアがぶつぶつと呟きながら、窓から身を乗り出して車輪を覗き込んでいた。どうやら彼女にとっては、馬車での移動すら貴重な研究対象らしい。その研究者魂には、もはや感心するしかなかった。
そんなエレノアを眺めていると、ふと街の奥へ視線が向く。遠くに、小高い崖がそびえていた。リュウール聖堂治療院は、あの崖を抜けた先にあるらしい。
(ヴァルティアの七つの時間の流れ……そして、固定された時間)
今朝視た過去視の光景が、脳裏に蘇る。
(リュウール聖堂治療院へ行けば、時蝕の原因について、何か手がかりを掴めるかもしれない……)
『私の中にある七つの時間の流れる道を、ほんの少しずらし、時の綾を織りなおしたのです』
ヴァルティアが未来を織り直したことで生まれた、時間の流れ。そして、時蝕は時間が固定され、その流れに歪みが生じたときに起こる。最近まで使われていた痕跡の残る、学園の地下実験施設を考えても、誰かが意図的に『時間を固定』していることは明らかだった。
しかし――
(それをしているのは、“誰”なの……?)
『私の子が泣いていたのです』
あの言葉が、胸の奥に引っかかる。まだ、手元にあるのは断片的な情報だけだ。それでも、少しずつ、この世界で何が起きているのか、その輪郭が見え始めている。
(……もし、時守の一族が本当に王家の『未来固定計画』に加担していたのだとしたら――)
そこまで考えた瞬間、胸の奥がざわめいた。
(時守の生き残りが……まだ、どこかにいるかもしれない)
希望と不安が心の中に入り混じっていた、その時だった。ふと、誰かの視線を感じた。ヴィオラは顔を上げると、正面に座るルシアンと目が合った。
「……っ」
心臓が、どくんと大きく跳ねる。なぜだろう。ただ目が合っただけなのに、妙に気恥ずかしい。ヴィオラは慌てて視線を逸らした。
けれど、慌てて逸らしてしまったことがかえって気まずく感じられ、どうしていいのか分からなくなる。そんなヴィオラの様子を見ていたセシリアが、ふっと口を開いた。
「……それにしても、今朝のアージェンは凄かったわよね」
「え?」
思いがけない話題に、ヴィオラが顔を上げる。 その一言をきっかけに、六人乗りの馬車の中に苦笑が広がった。
「ああ。やっと目を覚ましたばかりだというのに、ヴィオラ嬢について行こうとするんだからな」
ガルディアスが、呆れとも感心ともつかない表情で言う。無理もない。今朝、聖堂治療院へ向かうためエントランスに集まっていたところ、階段の上から突然、アージェンの声が聞こえてきたのだ。
『……義姉さん。僕も連れて行ってくれない?』
『アージェン!?』
振り返ると、まだ足元もおぼつかないアージェンが、階段を降りようとしていた。ヴィオラは慌てて駆け寄った。するとアージェンは、どこか切なげな顔でヴィオラを見つめる。
『ねぇ、嫌な予感がするんだ。義姉さんが心配で、寝てなんていられない。僕はもう大丈夫だから……お願い』
あのときの必死な表情を思い出し、ヴィオラは思わず苦笑した。
「本当に困った子でした……」
「まだ治療の途中だというのに姉君について行こうとするとは、タフな男だ」
「それだけヴィオラのことが大切なのよ」
セシリアが、微笑ましそうに笑う。その瞬間、ルシアンの頬がぴくりと動いた。
「私だって、ヴィオラが大切だ」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、ヴィオラの胸がきゅっと締めつけられた。 一気に頬へ熱が集まり、いたたまれなくなって視線を逸らす。
「あのね……あなたの、そういうところが駄目なのよ」
セシリアが呆れたようにため息をついた。エントランスでも、ルシアンはアージェンに対して、同じように真っ直ぐ言い放ったのだ。
『私がヴィオラを守る。だから、安心していい』
――それが、完全に裏目に出た。『義姉さんのことは僕が守る』と言わんばかりに、アージェンは何としてもついて行くの一点張り。
ついには話がまとまらなくなり、ガルディアスまで同行を申し出ることになった。本来なら、彼も今日はサクスム子爵領へ戻る予定だったというのに。
それでも、アージェンは納得しなかった。そこでザイデルバスト先生が、とうとう黙っていられなくなった。
『それならば、私がついて行こう。おや、リュウール伯爵令息。私がいるのだから、心配だ。などとは言わないだろうね?』
『…………』
アージェンの完敗だった。アウレア魔法学園の教師にそう言われてしまえば、さすがに反論できない。
『アージェン様、私も一緒に参りますから、どうかご安心ください』
最後はユリアにも諭され、アージェンは渋々部屋へ連れ戻されていった。思い返すほどに、申し訳ない気持ちになる。
「ルシアンが余計なことを言わなければ、ガルディアスもザイデルバスト先生も巻き込まずに済んだのよ」
「……おや。まるで私が悪いような言い方だね」
ルシアンは涼しい顔で肩をすくめた。
「私は弟君を安心させようとしただけだよ。悪いのは、姉離れのできない彼のほうでは?」
「アンタねぇ……」
呆れたようなセシリアの声に、ヴィオラは思わず吹き出した。完璧な生徒会長が、副会長に叱られている。こんな光景は、なかなか見られるものではない。
くすくすと笑っていると、それにつられるように馬車の中にも笑い声が広がった。さっきまで感じていた緊張が、いつの間にかすっかり消えている。
「ガルディアス先輩も、領地へお帰りになるところだったのに……すみません」
ヴィオラが申し訳なさそうに頭を下げると、ガルディアスは気にするなとばかりに両手を広げ、豪快に笑った。
「気にするな、ヴィオラ嬢。一日くらい日程がずれたところで、何の支障もない」
「ありがとうございます」
その言葉に、ヴィオラはほっと胸を撫で下ろした。すると、セシリアがふと思い出したように首を傾げる。
「それにしても、シオンがついてこないのが不思議よね〜」
「あ……」
確かにそうだった。シオンにも声をかけたのだが、『僕は、メイドの子とデートの約束をしちゃったから、パスで〜。みんな、気をつけて行ってきてね〜』そう言って、手をひらひらと振りながら、どこかへ行ってしまったのだ。
「……あいつは風のように気まぐれな奴だからな」
ガルディアスが、呆れたように呟く。そのときだった。
「みなさん、そろそろ『双崖の試練の道』が見えてきますよ」
窓の外を眺めていたユノが、声を上げた。ヴィオラもつられて窓の外へ目を向ける。
なだらかだった丘陵は次第に途切れ、街道も少しずつ幅を狭めていた。 賑やかな街並みを抜けると、遠くに見えていた崖が、少しずつその姿を大きくしていく。
「双崖の試練の道……」
ユノの言葉を繰り返しながら、ヴィオラは前方を見つめた。
そして――誰もが息を呑んだ。
目の前にそびえ立っていたのは、天を突くほど巨大な二つの断崖だった。左右から迫りくるように切り立った岩壁。その狭間には、聖堂治療院へと続く一本の細い道が伸びている。まるで、大地そのものが大きく裂けてしまったかのようだった。
「すごい……」
「ここは、通称『双崖の試練の道』です。その名の通り、絶え間なく強風が吹き荒れる危険な場所です」
真剣な顔で説明するユノに、御者席にいるザイデルバストとユリアから声がかかった。
「我々が結界を張り、強風を抑え込む。しかし、予期せぬ風圧がかかる可能性がある」
「みなさん、念のためです。窓は閉め、急激な揺れに備えて下さい」
その言葉にエレノアは肩を落とした。
「えー!ザイデルバスト先生の結界を間近で観察出来るチャンスというお話なのに!」
「エレノア・ルミナス。安心しなさい。学園が再開したら、いくらでも結界術の補習の授業を、しようじゃないか」
「本当のお話ですか?約束ですよ?」
キラキラと目を輝かして、窓を閉めるエレノアに、苦笑いが起きる。その時前方から、ゴォゴォと地鳴りのような音が響き渡った。
「聖堂治療院に向かう道にしては、随分危険な道ね?」
「はい。ここは地形の関係で絶え間なく突風が吹き抜けている為、病や傷を抱えた方がここを通るには、文字通り命がけの試練となるのです」
「だから『双崖の試練の道』なんて呼ばれているんだな?」
「そうなんです。吹き付ける風は、治療院の聖域に足を踏み入れる者に課された、信仰と意志を試す試練そのものと呼ばれています」
ユノがそう言った直後だった。馬車が、ゆっくりと二つの断崖の間へと進み始めた。
ゴウッ――!
途端に、凄まじい風が峡谷を駆け抜けた。窓を閉めていても、車体全体を揺さぶるほどの風圧が伝わってくる。
「きゃっ……!」
馬車が大きく左右へ傾き、ミシミシと座席が軋む音が響いた。
「みなさん、手すりか座席をしっかり掴んでください!」
御者席からユリアの声が響いた。
「暴風結界!!」
ザイデルバストの低い声と同時に、馬車の周囲を淡い光の膜が包み込む。すると、吹き荒れていた風が、わずかに弱まった。
「おお……」
エレノアが感嘆の声を漏らす。
「風圧を完全に遮断するのではなく、流れを左右へ分散させているというお話……!なるほど、これなら術式の負担を最小限に抑えながら圧力を逃がし――ぎゃ!」
「エレノアさん大丈夫ですか?」
ユノが慌てた声を上げ、エレノアの腕を摑んで二人で身体を座席に固定する。
「え? あ、はい!舌を噛んだだけです。こんなスリリングな経験は初めてなお話で、とても楽しいです!!」
「……無事なら良かったです」
苦笑いを浮かべるユノをよそに、エレノアはワクワクを隠しきれない。しかし、その直後だった。
再び、強烈な突風が吹き抜けた。ぐらり、と馬車が大きく傾く。
「――っ!」
身体が座席から浮き上がる。咄嗟に何かへ掴まろうと手を伸ばした、その瞬間だった。ぐいっ、と腰を引かれた。
「……っ」
ヴィオラの身体が、前方へ強く引き寄せられる。
「危ない!!」
「か、会長……?」
「大丈夫かい?」
耳元に落ちた、低く穏やかな声に顔を上げると、すぐ目の前に碧い瞳が映った。ルシアンは片腕でヴィオラの身体を支えながら、もう一方の手で座席を掴んでいる。
「は、はい。ありがとうございます」
「まだ揺れるから」
「……え?」
「もう少し、このままで」
冷静な声だった。けれど、その腕には離すつもりなどないかのような力が込められていた。そのことに気づいてしまうと、触れ合った部分から熱が伝わり余計に意識してしまう。
「で、でも……」
ゴウッ――!と轟音が鳴り響き、その直後にまた馬車が揺れた。
「……っ!」
身体が傾き、反射的にルシアンの胸元へ寄りかかってしまう。途端に、心臓が大きく鳴った。ドクン、ドクンと高鳴る鼓動は自分でも驚くほどに速い。
(……落ち着いて。これは突然、身体を支えられて、驚いただけよ。きっと、それだけよ……)
何度も心の中で言い聞かせるように目を閉じた。なのに――
「……大丈夫。私が支えているから安心して」
頭上から降ってきた声に、また胸が跳ねる。その言葉が、どうしようもなく心に響いた。どこか安心してしまう自分がいて、ヴィオラはそれが少し、怖かった。
ルシアンに支えてもらっていると、身体だけではなく、心まで力が抜けてしまいそうになる。こんなふうに誰かを頼ってしまうなんて……。今までの自分なら、きっと考えられなかった。
『人を愛するということは、自分の弱さを見せることでもあるのです』
ユリアの言葉が脳裏を掠めていく。その瞬間、ボッと頭に血が昇り、ヴィオラは慌てて思考を止めた。
「……ふふ」
向かいから、セシリアの小さな笑い声が聞こえた。
「セシリア先輩……?」
「ううん。何でもないわ」
何かを察しているような笑顔だった。ヴィオラはますます顔を上げられなくなり、俯く。やがて、吹き荒れていた風が少しずつ弱まり、馬車に再び穏やかな振動が戻ってきた。
「もうすぐ出口ですね」
ユノの声にほっとして、ヴィオラは顔を上げた。腰に回されていた腕が、ようやく離れる。それなのに、触れられていた場所だけが熱を持っているような気がした。
「……会長、ありがとうございました」
控え目にお礼を言うと、ルシアンが微笑む。
「私としては、もう少し道が長くても良かったのだけれども……」
「……え?」
「なんでもないよ」
上手く顔を見られない。目を合わせたら、また胸が騒ぎそうだった。ヴィオラは逃げるように窓の外へ視線を向ける。
先ほどまで両側から迫っていた巨大な岩壁が、少しずつ後方へ遠ざかっていた。道幅も徐々に広がり、吹き荒れていた風も穏やかになっていく。峡谷の先からは眩い光が差し込んできた。
「……綺麗」
ヴィオラは思わず呟く。馬車が光の中へ進んでいくようだった。長く続いた双崖の試練の道を抜けた、その先の光景に全員が目を奪われた。
「……わぁ」
目の前に、広大な谷が広がっていた。深い緑に包まれた静かな大地に、陽光が降り注ぐ。その中心には、白亜の巨大な建物がそびえ立っていた。
重なる石造りの建物に、空へ向かって伸びる幾重にも重なる尖塔。その中心には、七色の光を映すステンドグラスが光り輝いていた。その姿は、まるで地上に降り立った神殿のように厳かな雰囲気を醸し出していた。
「……あれが、私の育ったリュウール聖堂治療院です」
ユノが目を細めて言った。




