第三十六話 ヴァルティアとクロノス 2
「……愛とは一体何なのかしら」
人を好きになる感情は、砂糖菓子のように甘く素敵なものだと、ヴィオラは思っていた。相手を思うだけで焦がれ、幸せに包まれるものが愛だと、決めつけていた。
しかし、彼らの愛は切なく、悲しいものだった。
「……そうですね。これは私の考えなのですが」
「誰かを深く愛するということは、その人に自分を傷つける権利を、与えてしまうことなのかもしれません」
「……傷つける?」
「はい」
ユリアは目線を合わせて、じっと見つめた。彼女の褐色の瞳に、紫と金の瞳が映った。
「ヴィオラ様は今まで出会った人すべてに、心を許すわけではないでしょう?」
「そうね」
「誰かを愛するということは、まるで自ら胸を開いて、隠していたものを相手の前に晒すようなものです」
ユリアは、窓の外の淡い朝靄の向こうへ目を向けた。早朝の庭は、小鳥たちの歌声が飛び交い、静寂の中の喧騒が響いていた。何かを思い出すように、彼女は寂しそうに微笑んだ。
「固い殻に守られていた心が剥き出しになれば、ほんの些細な言葉や仕草でさえ、深い傷になるでしょう。心を閉ざし、自分を守るための殻をまとっていれば、傷つかずに済みます。けれど、その殻を破らなければ、誰かを本当の意味で愛することもできません」
「人を愛するということは、自分の弱さを見せることでもあるのです」
それが愛ならば、とても怖い。傷つくと分かっていながら、それでも心を開いてしまうのだから。
「けれど、本当に愛する人が現れたとき、怖いからといってヴィオラ様は閉じこもってはいられますか?」
「……いいえ」
きっと、あの二人の精霊のように考えてしまうだろう。相手のために、何かをしてあげたい。守りたい。そして、傍にいたい。
「気づけば、守っていたはずの心は勝手に扉を開いていくものです。そしてその人に、自分のいちばん柔らかな場所へ触れることを許してしまうでしょう」
無防備な心は傷つきやすいけれど、それ以上に幸せに満たされる。
「だから、人は傷つけられる可能性さえも受け入れてしまうほどに、誰かを愛してしまうものなのですよ」
「……それって、とても怖いわ」
「はい。綺麗で美しいものばかりではありません。だから、お互いに歩み寄り、傷つかない道を二人で模索していくのです」
「その先で待っているものは、お互いに思いやりと愛に溢れた、美しい未来なのでしょう」
視線を落として苦しそうにユリアは言う。まるで、自分には成し遂げられなかった過去のようだった。
「……それでも、二人がその道を選べなかったとしたら?」
ヴァルティアとクロノス。二人は、互いを愛していた。けれど、愛する方法が違った。
相手を想う気持ちが強かったからこそ、二人の願いは少しずつ離れていった。もし、もっと早く話し合えていたら、二人は、違う未来を選べたのかもしれない。
「未来は誰にもわかりません」
「だからその時、その人が正しいと思ったことを選ぶしかないのです」
優しい声だった。けれど、本当に正しい選択ができるのか――ヴィオラは不安になってしまう。
「だからこそ、後になって思うのでしょう。あのとき、別の言葉を選んでいれば。もう少し相手の気持ちに耳を傾けていれば、と」
ユリアの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。けれど、彼女はすぐにいつもの穏やかな表情へ戻った。
「……ユリア」
「だから……ヴィオラ様には、後悔しないでほしいのです」
「……後悔?」
「はい」
その言葉に、ヴィオラは目を瞬いた。
「今ここにある時間は、ここだけのものです。いくら、過去や未来が視えても、己で選択して紡いでいく時間は、今この瞬間だけです。誰かを大切に思う気持ちが生まれたのなら、その気持ちから目を背けないでください」
「……」
「傷つくことを恐れて距離を置けば、苦しまずに済むかもしれません」
ユリアの指が、ヴィオラの手を優しく撫でる。
「けれど同時に、その人と分かり合える機会まで失ってしまいます」
「ヴィオラ様、どうか後悔しない選択をしてください」
その言葉に、何も返せなかった。
「……」
無意識に胸元へ手を当てる。
ふと脳裏に、収穫を待つ稲穂のように煌めく黄金色の髪と、揺らめく湖面を思わせる澄んだ碧い瞳が浮かんだ。
『ヴィオラが元気そうで安心したよ』
穏やかな声の奥に滲んでいた切なさ。嬉しそうに微笑む笑顔に浮かんでいた、苦しそうな瞳。なぜか彼を思い出すだけで、胸が温かくなる。けれど同時に、少しだけ苦しくなる。
「……いつか私にも、きちんと選択できる時が来るかしら」
「ええ、きっと。焦らずゆっくりと答えを出してください」
ヴィオラは再び窓の外へ目を向けた。朝日が庭を照らし、淡い靄がゆっくりと晴れていく。
愛することは、ただ幸せなだけではない。
時には苦しくて、怖くて、どうしようもなく悲しい。
それでも、その人と向き合うことを諦めない。
相手の痛みも、自分の弱さも抱えながら、それでも共に歩いていく。
それが、愛なのかもしれない。
今はまだ、自分の気持ちが良く分からない。けれど、彼の笑顔を思い出したときに込み上げてくる、この温かな気持ちだけは嘘ではないと確信が持てた。
「……さあ、ヴィオラ様。眼鏡をかけて下さい。あまり眼鏡を外している時間が長いと、過去視が精神に影響しやすくなります。」
ユリアに促され、眼鏡をかける。その刹那、さあっと髪の色が木枯らし色に変化した。
「……ユリア、ありがとう」
「いいえ。では、そろそろお支度をなさいませんと」
「そうね」
今日はみんなで、聖堂治療院へ行く予定だった。ユノが育った場所。
(……どんなところなのかしら)
「ユリアは、聖堂治療院に行ったことがある?」
「……はい。聖堂治療院には、いつもお世話になっています」
「え?そうなの?」
問いかけると、ユリアは一瞬手を止めて言葉に詰まった。その様子にヴィオラは、少しだけ違和感を覚えた。
「……お屋敷で使用する薬草の調達によく伺いますから」
ユリアの言葉に納得した。ヴィオラが怪我や病気になると、義父であるヴァイセルク・リュウール伯爵が全て治療してくれたからだ。でも使用人は、そうはいかないだろう。日々の仕事で小さな怪我に薬草が必要になる。
「薬草といえば、昨日大量に消費しましたね」
「え?誰か怪我をしたの?」
「はい。ランがベランダを掃除中に足を滑らせて落下して、腕に傷を負いました」
「……っ!!ランは?大丈夫なの?」
「はい。腕に無数の切り傷ができただけで、幸いにも大きな怪我はなく、今は元気にしております」
「良かった……」
ランは昔から少し不器用なところがある。何かを運ぼうとして転んだり、急いで廊下を走って誰かにぶつかったり。以前も、本人は平然としていたが、指に包帯を巻いていたことがあった。
「……ヴィオラ様」
不意に、ユリアの表情が変わった。先ほどまでの穏やかな雰囲気が消え、その瞳には真剣な光が宿っている。ただならぬ様子に、ヴィオラの背筋にも緊張が走った。
「あの子……ランを、あまり信用なさらないでください」
「え……?」
「あの子は本当に、ヴィオラ様が幼い頃にお傍にいた侍女なのでしょうか?」
「ユリア? いったい何を……」
ユリアは一度、室内を見回した。誰にも聞かれていないことを確かめるようにしてから、声を潜める。
「……彼女の身元が気になりまして。王都へ使いを送り、アークライト侯爵家の記録を調べさせました」
「アークライト侯爵家の家系に関する記録、出生記録、それから使用人名簿。可能な限り古い記録まで調べました。ですが……」
「……ランという子供は、アークライト侯爵家には生まれていないそうです」
「…………え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「そんな……」
けれど、確かにシオンはランのことを『双子の妹』だと言っていた。なのに、地下施設では『勘違いだった』とも言っていた。
――では、いったい何が本当なのだろう。
混乱するヴィオラの肩に、ユリアがそっと手を置く。
「ヴィオラ様」
静かな声だった。けれど、その声音には一切の迷いがない。
「ランには、どうかお気をつけください」
「…………」
何かを考えようとしても、思考がうまくまとまらない。頭の中が、真っ白になっていった。




