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第三十五話 ヴァルティアとクロノス 1

 森の中に白い花が咲いていた。


 美しいブナの木々が立ち並ぶ森は、夜とも昼ともつかない淡い光に包まれている。風がそよぐたび卯の花の枝が揺れ、その白い花びらがひらり、ひらりと宙へ舞い上がった。


 その光景を、一人の精霊が静かに見つめていた。白銀の髪が風に靡き、さらさらと宙を流れている。するとふいに、頭上から羽音が響いた。


 見上げると、一羽の時鳥が黒い翼を広げ、精霊のもとへ舞い降りてくる。時鳥は枝にとまり、静かに一声鳴いた。


 その刹那、その姿が淡い光に包まれ一人の精霊が姿を現した。黒褐色の髪を風になびかせながら、白い髪の精霊を静かに見つめている。二人の精霊の間を、卯の花の白い花びらが静かに舞っていた。


「ヴァルティア。また、世界をやり直したのか」


 低く静かな声が、森に落ちる。振り返ったヴァルティアは、白い花びらを一枚、指先で受け止めて柔らかく笑う。


「ええ。クロノス」


「……もう六度目だ。あと一度しかない」


「分かっています」


「ならば、なぜだ!!」


 責めるように叫ぶ。その声は、ひどく悲しそうだった。

 

「私の子が泣いていたのです」


「それだけで、世界を元に戻したのか!!」


「元に戻したわけではありません」


 ヴァルティアは静かに首を横に振った。


「私は時の流れを元に戻すことはできないし、失われた命を蘇らせることはできません」


「ならば、何をした?」


「私の中にある七つの時間の流れる道を、ほんの少しずらし、時の綾を織りなおしたのです」


 白い花びらが、二人の間を横切っていく。


「人が誰かを救えるように。人が別の道を選べるように」


「その六つとも滅びた」


「ええ、あと一つの時間の道しか残っていません」


 クロノスはしばらく黙っていた。やがて、静かに空を見上げる。


「七度目を失えば、お前の力は消える。そうすれば、存在できなくなるのだぞ!」


「ええ」


「それでも、人間を救うのか」


「はい。私は彼らを愛していますから」


 迷いのない返事に、クロノスは顔を歪ませる。そして、静かに目を伏せた。


「愚かな……」


「知っています」


 ヴァルティアが花のようにふわりと笑った。その笑顔を見ていると、クロノスの胸は締め付けられ、苦しさが募っていく。そして、激しい焦燥に駆られた。


「……人間のためなら、自分が消えても構わないという、お前の考えが嫌いだ」


「クロノス……」


「だから、私は世界を終わらせる」


 風が止み、静寂が無を呼ぶ。深紅の瞳が憎しみを宿し、ゆらりと揺れた。


「終焉は救いだ。争いも、悲しみも、憎しみも。生きている限り、人はそれらから逃れられない。ならば、すべてを終わらせればいい」


「それでは、人々は救われません」


「全て無に帰れば、関係ない」


「笑うことも、喜ぶことも、できなくなります」


「その感情を、最初から知らなければ良い」


「……慈しむことも、愛することも、できなくなります」


 クロノスの言葉が止まった。ヴァルティアは、ただ真っ直ぐ彼を見つめていた。


「あなたは、それでいいのですか?」


「……いい。報われないのであれば愛なんて要らない」


「嘘です」


「あなたは終焉を望んでいるのではありません」


 ヴァルティアは一歩、彼へ近づいた。


「私が人を想い、報われず苦しむ未来を、終わらせたいのでしょう?」


「違う……」


「私が七度目の力を使い果たし、消えてしまう未来を」


「……黙れ」


「私を失うくらいなら、すべてを終わらせたほうがいいと」


――ダンッ!!


 クロノスは拳をブナの木に叩き付けた。木が激しく揺れ、小鳥がバサバサと音を立て飛び立っていく。その顔には、抑え込んでいた感情が溢れ出していた。


「そうだ。お前がいなくなる世界に、何の意味がある?」


 ヴァルティアは息を呑んだ。彼の深紅の瞳に憂いが帯びる。


「人間が何千人、何万人生き残ろうと知ったことではない。世界がどれほど美しく続こうと、お前がいないのなら、私にはすべてが同じだ」


「……クロノス」


「だからそんな世界はいらない。お前が消える前に、この世界を終わらせる」


「それが、あなたの愛なのですね」


「そうだ」


「私も、あなたを愛しています」


「……っ」


「だから、あなたの望みを受け入れることはできません」


「……なぜだ」


「終わりを望むあなたを、終わらせたくないからです。あなたが私を失いたくないように、私もあなたを失いたくないのです」


 ヴァルティアは彼の手を取った。白い花びらが、二人の間を舞う。願いが交わらない二人を、繋ぎ止めようとしているようだった。


 それでも――互いを想う気持ちだけは、同じだった。


「大丈夫。……私の子が、あなたをきっと止めてくれるでしょう」


 クロノスは何も言わなかった。ただ、ヴァルティアの手を強く握り、真っ直ぐ瞳を見つめた。


「私は未来に希望を託したいのです」


「……愚かな女だ」


 希望を紡ぐ言葉に、クロノスは苦しそうに笑った。もう後がない。今ある時間が儚く、とても美しいものに感じる。それは酷く、残酷だった。


 静寂が訪れると、そっと二つの影が重なった。


 遠くから、時鳥の鳴き声が響き、白い卯の花が風に揺れた。そのブナの木の下で愛し合った二人の精霊は、決して同じ道を歩むことはない。


 未来を紡ぐ者と終焉を望む者。


 それでも、互いを失いたくないという、ただ一つの願いだけが、二人をいつまでも結びつけていた。





―――――――





 目を開けると、涙が止めどなく溢れ出す。


 熱を帯びた左眼を優しく抑え、ヴィオラはただただ、静かに泣いた。まるで、あの過去が遠い記憶などではなく、今も自分の中に残っているかのようだった。


(どうして……こんなにも、やるせないの……)


 朝日が差し込む部屋の中で、夢で視た過去視を思い出す。窓の外からは、楽しそうな小鳥のさえずりが聞こえていた。その楽しげな声が、かえって胸の奥に溜まった感情の行き場をなくしてしまう。


 二人の精霊は対立していたわけではなかった。むしろその逆だ。誰よりも大切に想っていたからこそ、すれ違ってしまった。


 ヴァルティアは、愛する者を失いたくなくて、世界の未来を紡ぐために、自らの存在を少しずつ削った。クロノスはそんな彼女を失うなら、守る世界を失くしてしまえばいいと、世界の終焉を望んだ。


(どうして……)


 どうして、同じ未来を望めなかったのだろう。

 どうして、『二人で生きる』という道を選べなかったのだろう。


(……愛するって、もっと簡単なものだと思っていたのに)


 好きなら、そばにいたい。

 大切なら、幸せになってほしい。

 ただ、それだけではないのだろうか。

 

『終焉を欲する者、クロノス。

 終焉を拒みし者、ヴァルティア』


『クロノスは時を統べる者にあらず。ただ、万物の時が尽きる、その終わりを欲する者なり』


『ヴァルティアは時を遡る者にあらず。過ぎ去りし時を呼び戻すことなく、乱れし時の綾を織り直す者なり』


『ゆえに、二柱の道は交わらず。されど、いずれも時の理を司る者なり』


 突然、石板に書かれていた言葉が鮮明に蘇った。


(時の理を司る者……)


 きっと、二人には精霊としての使命があったのだ。けれど、それは決して交わらない道だった。それでも二人は、お互いに惹かれてしまったのだ。


 相手の望む道を選べば、自分が苦しむ。

 自分の望む道を選べば、相手を苦しませる。


 だから、どれほど愛し合っていても、同じ場所では生きられなかった。


 それが、どうしようもなく悲しい。


(……義父様が言っていた、卯の花と時鳥の妖精の話は、ヴァルティアとクロノスのことだったのね)


ーーーコンコン


「ヴィオラ様、お目覚めですか?」


「……ユリア?」


 慌てて涙を拭う。返事をするより早く、扉が静かに開いた。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、侍女頭のユリアだった。黒縁の眼鏡をかけ、真っ黒な髪を三つ編みにして後ろへ流している。背筋を伸ばし、落ち着いた足取りで入ってきた彼女の顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。


「……まあ」


 ヴィオラの姿を見ると、慌てて扉を閉め鍵をかけた。その行動で、眼鏡をかけ忘れていたことに気付いた。手で髪をすくってみると、色素の薄い髪の毛が、毛先に近づくにつれて桃色にほのかに色づいている。それが朝日に照らされて、淡く銀色に光り輝いていた。


「……」


 何も言わずとも、ユリアには伝わった。彼女は静かに傍に来ると、優しく頭を撫でる。その優しさで、さらに涙が頬を伝う。


「……ヴィオラ様の素顔を久しぶりに見ました」


「……」


「また、過去に心を痛めていたのでしょう?」


 ヴィオラは無言で頷いた。小さい頃からユリアはこうやって寄り添ってくれた。誰かが死ぬ光景、悲惨な災害、歪んだ世界。悪夢を見る度、泣きながらユリアに縋った。そして必ず、こうやって頭を撫でてくれた。


「……想いが報われない、精霊の夢でした」


「そうでございますか」


「二人とも……相手を愛していたのです」


 ぽつり、ぽつりと言葉が零れる。それを優しく頭を撫でながら、ユリアは聞いてくれた。それ以上、急かすことはしない。ヴィオラが自分から話すのを、いつものように待ってくれている。


「誰よりも大切に想っていて……失いたくなくて……」


「それなのに……立場や使命が邪魔をして、どうしても同じ道を選べなかった」


「……どうしてなのかしら」


 声が震える。思い出すだけで、胸が苦しくなった。


「愛しているのに……どうして、相手の望みを受け入れられないのでしょう」


 ヴィオラの脳裏に、白い髪の精霊と黒い髪の精霊が浮かぶ。互いを見つめる熱を帯びた瞳からは、心から大切に想っていることが伝わってきた。しかし、二人の願いは決して交わることはなかった。


「……愛とは一体、何なのかしら」


 


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