第三十一話 木では無い木
そのブナ林は私の宝物だった。
それは、村の丘を越えた川の向こう側にあるブナ林だった。昔から周りの大人に、『絶対向こう側に行っては駄目だよ』と言い聞かされてきた。
行っては駄目。と言われたら行きたくなるのが子供心だ。加速魔法を使って、術式の訓練をサボるのが日常茶飯事の私にとって、その場所はキラキラ輝いて見えた。
ちょっとだけなら。
そんな囁きが聞こえたらもう戻れない。気がついたら川を越えて知らない土地に来ていた。
川を越えた先には、新しい景色で溢れていた。丘の向こうにある家々も、畑も、教会の尖塔も、まるで別世界のようだった。
「……来ちゃった」
呟いた瞬間、胸が高鳴った。目の前には、どこまでも続くブナ林が広がっていた。何かに吸い寄せられるように、その林に足を踏み入れた。
その場所は、まるで整えられた庭園のようだった。白く滑らかなブナの幹が、同じ高さで、同じ方向に揃って伸びている。枝葉の隙間から振り注ぐ木漏れ日が、細かな粒となって舞いキラキラ光った。整った樹形が創り出す、光と緑のコントラストは、幻想的な光景だった。
「……すごい」
風が吹けば葉擦れの音が静かに重なり、森全体がひとつの大きな生き物のように、ゆっくりと息づいているようにざわめく。
静かなのに、どこか温かい。長い年月をかけて育った森だけが持つ、穏やかな美しさだった。
その時だった。
「……うっ……うぅ……」
風に乗って、かすかな声が聞こえた。耳を澄ますと、林の奥から途切れ途切れの泣き声が聞こえてくる。
怖がることもなく、声のする方へ歩き出した。幾本ものブナの幹を抜けた先に、大きな老木があった。その幹の根元には、人ひとりがすっぽり入れそうなくぼみがある。
そこに、小さな男の子がうずくまっていた。
蒼く澄み切った瞳から、大粒の涙がポロリポロリと零れ落ちている。その涙は、まるで真珠のようだった。
「……きれい」
思わず呟くと男の子がびくりと肩を揺らし、そして顔を上げた。
「……誰?」
「ごめんね。林を探検しに来たら迷っちゃって」
咄嗟に誤魔化した。こんなところまで来ていることを大人に知られたら、絶対に怒られる。 だから、とりあえず笑った。
「……」
「……どうして泣いていたの?」
尋ねると、青い瞳が私を映した。その瞳は、空をそのまま閉じ込めたように澄んでいた。さらりと揺れる金色の髪が、涙で頬に張り付いている。その姿は、まるで妖精のように美しかった。
「……ここのブナの木は……役に立たない木なんだって」
「役に立たない?」
「水を多く含むから木材として価値がない。すぐ腐る、役立たずなんだ。ブナは『橅』と書く。木では無い木なんだよ。だから、この林はそのうち切られるんだって……」
「……ひどい」
私は黙ってブナの木々を見上げた。白く滑らかな幹と風に揺れる緑の葉。木漏れ日が降り注ぐ、静かな林。こんなに綺麗なのに、切り捨てられるなんてあんまりだ。
「僕と同じなんだ……」
男の子の声が震えた。
「僕は兄上より劣っているから……何もできないから……そのうち、いらないって言われて、処分されるんだ」
「……」
「それ、誰が言ったの?」
「……え?」
「誰が、あなたは役に立たないって言ったの?」
「……大人が」
「じゃあ、その人たちはきれいなものを見て感動したりしないのかな?」
「え……」
男の子が目を瞬かせる。私は立ち上がり、近くの橅の幹に手を触れた。ひんやりとしていて、滑らかだった。
「見て」
「……?」
「こんなにきれいだよ」
木漏れ日が、枝葉の隙間から降り注ぎ風が吹く。ざわざわ、と無数の葉が揺れた。
「私は、この木が好き」
「……好き?」
「うん。だから、役に立つとか、立たないとか、そんなの関係ないよ」
「……でも」
「この木は、誰かに褒めてもらうために生きてるの?」
「……」
「誰かの役に立たなきゃ、生きてちゃいけないの?」
男の子は答えられず、俯いた。私はしゃがんで、その顔を覗き込む。
「だったら、私も役立たずだね」
「……君が?」
「うん。私、術式の訓練をよくさぼるもの」
「……」
「先生には怒られるし、お母様には勝手なことをするなっていつも怒られてるわ!たぶん、私も『何の役に立つの?』って聞かれたら、何にも役に立たないわよ!」
男の子が、ほんの少しだけ目を丸くした。
「でもね役に立たないって言われたって、私は私だよ」
「あなたも、あなたでしょう?」
二人の間を優しい風が吹き抜けた。葉が揺れて、木々がくすくす笑う。まるで、林が私たちの会話を聞いているようだった。
「あっ!」
「そうだ!役に立たないって切られるくらいなら、別の場所に移せば良いんだわ!」
「え?」
「そうよ!村に転移してもらえばいいのよ!」
「……そんなことできるの?」
「もちろん!」
私は胸を張った。できるか分からなかったけど、村の魔術師だったら簡単にできそうだ。だっていつも王都と村を転移魔法で行き来しているもの。お願いしてみよう。
「だから、あなたは役立たずじゃないよ」
「……どうして?」
「この素敵な場所で出会った、私の初めての友達だから!」
「友達……」
「私の名前はヴィオラ!」
「ヴィオラ……」
「……ありがとう」
そう言って、彼は光のように眩しく笑った。
―――――――
『キョッ、キョッ、キョキョキョキョ!』
遠くから、時鳥の鳴き声が聞こえてきた。まだ夜の名残をわずかに残した、薄青い朝だった。辺りを包む静けさの中で、私はゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
ぼんやりと天蓋を見つめる。朝の光がカーテンの隙間から細く差し込み、室内を淡く染めていた。
今日も目覚めた瞬間から、左眼の奥に熱が残っている。じわじわと、焼けるような熱。無意識に左眼へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
(この夢も、過去視なのかしら)
ここ数日、未視感に悩まされていた。まるで、自分ではない誰かの記憶を覗き込んでいるような感覚だ。何とも言えない違和感に、疑問は日に日に深くなっていった。
まだ眠気の残る頭を無理やり起こし、枕元に置いてあった眼鏡へ手を伸ばす。
昨日まで、あの男の子のことは覚えていなかった。初めてできた友達という、かけがえのない存在だったのに。しかし、ブナ林は覚えている。昔、ヴィオラが母親に頼んで、時守の一族の村へ林ごと移してもらったからだ。
『このブナ林は、精霊の住処だよ。ヴィオラ、よく見つけたね。切られる前で良かったよ』
と、褒めてもらって鼻高々になったその直後、ゲンコツが飛んできた。
『……でも、あれだけ結界の外に出ちゃ駄目だと言ったよね?この聞かん坊が!とても危険なことなんだよ!!』
いつもの十倍怒られた。そして三日間ご飯抜きの刑になった。あれは、本当に辛かった。
そんな宝物のようなブナ林を覚えていて、あの男の子を覚えていなかったなんてありえない。だからこそ、あの記憶そのものを疑ってしまう。
(……私は本当にあの子に出会っていたのかしら?)
時蝕を鎮めた後に視た、過去視を思い出した。世界が歪み、時間の流れが狂い、砂漠と化した世界の終焉の様子。
ルシアンには、あの日が初対面だったはずなのに、彼がそこにいた。
あの夢が、左眼が視させた本当の過去視ならば、一つの仮説が浮かび上がる。
(私が視ているものは……もしかして?)
その時だった。
ばぁぁんっ!と勢いよく扉が開け放たれて入って来たのは、昨日、突然屋敷にやって来た侍女だった。
「はい!ヴィオラさま〜!起きるじかんですよぉ〜!朝ですよ〜!ピカピカの朝が今日もやってきましたよ〜!」
「……ラン、おはよう」
「あっれ〜?もう起きていましたか〜?目はピンピンですか〜?寝てる姿を見ようと思ったのに残念だな〜!」
言葉とは裏腹に、顔はどう見ても楽しそうだ。私は思わず吹き出した。
「ふふっ」
「おや?どうしました?」
「ううん……なんでもない」
懐かしい。掴みどころがないけれど、人を笑わせることが好きで、どんなときでも飄々としている。その性格は、昔から少しも変わっていなかった。
地下の実験施設の奥の牢屋で保護されたのは、やはりランだった。王国に捕まってから、あの場所で七年間、監禁されていたそうだ。所々、記憶が曖昧だけれど、ヴィオラの侍女をしていたことは覚えていたそうだ。
『もう一度、ヴィオラさまのお側で働かせて頂けませんか?』
昨日、リュウール伯爵家を訪れた彼女は、そう言って頭を下げた。地蝕調査団の宿舎で保護されていたランは、目覚めて簡単な検査を受けた後、身柄を解放されたそうだ。
『今更、行く当ても無いので、ヴィオラさまを頼りにここまで来ました。雑用でも何でもします。どうかここに置いて下さい。』
そう言われれば、追い返すことはできない。義父様に頼むと、快く承諾してくれた。しかし、侍女頭のユリアだけは違った。
『……ヴィオラ様、お言葉ですが身元が不明な者をお側に置くのは、いささか不安かと存じます』
ユリアは神妙な顔でそう言った。当然のことだと思う。けれど、そのとき私はふと思い出した。
シオンが以前、ランのことを『生き別れた双子の妹』だと言っていたことを。ならば、ランがアークライト侯爵家の出身であることに間違いはない。そう説明すると、ユリアは渋々ながらも納得してくれた。
「さあさあ、朝ご飯の前にお茶をどうぞ~」
ランが手際よくテーブルへ向かい、白い陶器のティーカップが、ことりと置かれた。
「これは何?」
カップの中を覗き込む。見慣れない赤褐色の液体だった。
「ローズヒップティーですよ~」
「これが?」
「はい!」
「東の国にある酸梅湯という薬湯を参考に、ローズヒップティーをブレンドしてみました!」
「酸梅湯……」
「夏バテ予防と疲労回復に効果があるんですよ~」
「そうなの?」
「ええ。身体に良いことだけは保証します!」
妙に力強い。少し警戒しながらも、カップを手に取った。立ち上る香りは、ほんのり甘い。
(大丈夫そう…)
そう思って、一口飲んだ。
「……っ!」
舌に広がった強烈な酸味に、思わずむせた。
「んんっ……!」
「はははは~!」
ランが腹を抱えて笑い出す。
「相変わらずヴィオラさまは、酸っぱいものが苦手なんですね~!」
「っっ!もう!ランったら!騙したわね!」
「ははは~! 引っかかりましたね~!」
「絶対わざとでしょう!」
「もちろんです~!」
悪びれる様子など微塵もない。
「でも、身体に良いのは本当ですから。全部飲んで下さいね~」
「……うぅ」
私は恨めしそうにカップを見つめた。仕方なく、もう一度口をつける。
(……あれ?酸っぱいというより……少し苦い?)
舌に残る、微かな苦味。それが妙に引っかかった。違和感を覚えた、その時だった。
「ヴィオラ様!」
――ばたんっ!
今度は勢いよく扉が開いた。息を切らして立っていたのは、侍女頭のユリアだった。普段の落ち着いた彼女からは考えられないほど、顔色が変わっている。
「ヴィオラ様!大変です!」
「何があったの?」
「今、領地の境を――」
ユリアは息を整える間もなく、続けた。
「王家の家紋が入った馬車が、通過したとの知らせが入りました!」
「……王家?」
カップを持つ手が止まる。室内に、妙な静けさが落ちた。




