第三十二話 媚びない義父と退かない王子
リュウール伯爵家の応接室は、凍りついたような冷徹な空気に支配されていた。
鏡のように磨かれた漆黒のテーブルには、白磁のカップと銀の皿が冷ややかに光を反射している。窓から差し込む午後の陽射しは穏やかなのに、室内だけは妙に冷えていた。
その理由を、この部屋にいる誰もが肌で感じていた。
部屋の中央に座るヴァイセルク・リュウール伯爵の前に、王国の第二王子であるルシアン・ヴァンヴェールが、一触即発の状態で座っている。
王家の馬車に乗っていたのは、ルシアンだけではない。生徒会の面々に、ザイデルバストが同行していた。なんでも、ユノとガルディアス、ザイデルバストは故郷がリュウール伯爵領の方面だとのことで、一緒に来たそうだ。
みんなと顔を合わせるのは、地下施設の調査以来、久しぶりだ。本来ならば賑やかになるはずの顔ぶれだったが、今ばかりは誰も余計な口を挟もうとはしなかった。
なにしろ、第二王子と魔術師団長。
この国でも指折りの権力者同士が、同じ部屋に揃っている。この状況で平常心を保つなど、酷な話だ。しかし、その緊張感を最初に破ったのはルシアンだった。
「リュウール伯爵、突然の訪問で申し訳ありません」
「ええ、殿下。先触れもなく訪れるなんて、非常識です」
室内の空気が、一段階冷えた。棘のある言葉を投げつける義父の姿に、ヴィオラは内心首を傾けた。
(……義父様はどうして怒ってらっしゃるのかしら?)
そんなヴァイセルクの様子も気に留めず、ルシアンは楽しそうに笑った。
「おや?リュウール伯爵。お言葉ですが、私が伯爵宛に送った手紙を、否応なしに拒否する魔術をおかけになっていることをお忘れですか?」
「殿下が一日に何通も手紙を送るからだろう」
「それは、伯爵が求婚を許可してくださらないからではないでしょうか?」
「……」
「仕方が無いから、『天狼星の槍』に書簡を括り付けて求婚状を送ったのですよ?」
「殿下……あれには、驚かされました。物理的に腰を抜かしました。もう二度としないで頂きたい」
「その点は、心からお詫びします。あまりの嬉しさに気が動転していたのです。しかし、まさか『天狼星の槍』も跳ね返す魔術をおかけになるとは、思いもしませんでした」
「……」
「手紙ならまだしも、あの光の槍が自分の所に跳ね返って来るのは、結構危険なんですよ?」
「それは殿下の自業自得です」
伯爵の眉がぴくりと動く。背後から、誰かが小さく咳払いする音が聞こえた。後ろでユリアが額に手を当てている。
(義父様……なんてことをしてるんですか!?)
まさか、二人がそんな子供のような戦いを繰り広げているとは、思ってもみなかった。
「リュウール伯爵、約束しましたよね?ヴィオラ嬢を学園内で見つけ出すことができれば、婚姻を許可してくださると――」
「えっ?」
寝耳に水の言葉に、ヴィオラは声を上げた。その場の視線を集め、慌てて手に口を当てる。そんな約束をしているなんて知らなかった。隣のヴァイセルクを見ると、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「ええ。しかしあれは、殿下がヴィオラを見つけたというよりは、ヴィオラが自ら殿下の前に現れたの間違いでしょう?」
「……」
「それなら、私との約束も成り立ちません。私が提示した条件は、『殿下自ら、私の魔術を見破りヴィオラを見つけ出すこと』ですから。だからこの約束も無効です」
「……なるほど」
ルシアンは、しばらく黙って伯爵を見つめていた。その口元には笑みが浮かんでいる。けれど、その笑顔を見た瞬間、ヴィオラはなぜか背筋に寒いものを感じた。
「さすが、リュウール伯爵ですね。一筋縄ではいきませんか」
そう言うと、彼は背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見据えた。その瞳には覚悟が宿り、先ほどまでの冗談めいた空気が、消えた。
「それではもう一度、私に機会をいただけませんか?」
その一言に、室内が静寂に包まれる。ヴァイセルクも腕を組んだまま、目の前の青年をじっと見据えていた。その視線は、魔術師団長としてではなく、一人の父親としてのものだった。彼の真意を、深く、そして慎重に見極める必要があった。
――第二王子はヴィオラの力を欲しているのか、またはヴィオラを本当に想っているのか
「……断ったらどうするんですか?」
「何度でも、お願いに伺います」
「それでも断ったら?」
「……彼女の傍にいられるのなら、何でもします。身分を捨てて、彼女の護衛騎士になったっていい」
「……それは嫌だな」
伯爵がプッと吹き出した。淡い桃色の髪の毛を揺らして僅かに笑う。いつもの柔らかい義父に戻っていた。
「仕方ない、それでは条件を出しましょう」
そう告げると、ヴァイセルクは悠然と背もたれに身を預けた。それまで張り詰めていた室内の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「条件は二つです」
「立場や権力を利用しないでヴィオラの心を掴むこと」
「そしてヴィオラが、殿下を慕わなかったとしても――それを受け入れること」
「……!!」
ヴィオラの心臓が、大きく跳ねた。
「ちょ、ちょっと待ってください、義父様!」
「何だ?」
「私の心……ですか?」
「そうだよ」
琥珀色の目を細めて微笑む。先ほどの緊迫した状況を微塵も感じさせない柔らかさだった。
「私は、ヴィオラを政略結婚などさせる気は毛頭ない。しかし、ヴィオラの心が彼の傍にあるのなら、私はそれを拒むことはできない」
「義父様……」
「ヴィオラの気持ちが一番だからね。嫌だったら逃げてもいい、隠れてもいい。むしろ、私の作った結界の中で過ごせば一生安全だ」
「……」
(ちょっとそれは遠慮したい……)
気付かないフリをしていたけれど、義父の愛情は重い。たまに度が過ぎる。
「それでも、ヴィオラが彼の隣にいたいと願ったなら、私はもう止めない」
「だから殿下」
「ヴィオラが自分で答えを出すまで、殿下もまた、自分の言葉と行動で誠意を示してください」
ルシアンの瞳に、安堵の色が浮かんだ。その言葉は、幾度となく婚姻を拒み続けていた、ヴァイセルクの大きな変化だった。自分の言動次第では、ヴィオラとの婚姻を認めてくれようとしている。
「……はい。ありがとうございます」
立ち上がり、ルシアンは深々と頭を下げた。顔を上げた彼の瞳には、迷いはなく確かな決意の光が宿っている。
その顔を見た瞬間、ヴィオラは胸の奥が妙にざわつくのを感じた。
――結婚
最初にルシアンから求婚された時は、どこか遠い話だと思っていた。時蝕について何か知っている彼から、情報を得ようと思った。どうせ時守の一族の力を利用されるなら、先に利用すればいい。そんな安易な策略で、求婚を承諾した。
時守の一族の生き残りと知られないよう、目立たずひっそりと暮らしていた。そんなヴィオラの狭い世界に、強引に、そして真っ直ぐに、彼は踏み込んできた。
最初は婚約者のフリをしている演技なのかと思った。けれど――違った。
『ただ、私の傍で生きていてくれればそれでいい』
『私は君を失いたくないんだ』
いつだってルシアンは真っ直ぐ想いを伝えて来た。なぜ、彼がそこまでヴィオラに執着するのかわからない。ただ力が欲しいだけなら、こんなに離れた領地までわざわざ来ないだろう。
(……私は今まで、何を見ていたのかしら?)
その疑問が、今になって重く胸へ落ちてきた。地下実験施設で見た光景、王家の陰謀。時守の一族の真実。そんなものとは関係なく、ルシアン・ヴァンヴェールという一人の人間を、真っ直ぐ見たことがあっただろうか。疑いや歪みがなく、向き合ったことがあっただろうか。
自分が傷つきたくなくて、自分の心から目を逸らしていなかっただろうか。
ヴィオラは思わずルシアンを見た。顔を上げた彼と、視線がぶつかる。
「……」
「……」
ほんの一瞬、ただそれだけで、心臓が落ち着かない。穏やかな笑みも、堂々とした佇まいも、ただただ、心の中をめちゃくちゃに掻き乱していく。
(……ずるい)
ヴィオラは慌てて視線を逸らした。頬に熱が集まる。どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。ルシアンと目があっただけなのに。
(どうして……こんなに嬉しいの?)
その感情に気づいた途端、さらに頬が熱くなる。自分でも認めたくないほど、小さな喜びだった。
「さて、これで求婚状についての話は終わりにしよう。そういえば、皆さんはアージェンの見舞いに来たのだよね?」
「はい。もちろん、そのつもりです」
緊張した面持ちで、セシリアが答える。ローズマリー公爵家の印章が押してある、アージェン宛の手紙を思い出した。きっとセシリアもアージェンのことを、気がかりだったに違いない。
「なら、好きなだけ会っていくといいよ。アージェンはまだ目を覚ましていないが、いつ目を覚ますか分からないからね。目覚めるまで、ここに滞在するといい」
「……よろしいのですか?」
ルシアンが驚くのも当然だった。先ほどまで、歓迎されず険悪な雰囲気だったからだ。
「ああ。部屋ならいくらでもある。遠慮する必要はないよ。それに、王都からここまで来るだけでも相当疲れただろう。ゆっくり疲れを取るといい」
「……リュウール伯爵、ありがとうございます。お心遣い感謝致します」
その言葉を聞いた途端、シオンがふにゃりと体勢を崩した。
「……よかったぁ〜。正直、ずっと息が詰まってたよ……」
「お前は途中から菓子を食べていただろう」
「それとこれとは別問題だよ〜!」
ガルディアスとシオンの、いつものやり取りが始まり、ヴィオラも緊張が緩んだ。先ほどまで、第二王子と魔術師団長が向かい合っていたとは思えないほどだった。
「ははは。諸君には気まずい思いをさせて悪かったね。私にも体裁というものがあるからね」
笑いながら立ち上がると、ヴァイセルクはザイデルバストに視線を向けた。
「エクトル先生も遠慮せず、こちらでお過ごし下さい」
「……いや、私は……」
「ヴィオラがいつもお世話になっていますから、遠慮せずゆっくりお過ごし下さると嬉しいです」
「……」
(……ザイデルバスト先生?)
ヴァイセルクから静かな圧力のようなものを感じた。すると、観念したようにザイデルバストが頷いた。
「……お気遣い、痛み入ります」
その様子に満足したヴァイセルクは、ユリアや侍女に客室の用意や夕食の指示を出していく。
「では、私はアージェンの様子を見てくるよ。皆はゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます、伯爵」
ルシアンが改めて頭を下げる。
「いやいや。アージェンも君たちが来てくれれば喜ぶだろう」
そう言って、ヴァイセルクは応接室を後にした。




