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第ニ十八話 卯の花と時鳥

 窓を静かに開けると、薄いカーテンが朝の光を受けて、生き物のようにふわりと宙に舞い上がった。


 高台に建つ屋敷の窓の外からは、リュウール伯爵領が一望できる。どこまでも広がる大地の向こうには、なだらかな丘陵が幾重にも連なり、その裾野にはどこまでも続く麦畑が広がっていた。


 まだ若い麦の穂は、初夏の風を受けるたびに一斉に揺れる。さわさわ、と葉擦れの音を響かせながら、緑の波が遠くへと走っていく。朝日を受けた麦畑はところどころ黄金色に輝き、その景色はまるで、大地そのものが静かな大海原へと姿を変えたかのようだった。


 「……おはよう。アージェン」


 ヴィオラは振り返り、大きな天蓋付きの寝台に横たわる彼へ声をかけた。


 しかし、返事はなかった。


(……もう、三日になる……)


 アージェンは、静かな寝息を立てたまま眠り続けている。あの日、地下の遺跡から地上へ帰還してから、三日。アージェンは一度も目を覚ましていない。


 あの地下で何が起きたのか。思い出そうとその記憶に触れようとした瞬間、頭の奥に薄い膜がかかったような感覚が生じた。


 言葉が出てこない。伝えようとしても、喉の奥で何かに阻まれてしまう。それは、地上へ戻った直後に施された誓約魔法のためだった。


 地下遺跡の調査を終えた私たちを待っていたのは、ガイアスの厳しい表情だった。


『この地下の存在は、正式な調査が終わるまで一切口外しないで欲しい』


 静かでありながら、拒否を許さない声だった。


『これは、無駄な混乱を避けるためでもある。生徒諸君には負担を強いて申し訳ないが、どうか理解してほしい』


 誓約魔法は地下で見たことを一切話せなくなるものだった。アージェンの身に降りかかった災難や彼の過去、ユノの不思議な力や石碑に刻まれていた不可解な言葉。何一つ話すことができなくなった。


 誰も異を唱える者はいなかった。ただ一人を除いて――


『そんなぁ……! あれほど貴重な研究資料を見つけたというお話なのに!!』


 エレノアだけは、最後まで食い下がっていた。


『研究ができないのであれば、せめて記録だけでも――』


『エレノア。今は研究よりも安全が優先だ。理解しなさい』


 静かな声でザイデルバスト先生が諭す。エレノアは観念したように、肩を落として項垂れていた。


 それから間もなく、学園は二週間の休校を発表した。表向きの理由は、先日起きた地蝕によって生じた被害の後片付けと、学園周辺の安全確認。けれど、本当の目的が別にあることは、ヴィオラにも分かっていた。


 地下遺跡の本格的な調査――それが始まるのだ。


 休校の知らせが伝えられた学園内は、たちまち騒然となった。学生寮で暮らしている生徒たちにも、例外なく帰宅の指示が出されたからだ。


 遠くの領地から学園に来ている生徒も大勢いる。普段は整然としている寮が、荷造りや帰宅の準備などで、まるで突然嵐に襲われたかのような慌ただしさに包まれていた。


 ヴィオラたちが引き取られたリュウール伯爵家の領地も、学園から馬車で三日ほどの距離にある辺境に位置していた。未だに目を覚まさないアージェンを見つめながら、不安に押し潰されそうになっていた時だった。


『ヴィオラ』


 静かな声がした。甘い綿菓子を思わせる柔らかな桃色の髪が、視界の端でふわりと揺れた。


『……大変な目に遭ったね』


 アージェンが眠る寮の一室に、義父であるリュウール伯爵が現れた。その姿を見た瞬間、堰を切ったように感情が溢れ出してきた。


『……っ……義父様……!』


 彼は何も言わず、溢れ出す涙を受け止めるように、優しくヴィオラの背中を撫でた。


 怖かった。

 心細かった。

 心の中が、もう滅茶苦茶だった。


『……家に帰ろう』


 何も言わずに頷く。義父は右手を空中で器用に動かして魔法陣を描くと次の瞬間、部屋全体に広がり眩い光を放った。あまりの眩しさに反射的に目を閉じた。


『ヴィオラ、着いたよ』


 目を開けるとそこは、リュウール伯爵領にある領主屋敷のアージェンの部屋だった。天蓋付きの寝台にアージェンも横たわっている。


(……すごい)


 義父の転移魔法は何度見ても圧巻だった。転移の余韻が消えると、部屋には静寂が戻ってきた。先ほどまで王都の学園にいたとは思えないほど、空気が違う。


 窓の外から聞こえてくるのは、遠くで鳴く鳥の声と、風に揺れる木々の葉擦れだけだった。ヴィオラは呆然としたまま、部屋を見回した。何も変わっていない。それなのに、自分だけが別人になってしまったような、不思議な感覚があった。


 それから三日経ったのだ。


 アージェンの寝台の傍らに置かれたサイドテーブルには毎日送られて来る手紙が重ねられていた。その封蝋にはローズマリー公爵家の印章が押されていた。 


(……セシリア先輩……)


 生徒会メンバーと別れを告げることもなく、この領地に来た。きっとみんな心配しているだろう。セシリアからは毎日アージェン宛に手紙と花が届いていた。


 彼女はとても良い人だ。真っ直ぐで情熱があって、面倒見が良い。アージェンにローズマリー公爵家から縁談の申し入れがあったと義父に聞いた時は、とても驚いた。その話がまとまれば、セシリアは義姉になる。そうなればとても嬉しい。


 ただ、そうなると、長年続けていたルシアンの護衛騎士を辞めなければならないだろう。ルシアンとセシリアの間には、何ともいえない信頼感がある様に見えた。二人の仲を引き裂くことにならないだろうか。


(……私ったら何を……)


 深くため息を吐いた。視線を落とすと、手に持っていた手紙が目に入る。今朝届いたその手紙には王家の印章がつけられていた。


(会長……)


 一人で考えたい。そう言ったのはヴィオラだった。しかし、いざ離れてみると、何とも言えない胸の痛みが心を支配していた。この痛みの名前はわからない。ただ、彼の事を思い出すたびに胸が苦しくなる。だから、手紙を開けるのが怖くて仕方なかった。


「……静かね」


 耳を澄ませば、遠くの森から鳥のさえずりが聞こえてくる。屋敷の庭では、朝露をまとった草花が陽光を受けてきらめき、庭を囲む生垣の向こうには、白い花が無数に咲いていた。


 卯の花。


 細くしなやかな枝に寄り添うように、小さな白い花をいくつも咲かせている。風が吹くたびに枝が揺れ、白い花々も一緒になってかすかに震えた。


 その姿は可憐で、どこか儚い。美しいはずなのに、眺めていると胸の奥がきゅっと締めつけられるような、言葉にできない寂しさが込み上げてくる。


――さぁぁぁぁっ


 ひときわ強い風が丘の向こうから吹き抜けてきた。開け放した窓から室内へ入り込んだ風が、薄いカーテンを大きく舞い上げる。


 爽やかな風が開いた窓から吹き込み、朝露を含んだ草木の瑞々しい香りが、優しく鼻先を掠めていった。初夏の朝特有の、清らかで柔らかな空気だった。


「卯の花か」


 背後から義父の声がした。振り返ると、リュウール伯爵が窓の外を眺めていた。


「はい。庭の向こうに、たくさん咲いています」


「そうだね。毎年、この時期になると咲く」


 義父は窓辺まで歩いてくると、白い花々を眺めた。しばらく何も言わなかった。その静寂が心地いい。穏やかな時間が流れた後、義父はふっと目を細めた。


「…ヴィオラ、こんな言い伝えがあるのを知っているかい?」


「……言い伝えですか?」


『ああ、『卯の花が白く咲く頃、時鳥(ホトトギス)は遠き空より帰り来る』古い伝承だよ」


「……時鳥(ホトトギス)


 窓の外を眺める横顔は、何とも言えない哀愁が漂う。義父は目を閉じて何かを思いだすように、そっと語りだした。


「昔、まだ人と精霊の境がなかった頃の話だ。卯の花の精霊と、空を渡る時鳥(ホトトギス)の精霊が恋をした。

二人は一緒にいることを望んだが、時鳥(ホトトギス)は『空を渡る者』、卯の花は『大地に根を張る者』。

どれほど愛し合っても、同じ場所で生きることはできなかった。

そこで時鳥(ホトトギス)は、年に一度、卯の花の咲く時期に帰ることを約束した。姿を見せることはできなくても、必ず一度だけ鳴き声を届ける。『私はここにいる』と。

その声を聞いた卯の花は、次の一年を生きることができる。だから今でも、卯の花が咲く頃に時鳥(ホトトギス)が鳴けば、『離れていても、想いは途切れていない』と、人々は考えたんだよ」


「花はそこにある。けれど、想う相手は姿を見せない。それでも、その人が来ることを待っている」


「……」


「だから卯の花には、秘めた想いを重ねることもあるのさ」


 ヴィオラの胸が、わずかに痛んだ。


 秘めた想い。姿を見せない相手を待つ。言葉にできない想いを、ただ花に託す。なぜだろう、その話が今の自分の心に妙に重なった。


「すまない。私はずっとヴィオラに謝りたかった。私は自分の力を過信しすぎていたのかもしれない」 


「違う!義父様が悪いのではないわ!」


「ああ、分かってる。地蝕を止めたかったのだろう」


 力なく笑う義父に申し訳なさが込み上げてくる。正体が露見したのは、完全に自分の我が儘から来るものだったから。


「……彼は真っ直ぐな青年だ」


 ヴィオラの持っている手紙に目線を落としながら言う。


「……ずっと前から第二王子からの求婚状は届いていたんだ」


「会長が……?」


「……ああ」


 その言葉に酷く狼狽えた。いつから会長は自分の事を知っていたのだろうか?時蝕の原因を突き止めるための都合の良い相手ではなかったのだろうか。


「……急ぐ必要はないよ。ゆっくり自分の気持ちと向き合えばいい」


「……義父様」


 その言葉が胸に染みた。彼の優しさが今のヴィオラには心地良かった。


――コンコン


 静かな部屋にノックが鳴り響いた。返事を待ってから開かれた扉には、侍女のユリアが立っていた。


「伯爵様、お嬢様。お取り込みのところ、失礼致します。先ほどお嬢様に会いたいと、ご来客がございました」


「……来客?」


 眉間に皺が寄る。今までこんな辺境の領地に訪ねてくる客人など、ヴィオラにはいなかったからだ。


「はい。何でもヴィオラお嬢様のもとで侍女をしていた者だと申しておりますが、いかがいたしましょうか?」


「……っ!!」


 次の瞬間、ヴィオラは息も忘れて部屋を飛び出していた。






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