第ニ十七話 帰還
「お父様たちが帰ってきたわ!!」
シリアの弾んだ声が、薄暗い研究施設の広間に響いた。思考を止めて思わず顔を上げると、先ほどまで静まり返っていた奥の通路から、複数の足音が近づいてきていた。
コツ、コツ、と硬い靴音が石造りの床を打つ。それに混じって、鎧の擦れる音や、誰かが言葉を交わす声が聞こえてくる。やがて、廊下の奥にぼんやりとした人影が浮かび上がった。
先頭を歩いていたガイアスの顔が見えた瞬間、ヴィオラの身体に張りつめていた緊張がほんの少しだけほどけた。手にした魔導灯の淡い光が、その厳しい横顔を照らしている。その後ろには数名の騎士と調査員たちが続いていた。
未知の場所での探索を終えたためだろう。誰もが疲労の色を浮かべている。それでも足取りには乱れがなく、調査団としての規律を崩してはいなかった。
(……ランは?見つかったのかしら?)
胸の奥が、きゅっと締まった。期待と不安が入り混じる。どうか無事でいてほしい。ただ、それだけを願っていた。
「……あれは?」
シオンが、ふと声を落とした。ガイアスの後方をじっと見つめる。騎士たちの間から、ひときわ大きな人影が現れた。ロウだ。
巨体を揺らしながら歩く彼の腕には、一人の少女が抱えられていた。小柄な身体に力なく垂れた腕。泥と埃にまみれた衣服。乱れた髪が顔の一部を覆い、その表情までは、まだはっきりと見えない。ただ、その身体がまったく動かないことだけが分かった。
「……まさか……」
遠目には眠っているのか、意識が無いのか、生死がはっきりしない。シオンの声が震え、嫌な予感が胸を駆け抜けた。近づくにつれて、その腕の中にいる少女の姿が少しずつ鮮明になる。
「……ラン!」
ロウの傍にシオンが慌てて駆け寄る。抱えている少女を見ると、驚いた表情をして身体を強張らせた。
「只今、帰還した」
「お父様!!」
「奥の牢獄で少女を一名、保護した。命に別状はない。今は眠っているだけだ」
(……生きてる!)
その事実が、何より嬉しかった。ここへ来てからずっと胸の奥に引っかかっていたものが、一つだけ取り除かれた。それだけで、ヴィオラの重く沈んでいた心が少しだけ晴れていく。
「ガッハハッハ!アークライト侯爵令息殿、心配するな。少し衰弱しているが、命には問題ない。この少女は知り合いだったか?」
ロウが朗らかに問う。きっと、深刻そうなシオンの表情を見て、あえてそう言ったのだろう。何気ない気遣いに、彼の優しさが滲み出ていた。
「……ディフェンソル卿、大変失礼致しました。……知り合いかと思ったのですが、人違いだったようです」
「……ん?そうかぁ?まあ、そう心配しなさんな!」
「はい……」
(シオン?)
どうしたのだろう?ランではなかったのだろうか?いや、未来視が間違うはずはない。しかし、シオンの様子は変だった。今朝は、ランに対してあんなにも露骨な執着心を見せていたのに、今はあっさりと引き下がっている。
彼の表情を読み取ろうと試みたけれど、ヴィオラが座っている位置からは離れていて、わからなかった。
「ところで……」
ガイアスの低い声が響いた。広間の空気が静かに変わり、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。まだ空間には、ところどころに魔力の残滓が浮かんでいる。結界が砕け散った場所には、淡い光の粒がまだ消えきらず、宙を漂っていた。
そして、ボロボロに引き裂かれた外套を身に纏っているアージェンを視界に入れると、ガイアスの眉間に深い皺が刻まれた。
「我々が奥を探索している間に、何があったのだ?」
問いかける声は静かだった。だが、その場にいた全員が、その言葉の重みを感じ取った。生徒会メンバーは顔を見合わせ、口を閉ざした。アージェンを抱く腕にわずかに力がこもっていく。
何があったのか……説明しなければならない。けれど、どこまで話せばいいのだろう?アージェンから突然瘴気が溢れ出してきたこと、クロノス因子のこと、実験体のこと、そして未来固定化計画。この施設で一体、何が行われていたのか。それらを一つ一つ口にしてしまえば、もう後戻りはできない。それに、自分たちもこの状況をきちんと飲み込めていないのだ。
何を説明すればいいのか。そんな迷いが生まれた時だった。
「私から説明します」
静かな声が割って入った。今まで一言も発していなかったザイデルバストが、一歩前へ出ていた。
(ザイデルバスト先生……?)
彼は落ち着いた表情で、迷いのない声で説明をし始めた。
「この施設に残されていた魔法陣の一つが突然暴走し、瘴気が溢れ出したのです」
「生徒三名がその影響に巻き込まれましたが、咄嗟に結界を張ったため、事なきを得ました」
ヴィオラは目を見開いた。その説明があまりにも自然すぎて、逆にとても不自然に感じた。まるで、それが本当に起きた出来事であるかのように、淡々と説明している。
(……違う)
そんな簡単な話ではない。ザイデルバスト先生も見ていた筈だ。それなのに、詳細や実態をヴィオラたちに確認をすることも、彼はしていなかった。
「我々が奥を調査している間に、こちらで魔力の異常反応を探知した。ヴィオラ嬢たちは、その影響に巻き込まれたというわけだな」
「はい。そうです」
「リュウール伯爵令息は怪我を負ったのか?」
ガイアスの眉間に皺が寄る。自分が率いる調査団で怪我人が出たとなれば、責任問題にもなりかねない。ましてや相手は魔導師団長の令息だ。事態を大きくするわけにはいかなかった。
「いえ、怪我はありません。彼は自分の身を守るため、そして周囲を巻き込まないために結界を展開しましたが、魔力を使い果たしてしまったようです」
「……そういうことか。無事ならば、よかった」
ガイアスはホッと一息を吐くと、表情を切り替えて辺りを見回した。
「要救助者二名の為、今日の調査はここで終了とする!陣形を整え、帰還する!!」
「はっ!!」
地蝕調査団は手際よく撤退準備を行う。ヴィオラの膝の上で眠っていたアージェンも、屈強な騎士が丁寧に担いで運んでくれた。
立ち上がると、ヴィオラは黙ってザイデルバストを見つめた。
――何かが、おかしい
彼の説明は、嘘ではないのかもしれないけれど、真実でもない。アージェンの身体から瘴気が溢れ出した異変。全てをただの「魔法陣の暴走」で片づけるには、あまりにも強引だった。
それなのに、ザイデルバストはそれ以上の説明をしようとしない。まるで、彼は何かを知っているようだった。そして、それを隠したがっている。そんな気がした。
「ヴィオラ!」
突然名前が呼ばれ、反射的に振り向いた。こちらへ駆けてくる人影に目を細める。ルシアンだった。いつもなら決して乱れることのない端正な姿が、今は僅かに崩れている。
「ヴィオラ、大丈夫か!?」
「……会長」
心なしかその声に焦りを感じる。彼はヴィオラの前まで来ると、息を整える間も惜しむように彼女の姿を見つめた。怪我がないか確かめるように、視線を走らせた。
「……顔色が悪い」
「少し疲れただけです」
「ならいいが……」
ようやくルシアンが息を吐いた。その表情には、心からの安堵が滲んでいた。
「君たちが結界の中に閉じ込められたと聞いたときは、本当に心配した」
「……」
ヴィオラは、何も答えられなかった。ルシアンは悪くない。それは分かっていた。彼はただ、自分たちの身を案じて駆けつけてくれた。第二王子としてではなく、ただ、一人の人間として。そのことは理解している。
だからこそ胸が苦しくて、彼の顔を見ることができなかった。アージェンの言葉が、頭から離れない。実験施設、未来固定化計画、王国によって行われていた、残酷な実験。ルシアンは何も関係ない。それでも、信じたいと思う相手が、今はどうしても『王族』という存在と切り離せない。
「ヴィオラ?どうした?」
ルシアンの優しい瞳が、自分を心配している。最初は彼からの好意に裏があると疑っていた。けれど、彼の素顔を見るうちに、徐々に彼の純粋な好意を素直に受け入れられるようになってきた。
しかし、今は素直になれなかった。
「……ごめんなさい」
「え?」
ヴィオラはゆっくりと目を伏せた。胸の奥に渦巻く感情を、どう言葉にすればいいのか分からない。怒っているわけではない。憎んでいるわけでもない。ただ今は、考える時間が欲しかった。
「今は少し一人で考えたいの」
溢れる想いを抑え込むように、ヴィオラは俯いた。あまりに重なる出来事に、今は心が耐えられない。少し頭を冷やす時間が必要だった。
ルシアンの瞳が大きく揺らぐ。何か言いかけて唇が僅かに動く。けれど、結局その言葉を飲み込んだ。
「……分かった」
絞り出すような声だった。その声に、ヴィオラの胸が締めつけられる。顔を上げることができない。見ればきっと、後悔するだろう。それでも、視界の端に映った彼の姿は、ひどく寂しそうだった。
(……ごめんなさい、会長)
心の中で、そう呟く。ルシアンが悪いわけではない。そんなことは、誰よりも分かっている。それでも今は、王国という存在そのものを、素直に信じることができなかった。そして、その事実が何よりもヴィオラ自身を苦しめていた。




